科挙って言葉を聞いたことはあるか?科挙とは、かつての中国で高級官僚を登用するために実施されていた試験制度のことを指す。壮絶な受験戦争が繰り広げられたことでも知られている。

科挙とはどんな制度だったのか?テストの内容や世界の流れの変化との関係などを世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史と文化を専門とする元大学教員。世界中の文化や風習に興味があり気になることがあると調べている。今回は世界史の教科書でもお馴染みの科挙についてまとめてみた。

登用を世襲から実力主義に変えた科挙

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Ming Dynasty Painting, パブリック・ドメイン, リンクによる

世界のどの国でも国家の中核に位置するポジションは世襲であることも少なくありませんでした。そんな世襲制度を大きく変えたのが科挙。試験の結果さえよければ上の立場になるチャンスが開かれました。そのため貴族の世襲が当たり前だったヨーロッパでも科挙は高く評価されていました。

合格により人生を変えられる科挙制度

科挙が行われたのは598年から1905年のあいだ。中国の歴史のうち、隋から清の時代までのあいだでした。その期間はなんと約1300年間。中国の主要な歴史の大部分に科挙が関わっています。科挙の制度は、日本、朝鮮、ベトナムにも広がっていきました。

合格するとどんな人でも高級官僚になれる道が開かれます。そのためその競争はかなり激しいものとなりました。何浪もして70歳を超えて合格する人がいるほど。一方あまりに受験戦争が激しく精神状態が悪くなる、ノイローゼで自ら命を絶つなどのケースもありました。

唐代末期の詩人であり、70歳を超えて科挙の試験を受けたのが曹松。黄巣の乱が起こったときに詠んだ歌「一将功成りて万骨枯る」はあまりに有名ですね。一人の将軍の名声の裏にはたくさんの兵士の犠牲がある、戦争のむなしさが表現されています。科挙の試験に受かったもののその後すぐに他界。官僚として活躍することはありませんでした。

科挙は隋の文帝により始められる

科挙をはじめたのは隋の文帝。それより前の六朝時代は高級官僚の地位は世襲制でした。文帝は優秀な人材を集めることが自らの地位を確固たるものにすると考え科挙の制度を導入。地方長官の推薦は必要とされたものの試験を重視する制度となりました。

隋は二代で終わりますが科挙制度は継続。試験内容は秀才、進士、明法、明書、明算などで、とくに重視されたのが秀才。しかし受験者が不合格になると推挙した地方長官も処罰されることもあって受験者が減少。そこで秀才は廃止されました。

宋から元にかけて科挙の位置づけが大きく変化

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唐が滅んだあと五代十国時代の戦乱を経て宋が建てられます。宋の政治家であり思想家である王安石が科挙の改革を実行。もともと詩文などの才能が重視。それが改革により経書・歴史・政治などに関して論じる力が重んじられるようになりました。

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文治主義に向かう科挙制度

科挙によって文官をたくさん採用して軍人政治から文治主義への転換が図られたことも宋の改革の特徴。科挙が行われるようになってからも世襲の官僚はいましたが、宋の時代には圧倒的に科挙合格者が優勢となりました。

一方、カンニングなどの違反行為が増えてきたのもこの時代。その対策として答案の氏名を糊付けする、筆跡により人物を判定するなどの対策が導入されました。合格者が特定の地域に集中しないように地域ごとに定員が設けられたのも宋の時代です。

科挙に制約が生まれたのが元の時代

モンゴル帝国による元の時代には一時的に科挙が中止されていました。これはモンゴル人による漢民族知識人の排除が一因とされています。しかしながら、モンゴル人王侯などに取り入るなど、あの手のこの手で高級官僚になるルートを切り開いていました。

途中で科挙の制度は復活するものの合格者の定員は100名のみ。しかも蒙古人、色目人、漢人、南人それぞれ4分の1の割合とされました。元の時代の合格者はすべて合わせて1000人程度。しかし合格したものは破格の待遇を受けることができました。

元を建てたモンゴル人は科挙にまったく興味なし。しかしながら中国化していく過程で、漢民族の強い希望を受け入れて科挙を復活させていきました。実力主義ではありましたが実際はモンゴル人が優遇されていたようです。

