ギリシャ世界史

簡単にわかる「アレクサンドロス大王」!東へ大遠征!世界征服を成し遂げた大王を歴史オタクがわかりやすく解説

2.いざ「東方遠征」!アレクサンドロス大王の世界征服

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玉座につき、ギリシャでの立場を強固にしたアレクサンドロス大王は、いよいよ「東方遠征」を開始します。最初に立ち向かったのは東の大国アケメネス朝ペルシャ。これまでもたびたびギリシャにちょっかいを出していましたね。

イラン高原を中心とするアケメネス朝ペルシャの最大領土は、東はインダス川、西はエジプト、そして、マケドニア東部の一部にまで及びました。アレクサンドロス大王がギリシャで最も偉い王だとしても、ペルシャはさらにその上を行く国家だったのです。

最初の大敵!大国ペルシャと開戦

紀元前334年、アレクサンドロス大王は大軍を率いて小アジアへ遠征を開始し、ペルシャとの戦いの火蓋を切って落としました。

最初の「グラニコス川の戦い」は数でこそペルシャに劣っていましたが、アレクサンドロス大王は軍略と戦術に関しては天才の名をほしいままにする勇将です。戦場はグラニコス川を挟んで展開されていましたが、アレクサンドロス大王は騎兵を率いて渡り、自ら投げ槍で敵将を仕留め、ペルシャ軍を壊滅させたのでした。

二番目の大戦場!数的不利を覆した「イッソスの戦い」

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不明 – 自ら撮影 次のものによる: Berthold Werner, 国立考古学博物館 (イタリア), 2013年5月, パブリック・ドメイン, リンクによる

「グラニコス川の戦い」で負けたペルシャ側は非常に困った事態に陥りました。なにせ、この戦いに参加させたのはペルシャの精鋭部隊。つまり、ペルシャで一番強い軍隊が最初に負けてしまったのです。

アレクサンドロス大王は小アジアをさらに東へと遠征を続けますが、ペルシャ側はそのような状況なので次々と降伏していきました。

そうして、紀元前333年。アレクサンドロス大王率いるマケドニア軍約4万人と、ペルシャの王・ダレイオス3世率いるペルシャ軍約10万人が「イッソスの戦い」でぶつかります。今回も数ではペルシャに劣るマケドニアでしたが、苦戦しながらもアレクサンドロス大王自らダレイオス3世へ攻撃し、たまらずダレイオス3世は逃亡。ペルシャ軍は敗走し、アレクサンドロス大王は勝利を収めたのでした。

ダレイオス3世の死とペルシャの滅亡

ダレイオス3世は命からがら戦場からの逃走に成功し、和睦を申し出ましたが、アレクサンドロス大王はこれを拒否。さらなる戦いに備えなければならなくなりました。

一方、アレクサンドロス大王は一時南へと進軍し、あっさりとエジプトを占領します。エジプトはアレクサンドロス大王を歓迎し、彼をファラオ(エジプトの王の称号)として迎え入れました。

小アジアとエジプトを手中に収めたアレクサンドロス大王は再びペルシャへと進撃を開始。「ガウガメラの戦い」で再びダレイオス3世と対峙し、敗走させました。大敗を続けたダレイオス3世にもはやあとはなく、逃亡先で側近のベッソスのクーデターにあって殺されてしまいます。アレクサンドロス大王はダレイオス3世の遺体を丁重に埋葬すると、ベッソスを捕らえて処刑し、ペルシャを征服。マケドニアは広大な領土を手にしたのでした。

さらに東へ!インドを目指したかった、が…

ペルシャ征服後、内部の反発を治めたアレクサンドロス大王の次の目標はさらに東のインドです。インダス川へ向かって兵を進めつつ、立ちはだかる敵対勢力を順調に倒していきました。ペルシャを征服した今、アレクサンドロス大王の障害になるものはないと思えるほどの快進撃です。

しかし、インダス川を越え、インドの中央へ向かおうとしていたときのこと。アレクサンドロス大王の部下たちがこれ以上の遠征に反対の意を示しました。実は、インドへ向かう以前から、エジプトではファラオとなり、ペルシャではアケメネス朝の後継者として振る舞うアレクサンドロス大王と、もともとついてきていたマケドニアやギリシャの部下との間に行き違いが生じていたのです。

こうしてアレクサンドロス大王は遠征を取りやめ、東方遠征は幕を下ろしたのでした。

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