「千夜一夜物語」もしくは「アラビアン・ナイト」は聞いたことがあるか?これはアラビアやインド、ギリシャなんかの説話を集めた物語集です。「アラジンと魔法のランプ」や「アリババと40人の盗賊」など日本でも知られる昔話が入っている。ですがしかし、「千夜一夜物語」には、物語の外にもうひとつ面白い物語も付け加えられているんです。
今回はそんな「千夜一夜物語」と、ついでに舞台となったサーサーン朝ペルシャについて歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。日本伝統芸能や文芸、文化に深い興味を持つ。当然、文化には付き物の物語も大好き。今回はアラビア周辺の物語が集められた「千夜一夜物語」についてまとめた。

1.舞台はここ!古代イランの大王朝「サーサーン朝ペルシャ」

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「千夜一夜物語」の舞台となるのは、226年にイランにあったアルサケス朝(パルティア)を倒し、首都クテシフォンに成立した「サーサーン朝(ササン朝)ペルシャ」。領土が最も広がった時代には、奪ったアナトリア半島東部、エジプトの一部、アラビア半島南部イエメン、さらに中央アジアにまで進出した大国家でした。

初代国王アルデシール1世はゾロアスター教の神官家出身であったためゾロアスター教を国教とします。

古代イランで成立!「ゾロアスター教」ってどんな宗教?

サーサーン朝ペルシャが国教とした「ゾロアスター教」は、最高神アフラ・マズダと、その象徴たる火を崇拝する宗教です。火を崇拝することから中国では「拝火教」とも呼ばれました。

基本的にはアフラ・マズダの一神教ですが、アフラ・マズダと対立する悪神アーリマン(アンラ・マユ)が存在します。アフラ・マズダはアーリマンとの争いのために世界や守護神(霊)を創造しました。ちょっと多神教っぽいですね。また、ゾロアスター教には世界の終末(終末論)と「最後の審判」があり、ユダヤ教、キリスト教へと影響を与えたとされています。

創始者は「ゾロアスター(ツァラトゥストラ)」。彼が実在したことは確かなのですが、ゾロアスター教の成立時期が紀元前1200~1000年、あるいは紀元前7世紀ごろとはっきりしないため、ゾロアスター自体が生まれた年代も定かではありません。

サーサーン朝ペルシャの滅亡!イスラム帝国の台頭

6世紀、ホスロー1世のもとで最盛期を迎えたサーサーン朝ペルシャ。しかし、ホスロー1世死後は西側のビザンツ帝国との抗争が続き、さらにホスロー2世が息子に処刑されてからは没落の一途をたどります。決定的なトドメとなったのは、イスラム帝国の台頭でした。

7世紀当時、イスラム教は周辺地域に対して聖戦(ジハード)を行っていました。指導者は二代目カリフのウマル。疲弊し、不安定になっていたサーサーン朝ペルシャはウマル率いるイスラム勢力に敗れて滅亡。以降、イランはイスラム化し、サーサーン朝ペルシャはゾロアスター教を国教とする最後のペルシャ系国家となったのでした。

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2.毎夜の物語を語り、命を繋いだ少女「シェヘラザード」

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「千夜一夜物語」はサーサーン朝ペルシャにて、ペルシャ、インド、ギリシャなど周辺諸国の民話を集めて編纂されました。9世紀ごろのイスラム帝国の支配下でアラビア語に翻訳され、18世紀にフランス語版が出版されてヨーロッパで一大ブームを引き起こします。大人気となった「千夜一夜物語」ですが、いったいどのようなものだったのでしょうか?

毎朝女の首を撥ね続けた悲しき暴君「シャフリヤール」

サーサーン朝ペルシャ時代、「シャフリヤール」という王様がいました。しかし、シャフリヤールは彼の王妃の不倫を知ってしまったがために、怒りから王妃の首を撥ね、さらには女性不信に陥ってしまいます。そうして、シャフリヤールは若い娘を街から呼んでは一夜の相手をさせ、朝になると王妃と同じように首を撥ねるようになってしまったのです。

このまま若い女性が減り続ければ、国の危機につながってしまいます。そんなとき、王の相手として自ら手を上げたのが大臣の娘「シェヘラザード」でした。

シェヘラザードは毎朝殺されてしまう女性たちと国を憂い、自らの命を懸けてシャフリヤールを止めるために立ち上がります。しかし、彼女は暴力ではなく、物語を武器に王に立ち向かったのです。

命を懸けた物語!シェヘラザードの生存戦略

Ferdinand Keller - Scheherazade und Sultan Schariar (1880).jpg
フェルディナント・ケラー - Sotheby's London, 13.June 2006, lot 236 via Arcadja auction results, パブリック・ドメイン, リンクによる

