なぜ鳩山一郎は公職追放された?その理由を鳩山一郎の功績とともに歴史好きライターが簡単にわかりやすく解説
バカヤロー解散
鳩山一郎が公職追放で就任できなかった首相の座には、吉田茂が収まりました。吉田は1946(昭和21)年から第1次吉田内閣を率いた後に、1948年から第2・3・4次内閣を組織して、長期政権を樹立することになります。吉田内閣では、サンフランシスコ講和条約の発効や、日米安保条約の締結などを実現させました。
1953(昭和28)年、社会党の西村栄一議員と吉田が衆議院予算委員会で質疑応答。吉田が「バカ野郎」と呟いたのを西村が聞き逃さず、その発言を巡って騒動となりました。そのため、野党が吉田内閣への不信任案を提出すると、鳩山一郎のグループが離反。賛成票を投じ、いわゆる「バカヤロー解散」を実現させました。
自由民主党の結成
バカヤロー解散後の総選挙で吉田茂が率いる自由党は少数与党となりましたが、進歩党との閣外協力で第5次吉田内閣が発足します。しかし、造船疑獄で支持率を大きく下げ、1954(昭和29)年に吉田内閣は総辞職に追い込まれました。その後に成立したのが、第1次鳩山一郎内閣だったのです。
1955(昭和30)年、当時の日本民主党総裁だった鳩山一郎は、吉田茂が去った後の自由党と合流します。2つの党による保守合同が実現して自由民主党が結成され、初代総裁には鳩山が就任しました。それ以降、与党の自由民主党と野党第一党の日本社会党が議席の大半を占める、55年体制が確立されていきます。
日ソ共同宣言に調印
鳩山一郎内閣は、内閣改造と自民党結成にともなう首班指名選挙を経て、第3次内閣までの2年間ほど続きました。1956(昭和31)年10月、鳩山は自らソ連を訪問して、フルシチョフ第一書記らと会談します。モスクワで日ソ共同宣言に調印して、日本とソ連の間にあった戦争状態を完全に終結させました。
日ソ共同宣言には、ソ連が日本の国連加盟を支持することなども盛り込まれています。その結果、1956年12月に日本の国連加盟が承認されることになったのです。日本のソ連との国交回復や国連加盟を実現させると、鳩山は首相辞任を発表。自民党総裁も辞めて、政界の第一線から退きました。
鳩山一郎は統帥権干犯問題で公職追放とされているが真相は謎
鳩山一郎は、戦後まもなくに首相となる可能性もありましたが、公職追放の処分を受けたために実現しませんでした。戦前に国会で統帥権干犯問題を追及したことが原因とされています。しかし、GHQが鳩山の発言を危険視していたなどの説もあり、その真相は定かではありません。その後、公職追放処分が解除された鳩山は首相となり、日本の国連加盟などを実現させました。














