紀元前、ギリシャ北部インダス川流域までの大帝国を作った「アレクサンドロス大王」。別名のイスカンダルでも有名です。彼は当時のギリシャ人が考える世界を征服し、ひとつにするという偉業を成し遂げたんです。
今回は「アレクサンドロス大王」について東方遠征から、超大国への成長、そして、後継者争いまで歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。日本伝統芸能や文芸、文化に深い興味を持つ。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回は古代ギリシャの有力国のひとつ「アレクサンドロス大王」についてまとめた。

1.「マケドニア」はどんな国?アレクサンドロス大王の本国

Istanbul - Museo archeol. - Alessandro Magno (firmata Menas) - sec. III a.C. - da Magnesia - Foto G. Dall'Orto 28-5-2006 b-n.jpg
Giovanni Dall'Orto - 投稿者自身による著作物, Attribution, リンクによる

今回の主人公となる「アレクサンドロス大王(アレクサンドロス3世)」は紀元前356年、マケドニア王フィリッポス2世の息子として生まれました。家系はギリシャ神話のヘラクレスやアキレウスを祖先に持つ最高の名家です。

さらに、父・フィリッポス2世は、バルカン半島の弱小国家のひとつでしかなかったアルゲアス朝マケドニアをギリシャのアテナイやスパルタといったポリス(ギリシャ南部の都市国家)に引けを取らない強国へと成長させた名君でした。

神話につながる血筋であり、彼の父もまた神話に恥じない王として活躍するなか、アレクサンドロス大王本人もまた偉大なる王様となります。

マケドニアってどこ?何人の国なの?同じ名前の国があるよ?

アレクサンドロス大王の生まれた「マケドニア」は紀元前7世紀ごろにギリシャ人によってつくられた国家です。地図でいうと、ギリシャの北部あたり。現在存在する北マケドニア共和国とは領土の一部は重なっているものの、別物ですから注意してくださいね。

南部のアテナイやスパルタとは同じギリシャ人ですが、彼らの築いたポリスの制度とは違い、マケドニアは王政を続けます。また、当時のギリシャはポリス間での争いはさることながら、  東方の強敵・アケメネス朝ペルシャの侵略もあり、争いの絶えない地でありました。

現在、マケドニアの地にある「北マケドニア共和国」は1991年にユーゴスラビア社会主義連邦共和国から独立したスラブ人の国です。首都スコピエはカトリックの聖人「マザー・テレサ」の出身地として知られる国でもあります。しかし、アレクサンドロス大王のマケドニアはギリシャ人の国家ですから、両国につながりはなく、まったく違う国となるのです。独立に関してはとても長くなってしまうので、これはまた今度。

父はギリシャを統一するコリントス同盟の盟主「フィリッポス2世」

紀元前5世紀の末に首都をペラに移して以来、王政以外の文化や芸術などギリシャ化を続けていたマケドニア。紀元前359年にアレクサンドロス大王の父・フィリッポス2世が即位し、彼の外交術や軍隊運営によってマケドニアを強国へと育て上げました。

しかも、当時のポリスはペロポネソス戦争(アテナイとスパルタを盟主とする二つの同盟間の戦争)により徐々に衰退している時期。フィリッポス2世はそれに乗じてアテナイ、テーベなど有力ポリスに戦争を仕掛け、ポリスの連合軍に勝利します。そうして、マケドニアはスパルタを除くポリスが加盟する「コリントス同盟」の盟主となったのでした。

父の意志を継げ!王道を突き進む「アレクサンドロス大王」

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フィリッポス2世は外交や軍事に長けた王でしたが、アレクサンドロス大王も負けてはいません。まず、教師として13歳のアレクサンドロス大王に教えたのがかの哲学者「アリストテレス」。アレクサンドロス大王はアリストテレスから弁論術や文学、哲学を習ったとされています。

ポリスの連合軍と戦いにも従軍し、マケドニアの勝利に大いに貢献しました。そうして、20歳のころ、父・フィリッポス2世が暗殺されると、アレクサンドロス大王はその後を継いでマケドニアの王、そしてコリントス同盟の盟主となりました。つまり、彼はスパルタを除いたギリシャ国家の頂点に立ったのです。