カンニングや替え玉受験を生んだ科挙

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中国で高級官僚は日本における国家公務員よりもはるかに上の立場でした。そのため科挙に合格するためには手段を選ばず、カンニング、替え玉受験、賄賂は当たり前のように行われました。賄賂をもらった官僚は一生遊んで暮らせるほどの財を築くことも可能でした。

官僚は賄賂の9割を私財にできた

受験者やその親は税金の納付と称して賄賂を渡していました。古代の中国では財産について「公」と「私」の区別が曖昧。そのため1割を皇帝に上納すれば残りは懐に入れることができました。官僚のなかには賄賂だけで今の価値で数兆円レベルの財を成した人もいたようです。

これだけ賄賂が横行したのは科挙の試験がとても難しかったから。科挙を首席で合格すると有能な宰相になれるという話もありました。科挙に合格するためには記憶力があることは大前提。親がお金持ちである、子どものころから受験勉強をしていることも合格の要素となりました。

子どもたちは小さいころから科挙の試験合格に向けて猛勉強。ある子どもは5歳で塾通いを開始。6歳から『大学』『中庸』『論語』『孟子』『書経』と学びを深めていきました。このような勉強を20歳まで継続。無事合格しました。勉強方法はひたすら暗記と詩作。批判的精神や論理的思考とは無縁の試験でした。

科挙官僚を裏で支えたのが宦官

中国では科挙官僚と同じくらいに力を持っていたのが宦官。男性器を切除された役人で、皇帝の周辺でさまざまなサポートをする立場の人たちです。中国の歴代王朝の中核にいたことから皇帝と並ぶ大きな力を持っており、今では横柄で独占的な振る舞いをするイメージが定着しました。

宦官は男性器がないので子どもを作ることはできません。しかしながら養子を一人とることは可能でした。そのため宋代以降になると限られた宦官の一族によりその立場が独占されていました。皇帝周辺で問題が起こると科挙官僚と宦官は協力して解決にあたっていました。

科挙に合格した唯一の日本人

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科挙は女性や商工業者が受けられないなどの制約はありましたが、日本人が受験することは不可能ではありません。とはいえ科挙を受験する日本人は基本いませんでしたが唯一受験して合格した人がいます。それが阿倍仲麻呂です。

阿倍仲麻呂とはどんな人物?

阿倍仲麻呂が活躍したのは奈良時代。留学生として唐に渡ったときに科挙を受験、見事合格しました。その能力は群を抜いており皇帝にも気に入られていました。とくに文学界に関連する仕事が多く、唐を代表する詩人の李白とも交流を深めていました。

しかしながら日本に帰りたいという想いは強かったものの、次の遣唐使がやってきたあとも阿倍仲麻呂は船には乗りませんでした。日本へ帰る海路が非常に危険であること、皇帝にとってなくてはならない右腕だったことなどが、その理由として考えられます。

阿倍仲麻呂についてはさまざまな伝説が残されています。唐の重臣に嫉妬された仲麻呂は、酔っ払った際に幽閉されてしまいました。それに怒った仲麻呂は断食を続けて憤死。そのまま赤鬼になったなんて話もあります。実際に仲麻呂が唐でどんな活躍をしたのかはよく分かっていません。しかし当時の日本のなかでは時代の最先端を行くグローバル人材だったことは間違いないでしょう。

日本では根付かなかった科挙制度

日本では科挙のような制度は長らく根付きませんでした。古くは聖徳太子がそれに類する制度を導入しています。聖徳太子が取り入れた「冠位十二階制度」は能力に応じて位を与えるというもの。当時は血縁重視の世襲制度が当たり前だったので聖徳太子の改革は画期的でした。

平安時代には課試という試験が行われましたが能力主義的な仕組みは定着せず。江戸幕府は武士限定で試験による登用の道を開きました。その結果、活躍の場のない旗本にも出世できるチャンスが生まれました。とはいえ血縁による世襲が多くを占めていました。

