「アイヌ民族」とはどんな民族?迫害の歴史や生活、現在の姿も元大学教員が簡単にわかりやすく解説
それではアイヌ民族とはどのような民族なのでしょうか。生活や現在の姿などを日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。
ライター/ひこすけ
アメリカの歴史と文化を専門とする元大学教員。先住民の歴史にも興味があり、気になることがあると調べている。今回は日本の先住民族と言われるアイヌ民族についてまとめてみた。
オホーツク海エリアで暮らしていたアイヌ民族
鳥居龍蔵(1870-1953) – 鳥居龍蔵 写真目録「東京大学総合研究資料館標本資料報告 第18号、1990」より転載、増補。 高知工科大学総合自然資源研究所総合研究所鳥居竜蔵資料赤部隆造資料、赤井部推進協議会 http://www.muse.or.jp/torii/page11.html, CC 表示-継承 4.0, リンクによる
アイヌ民族は長い間オホーツク海エリアで生活を営んできました。周囲とのかかわりも多く、毛皮や海産物などを中国で取引をして生計を立てていたと言われています。日本列島に住んでいた和人とは、米、漆器、鉄器などと交換。物々交換により生計を立てながら自足時給生活をしていました。
アイヌ民族の意味は「人間」
アイヌとは「人間」を意味する言葉。ここで言う人間とは、心がある自然世界の反対側に位置する概念としての人間。アイヌ民族のなかでは民族の違いはなく、ただ人間であるという認識がありました。後世になり民族の名称として使われるように。このような経緯は世界的にもめずらしいものでした。
またアイヌと呼べるのは行いの良い者だけ。犯罪を犯すなどの素行の悪い者はウェンペと呼ばれ、アイヌとは区別されました。アイヌのなかでも区別があり、北海道の太平洋岸東部に住んでいる人々はメナシクル。西部のアイヌはシュムクルと呼ばれていました。それぞれの集団には固有の文化があり、アイヌ内で呼び分けていました。
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アイヌ民族の呼ばれ方の変化
日本列島を支配している権力者によりアイヌ民族の呼ばれ方も変化。大和民族は自らの支配権の外側にいるアイヌ民族を「蝦夷」と呼んでいました。江戸時代の終わりになるとその名称は「土人」と変化。「その土地の人」という意味で、もともとは差別的なニュアンスはありませんでした。明治期を過ぎると「土人」は差別的に使われるようになります。
日本史の教科書ではたびたび「蝦夷」という言葉が登場するでしょう。「蝦夷征伐」という場合、アイヌ民族との対立を指すとする見方もありますが、本当にアイヌ民族だったのかは不明。大和民族以外の民族は日本列島の各地に散らばっており、どのような状況だったのかは謎に包まれています。
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平安時代までアイヌ民族は征伐の対象
東北地方に住んでいたアイヌ民族は、古代は朝廷により征伐される対象でした。古代の歴史では「蝦夷征伐」として、中央集権化されるなかで排斥される存在として位置付けられています。神話のなかにも蝦夷征伐らしき出来事が登場。神武天皇が即位するまえに道臣命が敵対する残党に勝利したとされています。ただこれは神話の域を出ません。
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日本武尊がアイヌ民族を征伐?
皇族のひとりである日本武尊(ヤマトタケル)もまたアイヌ民族の征伐に関わっている人物。日本武尊は九州の熊襲や東国を討伐したとされる神話上の英雄です。東征は当時とても恐れられており、最初に将軍に選ばれた人は怖がって逃げてしまいます。そこで白羽の矢が当たったのが日本武尊でした。ただこのとき日本武尊が征伐したのはアイヌ民族なのか敵対する勢力なのかは定かではありません。
現在の群馬県を拠点に力を持っていた豪族である上毛野氏もまたアイヌ民族を積極的に征伐。上毛野氏の古墳が群馬県に数多く残されており、どれだけ力を持っていたのかが分かります。さらには朝鮮半島にも軍を派遣。戦争にて功績をあげました。上毛野氏はこれらの征伐を重ねることで地位を高めていきました。
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