今回は、鳩山一郎について学んでいこう。

鳩山一郎は自由民主党の初代総裁となり、3度の鳩山内閣を成立させた。ですが、その前にも首相になるチャンスはあったのに、公職追放の処分を受けてしまった。なぜそんなことが起きたのでしょうか。

鳩山一郎が公職追放となった理由を、鳩山一郎の功績とともに日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

鳩山一郎が政界入りするまで

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まずは、鳩山一郎が生まれてから政界入りするまでを簡単に振り返ってみましょう。

元祖二世議員

鳩山一郎の子孫には鳩山由紀夫元首相と鳩山邦夫元法務大臣がいます。この兄弟は、世襲議員の代表格としても知られているでしょう。しかし、兄弟の祖父である鳩山一郎も実は二世議員だったのです。つまり、鳩山由紀夫と鳩山邦夫は議員一族の4代目となります。

鳩山一郎は1883(明治16)年に現在の東京都新宿区で生まれました。父の鳩山和夫は法学博士で、後に弁護士や衆議院議員を務めています。一郎も法学を学び東大を卒業した後に当時父が設立していた弁護士事務所に勤務していました。その後も父と同じような道を歩むようになります。

東京市会議員から衆議院議員へ

1911(明治44)当時鳩山一郎はまだ20代でしたが父の和夫が急死します。現代のルールでは禁止されていますが、当時和夫は弁護士で、衆議院議員と東京市会議員を兼務していました。一郎は父の死去にともなう東京市会議員の補欠選挙に立候補見事に当選して政界入りを果たしました

1915(大正4)鳩山一郎は立憲政友会公認で衆議院総選挙に立候補し当選します。当時の立憲政友会は原敬が総裁となっており、1918(大正7)年には初の本格的政党内閣を組織しました。しかし、1921(大正10)年に原敬が暗殺されると立憲政友会で内紛が発生鳩山は立憲政友会を離党しました

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戦前の鳩山一郎

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衆議院議員となった鳩山一郎は、戦前にはどのような政治活動を行っていたのでしょうか。

田中義一内閣で内閣書記官長に

1924(大正13)年に立憲政友会は分裂し鳩山一郎は離党して政友本党に合流します。しかし、すぐに政友会に復帰当時立憲政友会の総裁だった田中義一に抜擢されて幹事長に就任しました。復帰早々で鳩山が重用されたことに、反発した人もいたと伝えられます。

田中義一による鳩山一郎の重用は、それだけには留まりませんでした。1927(昭和2)年に田中義一が首相になると、内閣を立憲政友会の人事で固めます。田中は鳩山に内閣書記官長というポストを与えました。現在でいえば、内閣官房長官にあたる役職です。

2度の文部大臣と滝川事件

1931(昭和6)年に犬養毅が首相となり鳩山一郎は文部大臣として入閣します。しかし、五・一五事件で犬養首相が暗殺されると、高橋是清大蔵大臣が臨時総理に。すぐに斎藤実が首相となりますが、鳩山は文部大臣を留任することになりました。しかし、1933(昭和8)年に滝川事件(京大事件とも)が発生します

鳩山文部大臣が京都帝国大学に対して京大教授の滝川幸辰を罷免するよう要求しました。滝川が危険思想を広めていると、一方的に決め付けたからです。京大は滝川教授を休職処分にしましたが法学部の全教官が辞表を提出して抗議しました。結局、3分の2ほどの教官が辞職する事態となっています。

鳩山一郎が対象となった「公職追放」とは

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鳩山一郎は戦後すぐに政治家として復帰しますが、公職追放処分を受けます。いったい何が起きたのでしょうか。

組閣直前に公職追放

終戦後の鳩山一郎は東京に戻り自ら初代総裁となって日本自由党を結成します。1946(昭和21)年に戦後初の衆議院総選挙が行われると、日本自由党が第1党となりました。本来であれば、鳩山が首相になるのが当然ですが、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から公職追放の処分が下されたのです