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2.いざ「東方遠征」!アレクサンドロス大王の世界征服

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玉座につき、ギリシャでの立場を強固にしたアレクサンドロス大王は、いよいよ「東方遠征」を開始します。最初に立ち向かったのは東の大国アケメネス朝ペルシャ。これまでもたびたびギリシャにちょっかいを出していましたね。

イラン高原を中心とするアケメネス朝ペルシャの最大領土は、東はインダス川、西はエジプト、そして、マケドニア東部の一部にまで及びました。アレクサンドロス大王がギリシャで最も偉い王だとしても、ペルシャはさらにその上を行く国家だったのです。

最初の大敵!大国ペルシャと開戦

紀元前334年、アレクサンドロス大王は大軍を率いて小アジアへ遠征を開始し、ペルシャとの戦いの火蓋を切って落としました。

最初の「グラニコス川の戦い」は数でこそペルシャに劣っていましたが、アレクサンドロス大王は軍略と戦術に関しては天才の名をほしいままにする勇将です。戦場はグラニコス川を挟んで展開されていましたが、アレクサンドロス大王は騎兵を率いて渡り、自ら投げ槍で敵将を仕留め、ペルシャ軍を壊滅させたのでした。

二番目の大戦場!数的不利を覆した「イッソスの戦い」

Battle of Issus mosaic - Museo Archeologico Nazionale - Naples 2013-05-16 16-25-06 BW.jpg
不明 - 自ら撮影 次のものによる: Berthold Werner, 国立考古学博物館 (イタリア), 2013年5月, パブリック・ドメイン, リンクによる

「グラニコス川の戦い」で負けたペルシャ側は非常に困った事態に陥りました。なにせ、この戦いに参加させたのはペルシャの精鋭部隊。つまり、ペルシャで一番強い軍隊が最初に負けてしまったのです。

アレクサンドロス大王は小アジアをさらに東へと遠征を続けますが、ペルシャ側はそのような状況なので次々と降伏していきました。

そうして、紀元前333年。アレクサンドロス大王率いるマケドニア軍約4万人と、ペルシャの王・ダレイオス3世率いるペルシャ軍約10万人が「イッソスの戦い」でぶつかります。今回も数ではペルシャに劣るマケドニアでしたが、苦戦しながらもアレクサンドロス大王自らダレイオス3世へ攻撃し、たまらずダレイオス3世は逃亡。ペルシャ軍は敗走し、アレクサンドロス大王は勝利を収めたのでした。

ダレイオス3世の死とペルシャの滅亡

ダレイオス3世は命からがら戦場からの逃走に成功し、和睦を申し出ましたが、アレクサンドロス大王はこれを拒否。さらなる戦いに備えなければならなくなりました。

一方、アレクサンドロス大王は一時南へと進軍し、あっさりとエジプトを占領します。エジプトはアレクサンドロス大王を歓迎し、彼をファラオ(エジプトの王の称号)として迎え入れました。

小アジアとエジプトを手中に収めたアレクサンドロス大王は再びペルシャへと進撃を開始。「ガウガメラの戦い」で再びダレイオス3世と対峙し、敗走させました。大敗を続けたダレイオス3世にもはやあとはなく、逃亡先で側近のベッソスのクーデターにあって殺されてしまいます。アレクサンドロス大王はダレイオス3世の遺体を丁重に埋葬すると、ベッソスを捕らえて処刑し、ペルシャを征服。マケドニアは広大な領土を手にしたのでした。

さらに東へ!インドを目指したかった、が…

ペルシャ征服後、内部の反発を治めたアレクサンドロス大王の次の目標はさらに東のインドです。インダス川へ向かって兵を進めつつ、立ちはだかる敵対勢力を順調に倒していきました。ペルシャを征服した今、アレクサンドロス大王の障害になるものはないと思えるほどの快進撃です。

しかし、インダス川を越え、インドの中央へ向かおうとしていたときのこと。アレクサンドロス大王の部下たちがこれ以上の遠征に反対の意を示しました。実は、インドへ向かう以前から、エジプトではファラオとなり、ペルシャではアケメネス朝の後継者として振る舞うアレクサンドロス大王と、もともとついてきていたマケドニアやギリシャの部下との間に行き違いが生じていたのです。

