「アイヌ民族」とはどんな民族?迫害の歴史や生活、現在の姿も元大学教員が簡単にわかりやすく解説
平安時代のアイヌ民族は独自の文化を展開
平安時代になるとアイヌ民族は独自の文化を開花させます。それが擦文文化と呼ばれるもの。擦文とは土器の表面になる木のヘラで擦ったあとのこと。擦文土器は遺跡にて発掘されていますが、本州の土器とは違う味わいがありることが分かります。
土器については本州とは異なる進化をとげました。本州では調理用のものは模様をつけなくなりますが、アイヌ民族は装飾を重視。擦文土器には凝った装飾が施されました。それらの模様には独自の意味合いが付与され、後世に継承されました。
擦文文化の時代には北海道のアイヌ民族と本州の和人のあいだで活発に交易が行われました。アイヌ民族が本州から手に入れたのは鉄で作られたもの。動物の毛皮やオホーツク海で獲れた魚介類と引き換えに鉄製品を入手していたようです。本州とのかかわりの中で独自の文化を発展させていったことが分かりますね。
アイヌ民族の排斥が加速する江戸時代
徳川幕府が全国を統一したことにより1603年に江戸時代が始まります。その翌年、江戸幕府はアイヌ民族に自由に交易することを禁止。それによりアイヌ民族は北海道の豊かな自然を武器に富を得ることが難しくなりました。
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松前藩がアイヌ民族との交易を独占
北方エリアを支配していたのは松前藩。江戸幕府は1604年にアイヌ民族との交易を独占させることを決定しました。それによりアイヌ民族は自由に交易する手段を失います。松前藩がアイヌ民族に出したのは不利な交易条件ばかり。その結果、アイヌ民族は困窮していきました。
徐々に和人に対して反発心を強めていったアイヌ民族。ついに松前藩に対して蜂起しました。それがシャクシャイン戦争。松前藩が和解を申し出て、首長であるシャクシャインと酒の席を設けます。しかし松前藩は彼らを殺害。アイヌ民族に対する支配力を強めていきました。
もともとシャクシャイン戦争はアイヌのなかの2部族の抗争からスタート。その最中に松前藩に武器を貸して欲しいと要請を出します。松前藩は不要なトラブルに巻き込まれたくないと断りましたが、その帰路に使徒のひとりが死亡。それが松前藩による殺害という噂話が広まり、大規模な蜂起に展開しました。突然の蜂起に松前藩は対応ができずに100人以上もの和人が殺されました。
明治時代以降もアイヌ民族の苦難は続く
江戸幕府が倒れると明治政府により長く続いてきた鎖国が終焉。日本は開国します。江戸幕府と同じく明治政府もアイヌ民族を排斥。北海道の開拓を進めていきました。開拓使という北海道を開拓するための官庁が設置され、支配するだけではなくアイヌ文化の消滅を図りました。
明治政府が目指していたのは日本の文明化。すなわち西洋化です。そのうえでアイヌ文化は野蛮なものであると捉え、アイヌ語の使用を禁止したり文化の継承を制限したりするなどの政策を推進しました。このようにして独自の文化を営んでいたアイヌ民族は同化を強いられていきます。
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ロシアに住んでいるアイヌ民族
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アイヌ民族は日本の先住民族というイメージがありますが一部はロシアに住んでいます。アイヌ民族の認識は千島列島の先住民、それだけです。日本のみならずロシアも侵略者と捉えていました。しかしながらロシアもアイヌ民族をロシア国民であると主張するようになります。
ロシア極東の先住民族
ロシア極東に住んでいる先住民は、チュクチ、エスキモー、アレウト、コリャーク、イテリメン、エヴェンの6民族。アイヌ民族の一部はロシアで暮らしていましたが、ソ連時代にロシアからは消滅しているとして民族構成から削除されました。
アイヌはソ連時代からロシアでは虐待や虐殺が横行していたことを訴え、ロシアの民族構成にアイヌを戻すことを訴えました。しかしながらロシアはアイヌを自国の先住民族として認めない態度をとり続けていました。
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ロシアと日本の領土争いに利用?
アイヌ民族の位置づけは日本とロシアの領土争いに利用されている一面もあります。2018年にモスクワで開催されたロシア人権評議会では、北方領土とその周辺に住んでいるアイヌ民族はロシア固有の先住民族であると決定。一度は消滅を認定したものの、それを取り消すような決定を下しました。
そのような決定をした理由のひとつは日本との領土争い。日本ではアイヌ民族が住んでいるから北方領土は日本固有の領土であるとする見方もあります。そのような捉え方に対抗するためにロシアはアイヌ民族を自国の先住民として認定した可能性はあるでしょう。
アイヌ民族のキリスト教化
アイヌ民族は独自の文化や宗教を持っていました。しかし江戸時代ころから松前藩による支配の過程でキリスト教が布教されることがありました。本格的な布教が始まったのは明治時代。キリスト教に改宗するアイヌ民族も出てきました。
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ジョン・バチェラーの布教活動
アイヌ民族の研究とキリスト教の布教を熱心に行った人物はジョン・バチェラー。英国国教会系の宣教師です。最初に北海道に足を踏み入れていたウォルター・デニングの後を引き継いでアイヌ民族への布教活動を展開しました。
英国聖公会宣教協会の北海道地方部のアイヌ信者数は、1889 年の時点では5%程度。それが5年もすると40%、10年後には60%に増えていきます。英国聖公会宣教協会は北海道内にアイヌ学校を設立。そこでアイヌ語や小学校レベルの教育が行われました。
キリスト教の宣教師によるアイヌ研究
明治政府はアイヌ民族の同化政策を進め、その固有の文化を消滅させる政策を推進しました。そのなかでアイヌ文化の保護に大きく貢献したのがキリスト教の宣教師による研究活動です。さまざまな宣教師が北海道に上陸しましたが、なかでも有名なのがジョン・バチェラーでした。
アイヌ民族はもともと文字を持ちません。そのため文化や精神世界の外部への継承は困難でした。バチェラーはアイヌ英和事典を編纂、出版します。また生涯に渡ってアイヌ民族の保護を世界に訴えました。そのような功績からバチェラーは「アイヌ民族の父」と呼ばれています。
戦後、日本の大学などではアイヌ民族の研究が進んできました。その過程で研究用としてアイヌ民族の遺骨や副葬品を収集して保管していました。それは意に反するものであるとアイヌ団体は反発。長きに渡って遺骨の返還を求めてきました。現在は返還あるいは慰霊するなどの対応がとられています。アイヌ民族の遺骨は世界に散逸しており、相次いで返還されました。研究のためとはいえ研究室に保管することが問題視されたからです。
アイヌ民族の歴史は今でも続いている
アイヌ民族は過去に存在した先住民と捉えられがち。しかしながら今でも子孫やその支援者が文化の継承や過去の見直しを進めており、現在進行性で生活も営まれています。日本史を勉強するときは断片的にしか登場しません。しかしながら実際は日本列島で古くから生活を営んでいた、それが権力者により排除されてきたことは忘れてはならないでしょう。