自ら率いた党が総選挙で第1党になったにもかかわらず、鳩山は公職追放となったために首相に就任できませんでした代わりに首相となったのが幣原喜重郎内閣で外務大臣を務めていた吉田茂です。当時はまだ日本国憲法が施行されていなかったため、大命を拝した吉田が首相になりました。

GHQが指示した公職追放とは

公職追放とはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が指令したことで特定の人物が公職に就くことを禁じたものです。ここでいう公職とは、国や地方の議員や官公庁や地方自治体の職員だけではありませんでした特定の企業や報道機関なども含んでいたのが特徴です

公職追放は1945(昭和20)年に発せられたポツダム宣言に基づいて実行されました。「日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する」という旨の条文があったのです。「過ち」をした者を「永久に除去」する目的でGHQの指令により公職追放が行われました

公職追放となった人は?

1946(昭和21)年1月GHQから公職追放令が日本の政府に通達されました。追放の対象者は、A項からG項までの7種類に分類。戦争犯罪人・軍人・大政翼賛会の指導者・占領地の行政長官などが対象とされました対象となった人数は20万人を超えその多くが軍人や政治家でした

公職追放の対象になったのは鳩山一郎の他にも岡田啓介・鈴木貫太郎・東久邇宮稔彦王・石橋湛山・岸信介といった首相経験者(あるいは後に首相となる者)が多く含まれていました。当時の幣原喜重郎内閣からも、数名が公職追放の対象に。総辞職する可能性もありましたが、一部の閣僚を入れ替える内閣改造で乗り切っています。

なぜ鳩山一郎は公職追放となったのか

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では、なぜ鳩山一郎は公職追放の対象となったのでしょうか。

統帥権干犯問題

鳩山一郎が公職追放となった理由が1930(昭和5)年の統帥権干犯問題にあったとされますロンドン海軍軍縮条約により日本は海軍を軍縮することになっていました。しかし、この決定に軍部や野党らが反発します。さらに、与党の立憲民政党と野党の立憲政友会は、それ以前から政治理念などでの対立が顕著でした。

立憲政友会の中で特に統帥権干犯問題を糾弾していたのが鳩山一郎だったのです軍令部の反対を無視して兵力量を決定することは天皇の権限である日本軍の統帥権を犯すとして鳩山は当時の政府を批判しました。そのことが戦争に加担したものと問題視され、鳩山は公職追放となったのです。

公職追放の解除と政界復帰

鳩山一郎は統帥権干犯問題で公職追放になったとされますが、実は公職追放が恣意的に利用されたとする説もあります。そもそも、鳩山は政府を批判するために統帥権を持ち出したのであり、戦争を支持したわけではなかったはずです。また、鳩山がGHQを批判したから公職追放の対象になったという説もあり何らかの力が働いたという疑念を払拭できません

公職追放は1949(昭和24)年頃から次第に解除されるようになります。さらに、1952(昭和27)年のサンフランシスコ講和条約締結により、公職追放は自然消滅しました。鳩山一郎は1951(昭和26)年に政府から公職追放の解除が発表され政界復帰を果たします

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鳩山一郎内閣の成立

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公職追放処分が解けた鳩山一郎は、すぐに首相にまで上り詰めます。最後は、総理大臣としての鳩山一郎を見てみましょう。

バカヤロー解散

鳩山一郎が公職追放で就任できなかった首相の座には吉田茂が収まりました。吉田は1946(昭和21)年から第1次吉田内閣を率いた後に、1948年から第2・3・4次内閣を組織して、長期政権を樹立することになります。吉田内閣ではサンフランシスコ講和条約の発効や日米安保条約の締結などを実現させました

1953(昭和28)社会党の西村栄一議員と吉田が衆議院予算委員会で質疑応答吉田が「バカ野郎」と呟いたのを西村が聞き逃さずその発言を巡って騒動となりました。そのため、野党が吉田内閣への不信任案を提出すると、鳩山一郎のグループが離反賛成票を投じいわゆる「バカヤロー解散」を実現させました