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外国との衝突により科挙制度の限界が露呈

Destroying Chinese war junks, by E. Duncan (1843).jpg
エドワード・ダンカン - http://ocw.mit.edu/ans7870/21f/21f.027/opium_wars_01/ow1_gallery/pages/1841_0792_nemesis_jm_nmm.htm, パブリック・ドメイン, リンクによる

アヘン戦争など外国との衝突が増えてくるにつれて科挙による登用制度の限界が露呈していきます。中国は歴史が長く国土が広いこともあって、おそらく軍事的にも強い力を持っているだろうと「眠れる獅子」と恐れられていました。ところがいざ戦争になるとその差が歴然となったのです。

中国とイギリスのあいだで起こったアヘン戦争

イギリスはインドで作ったアヘンを清に輸出。それにより清ではアヘン中毒者が大量に溢れました。それを問題視した清はアヘンを破棄。輸入を全面的に禁止する決定を下しました。そこでイギリスは圧力をかけるようになり、1840年にアヘン戦争に発展していきました。

アヘン戦争は清の敗北で片が付きましたが国家間の軍事力の差は明白。科挙制度は中国国内では上手くいっていましたが、試験は思想や文学などの知識中心。アヘン戦争では、西洋の列強諸国の最新の武器に科挙官僚も宦官も太刀打ちすることができませんでした

清は何度もアヘン禁止令を出しますが官僚制度そのものが腐敗しており、なかなか排除できませんでした。賄賂を貰うことが常習化していることもあり、表面的にはアヘンは禁止されているものの、さまざまなルートを駆使して密輸。その際に高級官僚が賄賂と共にこっそり道を開いていました。長く続く科挙制度のより官僚の世界は機能不全を起こしていたと言えるでしょう。

日清戦争の敗北により科挙が廃止

追い打ちをかけたのが日清戦争。中国は格下と思っていた日本に敗北します。そこで清朝の末期、政権を担っていた西太后が科挙制度を廃止することを決断。科挙は中国の1000年を超える長い歴史を終えました。

西太后に科挙の廃止を提案したのが思想家で政治家の康有為。「日本には科挙制度はないが優秀な人物がたくさんいる」と訴えました。日本の明治維新をモデルとする立憲君主政の確立を目指す彼の考え方の一部は、末期の清にて採用されました。

受験戦争は科挙の名残?

科挙合格に向けて当時の人々は命を削って勉学に励んでいました。ただ実際に登用されるためには賄賂などの口利きが必要というのも現実。実力主義ではあるものの汚職にまみれている一面もあったと言えるでしょう。今でも中国は超学歴社会。役人の汚職が問題視されることも少なくありません。現在の日本の受験は厳しい部分もありますが、ある意味平等。過酷ではありますが幸せなことかもしれませんね。

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中国の過酷な受験戦争「科挙」とは?歴史や試験内容、制度廃止のきっかけも元大学教員が簡単に分かりやすく解説

文治主義に向かう科挙制度

科挙によって文官をたくさん採用して軍人政治から文治主義への転換が図られたことも宋の改革の特徴。科挙が行われるようになってからも世襲の官僚はいましたが、宋の時代には圧倒的に科挙合格者が優勢となりました。

一方、カンニングなどの違反行為が増えてきたのもこの時代。その対策として答案の氏名を糊付けする、筆跡により人物を判定するなどの対策が導入されました。合格者が特定の地域に集中しないように地域ごとに定員が設けられたのも宋の時代です。

科挙に制約が生まれたのが元の時代

モンゴル帝国による元の時代には一時的に科挙が中止されていました。これはモンゴル人による漢民族知識人の排除が一因とされています。しかしながら、モンゴル人王侯などに取り入るなど、あの手のこの手で高級官僚になるルートを切り開いていました。

途中で科挙の制度は復活するものの合格者の定員は100名のみ。しかも蒙古人、色目人、漢人、南人それぞれ4分の1の割合とされました。元の時代の合格者はすべて合わせて1000人程度。しかし合格したものは破格の待遇を受けることができました。

