なぜ鳩山一郎は公職追放された?その理由を鳩山一郎の功績とともに歴史好きライターが簡単にわかりやすく解説
田中義一内閣で内閣書記官長に
1924(大正13)年に立憲政友会は分裂し、鳩山一郎は離党して政友本党に合流します。しかし、すぐに政友会に復帰。当時立憲政友会の総裁だった田中義一に抜擢されて、幹事長に就任しました。復帰早々で鳩山が重用されたことに、反発した人もいたと伝えられます。
田中義一による鳩山一郎の重用は、それだけには留まりませんでした。1927(昭和2)年に田中義一が首相になると、内閣を立憲政友会の人事で固めます。田中は鳩山に内閣書記官長というポストを与えました。現在でいえば、内閣官房長官にあたる役職です。
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2度の文部大臣と滝川事件
1931(昭和6)年に犬養毅が首相となり、鳩山一郎は文部大臣として入閣します。しかし、五・一五事件で犬養首相が暗殺されると、高橋是清大蔵大臣が臨時総理に。すぐに斎藤実が首相となりますが、鳩山は文部大臣を留任することになりました。しかし、1933(昭和8)年に滝川事件(京大事件とも)が発生します。
鳩山文部大臣が京都帝国大学に対して、京大教授の滝川幸辰を罷免するよう要求しました。滝川が危険思想を広めていると、一方的に決め付けたからです。京大は滝川教授を休職処分にしましたが、法学部の全教官が辞表を提出して抗議しました。結局、3分の2ほどの教官が辞職する事態となっています。
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組閣直前に公職追放
終戦後の鳩山一郎は東京に戻り、自ら初代総裁となって日本自由党を結成します。1946(昭和21)年に戦後初の衆議院総選挙が行われると、日本自由党が第1党となりました。本来であれば、鳩山が首相になるのが当然ですが、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から公職追放の処分が下されたのです。
自ら率いた党が総選挙で第1党になったにもかかわらず、鳩山は公職追放となったために、首相に就任できませんでした。代わりに首相となったのが、幣原喜重郎内閣で外務大臣を務めていた吉田茂です。当時はまだ日本国憲法が施行されていなかったため、大命を拝した吉田が首相になりました。
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GHQが指示した公職追放とは
公職追放とは、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が指令したことで、特定の人物が公職に就くことを禁じたものです。ここでいう公職とは、国や地方の議員や、官公庁や地方自治体の職員だけではありませんでした。特定の企業や報道機関なども含んでいたのが特徴です。
公職追放は、1945(昭和20)年に発せられたポツダム宣言に基づいて実行されました。「日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する」という旨の条文があったのです。「過ち」をした者を「永久に除去」する目的で、GHQの指令により公職追放が行われました。
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公職追放となった人は?
1946(昭和21)年1月、GHQから公職追放令が日本の政府に通達されました。追放の対象者は、A項からG項までの7種類に分類。戦争犯罪人・軍人・大政翼賛会の指導者・占領地の行政長官などが対象とされました。対象となった人数は20万人を超え、その多くが軍人や政治家でした。
公職追放の対象になったのは、鳩山一郎の他にも岡田啓介・鈴木貫太郎・東久邇宮稔彦王・石橋湛山・岸信介といった、首相経験者(あるいは後に首相となる者)が多く含まれていました。当時の幣原喜重郎内閣からも、数名が公職追放の対象に。総辞職する可能性もありましたが、一部の閣僚を入れ替える内閣改造で乗り切っています。
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統帥権干犯問題
鳩山一郎が公職追放となった理由が、1930(昭和5)年の統帥権干犯問題にあったとされます。ロンドン海軍軍縮条約により、日本は海軍を軍縮することになっていました。しかし、この決定に軍部や野党らが反発します。さらに、与党の立憲民政党と野党の立憲政友会は、それ以前から政治理念などでの対立が顕著でした。
立憲政友会の中で、特に統帥権干犯問題を糾弾していたのが鳩山一郎だったのです。軍令部の反対を無視して兵力量を決定することは天皇の権限である日本軍の統帥権を犯すとして、鳩山は当時の政府を批判しました。そのことが戦争に加担したものと問題視され、鳩山は公職追放となったのです。
公職追放の解除と政界復帰
鳩山一郎は統帥権干犯問題で公職追放になったとされますが、実は公職追放が恣意的に利用されたとする説もあります。そもそも、鳩山は政府を批判するために統帥権を持ち出したのであり、戦争を支持したわけではなかったはずです。また、鳩山がGHQを批判したから公職追放の対象になったという説もあり、何らかの力が働いたという疑念を払拭できません。
公職追放は、1949(昭和24)年頃から次第に解除されるようになります。さらに、1952(昭和27)年のサンフランシスコ講和条約締結により、公職追放は自然消滅しました。鳩山一郎は、1951(昭和26)年に政府から公職追放の解除が発表され、政界復帰を果たします。
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