自由民主党の結成

バカヤロー解散後の総選挙で吉田茂が率いる自由党は少数与党となりましたが、進歩党との閣外協力で第5次吉田内閣が発足します。しかし、造船疑獄で支持率を大きく下げ1954(昭和29)年に吉田内閣は総辞職に追い込まれましたその後に成立したのが第1次鳩山一郎内閣だったのです

1955(昭和30)当時の日本民主党総裁だった鳩山一郎は吉田茂が去った後の自由党と合流します2つの党による保守合同が実現して自由民主党が結成され初代総裁には鳩山が就任しました。それ以降、与党の自由民主党と野党第一党の日本社会党が議席の大半を占める、55年体制が確立されていきます。

日ソ共同宣言に調印

鳩山一郎内閣は、内閣改造と自民党結成にともなう首班指名選挙を経て、第3次内閣までの2年間ほど続きました。1956(昭和31)年10月鳩山は自らソ連を訪問してフルシチョフ第一書記らと会談しますモスクワで日ソ共同宣言に調印して日本とソ連の間にあった戦争状態を完全に終結させました

日ソ共同宣言には、ソ連が日本の国連加盟を支持することなども盛り込まれています。その結果、1956年12月に日本の国連加盟が承認されることになったのです日本のソ連との国交回復や国連加盟を実現させると鳩山は首相辞任を発表。自民党総裁も辞めて、政界の第一線から退きました。

鳩山一郎は統帥権干犯問題で公職追放とされているが真相は謎

鳩山一郎は、戦後まもなくに首相となる可能性もありましたが、公職追放の処分を受けたために実現しませんでした。戦前に国会で統帥権干犯問題を追及したことが原因とされています。しかし、GHQが鳩山の発言を危険視していたなどの説もあり、その真相は定かではありません。その後、公職追放処分が解除された鳩山は首相となり、日本の国連加盟などを実現させました。

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現代社会

なぜ鳩山一郎は公職追放された?その理由を鳩山一郎の功績とともに歴史好きライターが簡単にわかりやすく解説

今回は、鳩山一郎について学んでいこう。

鳩山一郎は自由民主党の初代総裁となり、3度の鳩山内閣を成立させた。ですが、その前にも首相になるチャンスはあったのに、公職追放の処分を受けてしまった。なぜそんなことが起きたのでしょうか。

鳩山一郎が公職追放となった理由を、鳩山一郎の功績とともに日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

鳩山一郎が政界入りするまで

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まずは、鳩山一郎が生まれてから政界入りするまでを簡単に振り返ってみましょう。

元祖二世議員

鳩山一郎の子孫には鳩山由紀夫元首相と鳩山邦夫元法務大臣がいます。この兄弟は、世襲議員の代表格としても知られているでしょう。しかし、兄弟の祖父である鳩山一郎も実は二世議員だったのです。つまり、鳩山由紀夫と鳩山邦夫は議員一族の4代目となります。

鳩山一郎は1883(明治16)年に現在の東京都新宿区で生まれました。父の鳩山和夫は法学博士で、後に弁護士や衆議院議員を務めています。一郎も法学を学び東大を卒業した後に当時父が設立していた弁護士事務所に勤務していました。その後も父と同じような道を歩むようになります。

東京市会議員から衆議院議員へ

1911(明治44)当時鳩山一郎はまだ20代でしたが父の和夫が急死します。現代のルールでは禁止されていますが、当時和夫は弁護士で、衆議院議員と東京市会議員を兼務していました。一郎は父の死去にともなう東京市会議員の補欠選挙に立候補見事に当選して政界入りを果たしました

1915(大正4)鳩山一郎は立憲政友会公認で衆議院総選挙に立候補し当選します。当時の立憲政友会は原敬が総裁となっており、1918(大正7)年には初の本格的政党内閣を組織しました。しかし、1921(大正10)年に原敬が暗殺されると立憲政友会で内紛が発生鳩山は立憲政友会を離党しました

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