こうしてアレクサンドロス大王は遠征を取りやめ、東方遠征は幕を下ろしたのでした。

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70か所以上!?植民地「アレクサンドリア」建設

image by PIXTA / 12342812

「アレクサンドリア」といえば、エジプトの大都市が真っ先に上がるかと思います。エジプトのアレクサンドリアもアレクサンドロス大王が築いた都市であり、ギリシャ人を入植させる植民地でした。

しかし、アレクサンドリアは一ヵ所だけではありません。アレクサンドロス大王は征服した各地に植民地をつくり、アレクサンドリアと名付けました。記録によると、その数は70か所以上に上ったとされています。

病気?暗殺?アレクサンドロス大王の突然の死

遠征を取りやめたアレクサンドロス大王は広大な領土の再編成などを行いつつ、メソポタミアのバビロンまで戻って来たときのこと。アレクサンドロス大王は蜂に刺されて宴の最中に倒れてしまいます。そのまま高熱で苦しむこと十日、アレクサンドロス大王はとうとう後継者を指名せずに亡くなってしまったのです。

アレクサンドロス大王の突然の死は病気か、あるいは、宴の最中に倒れたことからお酒に毒を盛られた、と暗殺説もささやかれています。

3.アレクサンドロス大王の後継者は誰だ?「ディアドコイ戦争」

PtolemaicEmpire.png
Crop of Image:Diadochen1.png, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

遠征によってマケドニアに巨大な領土をもたらしたアレクサンドロス大王。それは当時考えうる世界のほとんどを征服したのと同じであり、アレクサンドロス大王は世界征服を成し遂げたと言っても過言ではありません。けれど、類を見ない大王国を実現しながらも、アレクサンドロス大王は32歳の若さでこの世を去ってしまいます。それも具体的な後継者を指名しないままに。

困ったのは残された臣下たちです。いったい、誰がこの領土を引き継ぐべきか?アレクサンドロス大王の後継者を巡って巻き起こったのが「ディアドコイ(後継者)戦争」でした。

もっとも強い者が後継者!?アレクサンドロス大王の遺言

具体的な後継者の名前は言わなかったものの、アレクサンドロス大王は後継者に関してひとつだけ遺言を残しました。それが「もっとも強い者を後継者にすべし」というもの。

臣下たちは集まって今後どうすべきか話し合うのですが……彼らは「我こそがアレクサンドロス大王の後継者だ!」と名乗り上げて争い始めてしまうのです。これが紀元前323年から紀元前276年にまでの約50年におよぶ「ディアドコイ(後継者)戦争」の始まりでした。

勝者は誰?アレクサンドロス大王の後継者たち

ディアドコイ戦争の結果、アレクサンドロス大王が勝ち取った領土は最終的に3つの国に分裂します。一気に紹介していきましょう。

まずは、アンティゴノス朝マケドニア。フィリッポス2世のころからの古参臣下「アンティゴノス」がディアドコイ戦争に参戦し、彼自身は戦死してしまうものの、孫のアンティゴノス2世がマケドニア王位について、アンティゴノス朝マケドニアを継承しました。

そして、セレウコス朝シリア。セレウコスがシリアからイラン平原までの、かつてのペルシャのような大領土を支配しました。

最後にプトレマイオス朝エジプト。プトレマイオスが建国したこの王国は三国のなかでもっとも長生きであり、最後の王はあのクレオパトラです

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世界征服を成し遂げた大英雄「アレクサンドロス大王」

古代ギリシャ、マケドニアの王として生まれた「アレクサンドロス大王」。ギリシャの覇権だけに留まらず、海を越える「東方遠征」を実現し、ギリシャ、ペルシャ、エジプトと大王国を作りました。それは当時のギリシャ人たちが考えうる世界のほとんどであり、アレクサンドロス大王は事実上世界征服を成し遂げた偉大なる王となったのです。