シャフリヤールに嫁いだ夜、シェヘラザードは事前に妹のドニアザードと「シェヘラザードに夜通し物語をねだる」ように示し合わせて妹と共にシャフリヤールの寝所を訪ねます。果たして、その通り彼女は寝所でせがまれるままに物語を語り始めました。ここでシェヘラザードが語ったとされるのが「千夜一夜物語」に収録されている物語の数々です。しかし、朝が近づくとシェヘラザードは物語の途中であるにもかかわらず、語るのをやめてしまいます。

シェヘラザードの語る物語にシャフリヤールも強く惹かれていたため、彼は最後まで話を続けるように言いました。けれど、シェヘラザードは「続きはまた明日。明日は今夜よりももっと面白くなるでしょう」と返したのです。

千夜のあと、シェヘラザードの結末は…

シャフリヤールは朝を迎えるたびに王妃を殺し続けてきましたが、シェヘラザードを殺してしまうと話の続きを永遠に聞けなくなってしまいます。続きが気になって仕方なかったシャフリヤールはその悪行を一時的に止めることにし、シェヘラザードを生かし続けたのでした。

毎晩のように物語を続けては話の良い所で「続きはまた明日」と引っ張り続けたシェヘラザード。そうこうしているうちに千の夜がすぎ、シェヘラザードとシャフリヤールの間に子どもが生まれました。子どもの誕生を喜んだシャフリヤールは、シェヘラザードを正妃とすると同時に彼女を殺さないことを誓います。こうしてシェヘラザードはシャフリヤールの悪行を止めさせ、見事に生き残ったのでした。

3.ペルシャ語からアラビア語、フランス語へと増え続けた物語

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前章でシェヘラザードの勇敢な逸話を解説しましたが、実は、シェヘラザードとシャフリヤールはともに実在の人物ではありません。架空の王と王妃であり、「千夜一夜物語」に収録される物語を語る、という「物語の外枠となる物語」の登場人物でした。

さらに言うなら、大本のアラビア版にはこのふたりがどうなったのかも記されていません。ふたりに子どもが生まれ、シャフリヤールの悪行が止まったというのも後世に追加されたものでした。

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民話を集めて「千夜一夜物語」へ

「千夜一夜物語」が編纂されたのはサーサーン朝時代。編纂した地ペルシャに、インドやギリシャなどを起源とする物語が集められ、ペルシャ語でまとめられました。

その後、第一章で述べた通り、サーサーン朝ペルシャはイスラム帝国となり、公用語もペルシャ語からアラビア語へと置き換えられます。「千夜一夜物語」がアラビア語に翻訳されたのはイスラム帝国時代に入ってから約100年後のこと。当時の王朝は首都をバグダッドに置いたアッバース朝といいました。

アッバース朝で「千夜一夜物語」はさらなる物語が追加されます。シェヘラザードやシャフリヤールは架空の人物でしたが、このころ追加された物語にはアッバース朝の最盛期を築いた五代目カリフ(イスラム国家の指導者の称号)ハールーン・アラッシードも登場しました。首都バグダッドを中心としたイスラム世界の物語が一緒になったのです。

サーサーン朝ペルシャを滅ぼし、イスラム帝国が建国され、最初にウマイヤ朝が成立しました。その後、ウマイヤ朝に変わったのがアッバース朝です。首都はバグダッド。現在のイラクの首都と同じですね。

アッバース朝は巨大な領土を誇る大帝国でした。最盛期を迎えた8世紀には、西は現在のモロッコからスペインの南端、東はパキスタンあたりまでを手中に収めています。アッバース朝のもとでは以前にあったアラブ人の特権はなくなり、すべてのイスラム教徒が平等となりました。このおかげで、アッバース朝はイスラム黄金時代を築いたのです。

文化面も非常に懐が深く、アラビアだけでなくペルシャやギリシャ、エジプト、中国などさまざまな文化が融合し、さらには学問や科学が発展しました。

千って1000じゃないかも?数字に込められた別の意味

「千夜一夜物語」は英語だと「アラビアン・ナイト・エンターテインメンツ」と呼ばれますが、アラビア語では「アルフ・ライラ・ワ・ライラ」。アルフは千、ライラは夜で直訳すると「千の夜と一夜」、日本語版は原題に近いですね。

さて、シェヘラザードは千夜に渡ってシャフリヤールに物語を語って聞かせたとされていますが、アラビア語版の「千夜一夜物語」で数えられる夜は300に届きません。

ところで、日本語の「百」や「千」などの大きな数を表す漢字には「100」「1000」といった具体的な数字を表す以外に「数えきれないくらいたくさん」という意味があります。おそらく、「千夜一夜物語」の「千」も同じような意味だったのでしょう。しかし、本当は1000夜分あるのではないか、と考えた人物がいました。

1000夜あるはず!ないなら追加しちゃえフランス語版出版!

