文治主義に向かう科挙制度
科挙によって文官をたくさん採用して軍人政治から文治主義への転換が図られたことも宋の改革の特徴。科挙が行われるようになってからも世襲の官僚はいましたが、宋の時代には圧倒的に科挙合格者が優勢となりました。
一方、カンニングなどの違反行為が増えてきたのもこの時代。その対策として答案の氏名を糊付けする、筆跡により人物を判定するなどの対策が導入されました。合格者が特定の地域に集中しないように地域ごとに定員が設けられたのも宋の時代です。
科挙に制約が生まれたのが元の時代
モンゴル帝国による元の時代には一時的に科挙が中止されていました。これはモンゴル人による漢民族知識人の排除が一因とされています。しかしながら、モンゴル人王侯などに取り入るなど、あの手のこの手で高級官僚になるルートを切り開いていました。
途中で科挙の制度は復活するものの合格者の定員は100名のみ。しかも蒙古人、色目人、漢人、南人それぞれ4分の1の割合とされました。元の時代の合格者はすべて合わせて1000人程度。しかし合格したものは破格の待遇を受けることができました。
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元を建てたモンゴル人は科挙にまったく興味なし。しかしながら中国化していく過程で、漢民族の強い希望を受け入れて科挙を復活させていきました。実力主義ではありましたが実際はモンゴル人が優遇されていたようです。
カンニングや替え玉受験を生んだ科挙
中国で高級官僚は日本における国家公務員よりもはるかに上の立場でした。そのため科挙に合格するためには手段を選ばず、カンニング、替え玉受験、賄賂は当たり前のように行われました。賄賂をもらった官僚は一生遊んで暮らせるほどの財を築くことも可能でした。
官僚は賄賂の9割を私財にできた
受験者やその親は税金の納付と称して賄賂を渡していました。古代の中国では財産について「公」と「私」の区別が曖昧。そのため1割を皇帝に上納すれば残りは懐に入れることができました。官僚のなかには賄賂だけで今の価値で数兆円レベルの財を成した人もいたようです。
これだけ賄賂が横行したのは科挙の試験がとても難しかったから。科挙を首席で合格すると有能な宰相になれるという話もありました。科挙に合格するためには記憶力があることは大前提。親がお金持ちである、子どものころから受験勉強をしていることも合格の要素となりました。
子どもたちは小さいころから科挙の試験合格に向けて猛勉強。ある子どもは5歳で塾通いを開始。6歳から『大学』『中庸』『論語』『孟子』『書経』と学びを深めていきました。このような勉強を20歳まで継続。無事合格しました。勉強方法はひたすら暗記と詩作。批判的精神や論理的思考とは無縁の試験でした。
科挙官僚を裏で支えたのが宦官
中国では科挙官僚と同じくらいに力を持っていたのが宦官。男性器を切除された役人で、皇帝の周辺でさまざまなサポートをする立場の人たちです。中国の歴代王朝の中核にいたことから皇帝と並ぶ大きな力を持っており、今では横柄で独占的な振る舞いをするイメージが定着しました。
宦官は男性器がないので子どもを作ることはできません。しかしながら養子を一人とることは可能でした。そのため宋代以降になると限られた宦官の一族によりその立場が独占されていました。皇帝周辺で問題が起こると科挙官僚と宦官は協力して解決にあたっていました。
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科挙に合格した唯一の日本人
科挙は女性や商工業者が受けられないなどの制約はありましたが、日本人が受験することは不可能ではありません。とはいえ科挙を受験する日本人は基本いませんでしたが唯一受験して合格した人がいます。それが阿倍仲麻呂です。
阿倍仲麻呂とはどんな人物?
阿倍仲麻呂が活躍したのは奈良時代。留学生として唐に渡ったときに科挙を受験、見事合格しました。その能力は群を抜いており皇帝にも気に入られていました。とくに文学界に関連する仕事が多く、唐を代表する詩人の李白とも交流を深めていました。
しかしながら日本に帰りたいという想いは強かったものの、次の遣唐使がやってきたあとも阿倍仲麻呂は船には乗りませんでした。日本へ帰る海路が非常に危険であること、皇帝にとってなくてはならない右腕だったことなどが、その理由として考えられます。
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阿倍仲麻呂についてはさまざまな伝説が残されています。唐の重臣に嫉妬された仲麻呂は、酔っ払った際に幽閉されてしまいました。それに怒った仲麻呂は断食を続けて憤死。そのまま赤鬼になったなんて話もあります。実際に仲麻呂が唐でどんな活躍をしたのかはよく分かっていません。しかし当時の日本のなかでは時代の最先端を行くグローバル人材だったことは間違いないでしょう。
日本では根付かなかった科挙制度
日本では科挙のような制度は長らく根付きませんでした。古くは聖徳太子がそれに類する制度を導入しています。聖徳太子が取り入れた「冠位十二階制度」は能力に応じて位を与えるというもの。当時は血縁重視の世襲制度が当たり前だったので聖徳太子の改革は画期的でした。
平安時代には課試という試験が行われましたが能力主義的な仕組みは定着せず。江戸幕府は武士限定で試験による登用の道を開きました。その結果、活躍の場のない旗本にも出世できるチャンスが生まれました。とはいえ血縁による世襲が多くを占めていました。
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