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ギリシャ世界史

簡単にわかる「アレクサンドロス大王」!東へ大遠征!世界征服を成し遂げた大王を歴史オタクがわかりやすく解説

紀元前、ギリシャ北部インダス川流域までの大帝国を作った「アレクサンドロス大王」。別名のイスカンダルでも有名です。彼は当時のギリシャ人が考える世界を征服し、ひとつにするという偉業を成し遂げたんです。
今回は「アレクサンドロス大王」について東方遠征から、超大国への成長、そして、後継者争いまで歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。日本伝統芸能や文芸、文化に深い興味を持つ。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回は古代ギリシャの有力国のひとつ「アレクサンドロス大王」についてまとめた。

1.「マケドニア」はどんな国?アレクサンドロス大王の本国

Istanbul - Museo archeol. - Alessandro Magno (firmata Menas) - sec. III a.C. - da Magnesia - Foto G. Dall'Orto 28-5-2006 b-n.jpg
Giovanni Dall’Orto投稿者自身による著作物, Attribution, リンクによる

今回の主人公となる「アレクサンドロス大王(アレクサンドロス3世)」は紀元前356年、マケドニア王フィリッポス2世の息子として生まれました。家系はギリシャ神話のヘラクレスやアキレウスを祖先に持つ最高の名家です。

さらに、父・フィリッポス2世は、バルカン半島の弱小国家のひとつでしかなかったアルゲアス朝マケドニアをギリシャのアテナイやスパルタといったポリス(ギリシャ南部の都市国家)に引けを取らない強国へと成長させた名君でした。

神話につながる血筋であり、彼の父もまた神話に恥じない王として活躍するなか、アレクサンドロス大王本人もまた偉大なる王様となります。

マケドニアってどこ?何人の国なの?同じ名前の国があるよ?

アレクサンドロス大王の生まれた「マケドニア」は紀元前7世紀ごろにギリシャ人によってつくられた国家です。地図でいうと、ギリシャの北部あたり。現在存在する北マケドニア共和国とは領土の一部は重なっているものの、別物ですから注意してくださいね。

南部のアテナイやスパルタとは同じギリシャ人ですが、彼らの築いたポリスの制度とは違い、マケドニアは王政を続けます。また、当時のギリシャはポリス間での争いはさることながら、  東方の強敵・アケメネス朝ペルシャの侵略もあり、争いの絶えない地でありました。

現在、マケドニアの地にある「北マケドニア共和国」は1991年にユーゴスラビア社会主義連邦共和国から独立したスラブ人の国です。首都スコピエはカトリックの聖人「マザー・テレサ」の出身地として知られる国でもあります。しかし、アレクサンドロス大王のマケドニアはギリシャ人の国家ですから、両国につながりはなく、まったく違う国となるのです。独立に関してはとても長くなってしまうので、これはまた今度。

父はギリシャを統一するコリントス同盟の盟主「フィリッポス2世」

紀元前5世紀の末に首都をペラに移して以来、王政以外の文化や芸術などギリシャ化を続けていたマケドニア。紀元前359年にアレクサンドロス大王の父・フィリッポス2世が即位し、彼の外交術や軍隊運営によってマケドニアを強国へと育て上げました。

しかも、当時のポリスはペロポネソス戦争(アテナイとスパルタを盟主とする二つの同盟間の戦争)により徐々に衰退している時期。フィリッポス2世はそれに乗じてアテナイ、テーベなど有力ポリスに戦争を仕掛け、ポリスの連合軍に勝利します。そうして、マケドニアはスパルタを除くポリスが加盟する「コリントス同盟」の盟主となったのでした。

父の意志を継げ!王道を突き進む「アレクサンドロス大王」

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フィリッポス2世は外交や軍事に長けた王でしたが、アレクサンドロス大王も負けてはいません。まず、教師として13歳のアレクサンドロス大王に教えたのがかの哲学者「アリストテレス」。アレクサンドロス大王はアリストテレスから弁論術や文学、哲学を習ったとされています。

ポリスの連合軍と戦いにも従軍し、マケドニアの勝利に大いに貢献しました。そうして、20歳のころ、父・フィリッポス2世が暗殺されると、アレクサンドロス大王はその後を継いでマケドニアの王、そしてコリントス同盟の盟主となりました。つまり、彼はスパルタを除いたギリシャ国家の頂点に立ったのです。

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