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1690年代、フランス大使アントワーヌ・ガランが「船乗りシンドバードの物語」をフランス語訳します。ところが、この物語は「千夜一夜物語」の一部だと知り、今度は「千夜一夜物語」の翻訳を開始。7巻からなるフランス語版「千夜一夜物語」を出版したのです。

しかし、彼は「千夜一夜物語」は本来1001夜分の話があり、完全版がどこかにあるのではないか、と考えます。それで残りの話を探し、人々から聞き取りを行って物語を付け加えていきました。

こうして「千夜一夜物語」に加えられた物語のなかには「開けゴマ!」の「アリババと40人の盗賊」や、願いをかなえるランプの魔人が登場する「アラジン」など、世界的に有名なものが追加されました。もうひとつ言うと、「船乗りシンドバードの物語」も実はもともと「千夜一夜物語」ではありません。

最終的にアントワーヌ・ガランが出版した「千夜一夜物語」は約500夜に膨れ上がったのです。

王が処刑を覆すほど惹かれた「千夜一夜物語」

王妃の不貞から女性不信に陥り、毎朝妻を処刑し続けたシャフリヤール王と、その悪行を止めるために自ら命を懸けて物語を語り続けたシェヘラザード。「千夜一夜物語」はシェヘラザードがシャフリヤールに話し続けた物語という形で登場しました。編纂された中身は、ペルシャ、インド、ギリシャなどを起源とする物語でしたが、イスラム帝国時代へ移りかわると、イスラム世界の物語が追加されるように。そして、フランス語に翻訳されたのちにさらなる物語が追加されていきました。こうして、現代にいたるまでにさまざまな創作がなされたのです。

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世界史中東の歴史

簡単にわかる「千夜一夜物語」!物語を武器に戦え!暴君に立ち向かった少女の生存戦略を歴史オタクがわかりやすく解説

「千夜一夜物語」もしくは「アラビアン・ナイト」は聞いたことがあるか?これはアラビアやインド、ギリシャなんかの説話を集めた物語集です。「アラジンと魔法のランプ」や「アリババと40人の盗賊」など日本でも知られる昔話が入っている。ですがしかし、「千夜一夜物語」には、物語の外にもうひとつ面白い物語も付け加えられているんです。
今回はそんな「千夜一夜物語」と、ついでに舞台となったサーサーン朝ペルシャについて歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。日本伝統芸能や文芸、文化に深い興味を持つ。当然、文化には付き物の物語も大好き。今回はアラビア周辺の物語が集められた「千夜一夜物語」についてまとめた。

1.舞台はここ!古代イランの大王朝「サーサーン朝ペルシャ」

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「千夜一夜物語」の舞台となるのは、226年にイランにあったアルサケス朝(パルティア)を倒し、首都クテシフォンに成立した「サーサーン朝(ササン朝)ペルシャ」。領土が最も広がった時代には、奪ったアナトリア半島東部、エジプトの一部、アラビア半島南部イエメン、さらに中央アジアにまで進出した大国家でした。

初代国王アルデシール1世はゾロアスター教の神官家出身であったためゾロアスター教を国教とします。

古代イランで成立!「ゾロアスター教」ってどんな宗教?

サーサーン朝ペルシャが国教とした「ゾロアスター教」は、最高神アフラ・マズダと、その象徴たる火を崇拝する宗教です。火を崇拝することから中国では「拝火教」とも呼ばれました。

基本的にはアフラ・マズダの一神教ですが、アフラ・マズダと対立する悪神アーリマン(アンラ・マユ)が存在します。アフラ・マズダはアーリマンとの争いのために世界や守護神(霊)を創造しました。ちょっと多神教っぽいですね。また、ゾロアスター教には世界の終末(終末論)と「最後の審判」があり、ユダヤ教、キリスト教へと影響を与えたとされています。

創始者は「ゾロアスター(ツァラトゥストラ)」。彼が実在したことは確かなのですが、ゾロアスター教の成立時期が紀元前1200~1000年、あるいは紀元前7世紀ごろとはっきりしないため、ゾロアスター自体が生まれた年代も定かではありません。

サーサーン朝ペルシャの滅亡!イスラム帝国の台頭

6世紀、ホスロー1世のもとで最盛期を迎えたサーサーン朝ペルシャ。しかし、ホスロー1世死後は西側のビザンツ帝国との抗争が続き、さらにホスロー2世が息子に処刑されてからは没落の一途をたどります。決定的なトドメとなったのは、イスラム帝国の台頭でした。

7世紀当時、イスラム教は周辺地域に対して聖戦(ジハード)を行っていました。指導者は二代目カリフのウマル。疲弊し、不安定になっていたサーサーン朝ペルシャはウマル率いるイスラム勢力に敗れて滅亡。以降、イランはイスラム化し、サーサーン朝ペルシャはゾロアスター教を国教とする最後のペルシャ系国家となったのでした。

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