元を建てたモンゴル人は科挙にまったく興味なし。しかしながら中国化していく過程で、漢民族の強い希望を受け入れて科挙を復活させていきました。実力主義ではありましたが実際はモンゴル人が優遇されていたようです。

カンニングや替え玉受験を生んだ科挙

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中国で高級官僚は日本における国家公務員よりもはるかに上の立場でした。そのため科挙に合格するためには手段を選ばず、カンニング、替え玉受験、賄賂は当たり前のように行われました。賄賂をもらった官僚は一生遊んで暮らせるほどの財を築くことも可能でした。

官僚は賄賂の9割を私財にできた

受験者やその親は税金の納付と称して賄賂を渡していました。古代の中国では財産について「公」と「私」の区別が曖昧。そのため1割を皇帝に上納すれば残りは懐に入れることができました。官僚のなかには賄賂だけで今の価値で数兆円レベルの財を成した人もいたようです。

これだけ賄賂が横行したのは科挙の試験がとても難しかったから。科挙を首席で合格すると有能な宰相になれるという話もありました。科挙に合格するためには記憶力があることは大前提。親がお金持ちである、子どものころから受験勉強をしていることも合格の要素となりました。

子どもたちは小さいころから科挙の試験合格に向けて猛勉強。ある子どもは5歳で塾通いを開始。6歳から『大学』『中庸』『論語』『孟子』『書経』と学びを深めていきました。このような勉強を20歳まで継続。無事合格しました。勉強方法はひたすら暗記と詩作。批判的精神や論理的思考とは無縁の試験でした。

科挙官僚を裏で支えたのが宦官

中国では科挙官僚と同じくらいに力を持っていたのが宦官。男性器を切除された役人で、皇帝の周辺でさまざまなサポートをする立場の人たちです。中国の歴代王朝の中核にいたことから皇帝と並ぶ大きな力を持っており、今では横柄で独占的な振る舞いをするイメージが定着しました。

宦官は男性器がないので子どもを作ることはできません。しかしながら養子を一人とることは可能でした。そのため宋代以降になると限られた宦官の一族によりその立場が独占されていました。皇帝周辺で問題が起こると科挙官僚と宦官は協力して解決にあたっていました。

科挙に合格した唯一の日本人

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科挙は女性や商工業者が受けられないなどの制約はありましたが、日本人が受験することは不可能ではありません。とはいえ科挙を受験する日本人は基本いませんでしたが唯一受験して合格した人がいます。それが阿倍仲麻呂です。

阿倍仲麻呂とはどんな人物?

阿倍仲麻呂が活躍したのは奈良時代。留学生として唐に渡ったときに科挙を受験、見事合格しました。その能力は群を抜いており皇帝にも気に入られていました。とくに文学界に関連する仕事が多く、唐を代表する詩人の李白とも交流を深めていました。

しかしながら日本に帰りたいという想いは強かったものの、次の遣唐使がやってきたあとも阿倍仲麻呂は船には乗りませんでした。日本へ帰る海路が非常に危険であること、皇帝にとってなくてはならない右腕だったことなどが、その理由として考えられます。

阿倍仲麻呂についてはさまざまな伝説が残されています。唐の重臣に嫉妬された仲麻呂は、酔っ払った際に幽閉されてしまいました。それに怒った仲麻呂は断食を続けて憤死。そのまま赤鬼になったなんて話もあります。実際に仲麻呂が唐でどんな活躍をしたのかはよく分かっていません。しかし当時の日本のなかでは時代の最先端を行くグローバル人材だったことは間違いないでしょう。

日本では根付かなかった科挙制度

日本では科挙のような制度は長らく根付きませんでした。古くは聖徳太子がそれに類する制度を導入しています。聖徳太子が取り入れた「冠位十二階制度」は能力に応じて位を与えるというもの。当時は血縁重視の世襲制度が当たり前だったので聖徳太子の改革は画期的でした。

平安時代には課試という試験が行われましたが能力主義的な仕組みは定着せず。江戸幕府は武士限定で試験による登用の道を開きました。その結果、活躍の場のない旗本にも出世できるチャンスが生まれました。とはいえ血縁による世襲が多くを占めていました。

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