猿楽とは何だか知っているか?平安時代から室町時代にかけて流行した滑稽な「物真似芸」の総称のことを猿楽と言う。中国の唐から伝わってきた散楽に、日本に古くから継承されてきた滑稽な芸が結びついて成立したんです。

それでは猿楽とはどうやって生まれ、どのように発展していったのでしょうか。その起源、展開、現在について日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史と文化を専門とする元大学教員。日本の文化にも興味があり気になることがあると調べている。今回は日本の伝統芸能のひとつである能や狂言のルーツである猿楽について調べてみた。

猿楽とはどのような伝統芸能?

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猿楽とは平安時代から室町時代にかけて流行した滑稽な「物真似芸」の総称。申楽とも書きます。中国の唐から伝わってきた散楽に、日本固有の滑稽芸が結びついて成立しました。

散楽の伝来

奈良時代に伝来した古代中国の民間芸能が散楽。公的な雅楽に対して余興で行われる曲芸や即興の物真似芸のことです。散楽については資料が少なく詳細は不明。正倉院の宝物殿に描かれた『散楽図』から推測すると、軽業・手品・曲芸.・歌舞などさまざまな芸能が含まれていました。

朝廷は散楽師の養成所として散楽戸をもうけて芸能の保護を熱心に行いました。当初は百戯とも呼ばれていました。それが途中から「サン」が「サル」に変化。物真似上手は猿を連想することから猿楽と呼ばれるようになりました。ちなみに散楽の中に人間が猿に扮した芸があったからという説もあります。

朝廷の保護を離れた散楽

平安時代の初期に桓武天皇は散楽戸を廃止。その理由は分かりません。散楽師たちは寺社や街角で芸を披露するようになり、様々な日本古来の芸能と交わるようになりました。それぞれの特徴から枝分かれし、独自に発展していきました。

南北朝時代から室町時代初期にかけて各地にあらわれたのが猿楽座。自分たちの利益を守るために朝廷や寺社に保護してもらう代わりに協力する団体で、今で言うところの同業組合のようなものです。

平安時代に発展した猿楽

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中国に渡来してから現代の能に至るまで、本当に長い歳月をかけて散楽は変化してゆきました。その時に応じて位置づけは変わります。権力者の手から離れて民間の庶民芸になり、再び権力者のものになるという不思議な運命をたどっていきました。

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奈良時代から平安時代中期にかけて

『風姿花伝』には、「六十六番の物真似」を寝殿にて聖徳太子の前で演じられたという記述が残されています。事実かどうかは不明。『風姿花伝』というのは世阿弥による能芸論書で、観阿弥の遺訓をもとに書かれたものです。世阿弥は能の成立を神や天皇と結びつけて権威づけることに成功。聖徳太子に関するエピソードも創作なのかもしれません。

散楽が猿楽とも呼ばれるようになったのは平安時代。宮中で相撲節会の余興として演じられたり、下級役人たちの娯楽の一環として楽しまれたりしました。猿楽の主流は大衆に流れ、寺社の庭や辻などで曲芸として演じられるようになりました。

猿楽が大衆化するなかで職業的な猿楽師も生まれました。彼らの身分は下賤なもの。各地を漂泊した猿楽師たちは傀儡とも呼ばれました。田植えの前に豊作を祈る田遊びである田楽、法会のあとに僧侶などが演じる歌舞や延年などのスタイルも、猿楽に取り入れられていきました。

平安時代後期に専門化する猿楽

もともと猿楽の演者は農民や僧侶。平安時代の後期になると専門的な集団も生まれました。神道的な行事が起源の田楽と、寺院で行われた歌舞や延年もそれぞれ影響し合いながら発展。藤原明衛が著した『新猿楽記』にはさまざまな演目が記されており、都の人たちが抱腹絶倒して楽しんだことが分かります。

「福広聖の袈裟求め」は僧侶が袈裟を捜し求める話。「妙高尼のむつき乞い」はおむつが必要になった独身の尼の騒動の話です。「京童の空ざれ、東人の初京上」のなかに書かれているのは口達者な京の童と東人の珍妙なやり取り。どれも滑稽な話で当時の人が楽しめる内容となっていました。

鎌倉時代に大きく変わる猿楽

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松岡明芳 - 松岡明芳, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

鎌倉時代になると猿楽を取り巻く環境は大きく変化します。それまでの猿楽に加わって翁猿楽が生れました。それも突然発生したわけではなく流れのなかで自然に発生したと言っていいでしょう。

筋書きのない儀式だった猿楽

翁猿楽が生まれたのは平安時代末期。老人の面をつけた神が踊り語って人々に祝福を当てる芸能です。本来は五穀豊穣を祈る農村行事で、翁は集落の長の象徴でした。戯曲的な筋書きはなく種の儀式。鎌倉時代の末期まではこれが猿楽の本来の芸と考えられていました。

これがやがて能になるのですが、寺社で演じられる以前から農村では集落ごとに演じられていたようです。田楽などその他の芸能とどちらが古いかということは不明。自然発生的に生まれた芸がまじりあい、影響し合い、鎌倉時代の翁猿楽になったと思われます。

寺社の重要な演目となる猿楽

古代から中世にかけての大きな社会の変化は能にも影響を与えました。もともと散楽として日本に伝来してきたころには朝廷や貴族の保護を受けていた芸能。政治は武士が握るものとなったため、翁猿楽は武士の懐のなかに入ろうとするようになりました。

そこで武士に気に入られるように内容も変化させていきました。鎌倉時代になると大きな法会の後の余興大会で翁猿楽は演じられるようになり、多くの武士たちの娯楽となりました。

庶民のあいだには猿楽の中にある「滑稽ばなし」が浸透。それぞれの領域のなかで能と呼ばれる芸が生まれました。鎌倉時代までは田楽の方が優勢。それが室町時代になると大きな変化が見られます。

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室町時代に権力と結びついた猿楽

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猿楽が発展して室町時代に能楽として大成。大陸から渡来した散楽が様々な変遷を繰り返しながら、日本の舞台芸術の粋ともいえる能になりました。そこに至るまでには、足利将軍のサポートが大きな力となりました

観阿弥のスポンサーとなった足利義光

暦応元年に足利尊氏は征夷大将軍となり室町幕府を開きました。京都に開いた武家政権です。三代目将軍の足利義満は生粋の芸能好き。京都の今熊野で結城座の太夫観阿弥の演じた能を見て心を奪われました。そしてスポンサーとなることを決意しました。

足利義満は南北朝を統一して幕府の権力を確固たるものにした政治人。日明貿易を発展させ、京都北山に別荘である金閣寺を建てたことや、北山文化の中心人物であることでも知られています。歌人としても能力を発揮。観阿弥という天才を発掘して育て上げ、今日の能の基盤を作りました。

さまざまな芸能を取り込んだ観阿弥

鎌倉から南北朝の動乱期に田楽が大流行して楽劇が生れました。これを猿楽の能、田楽の能と呼びます。寺社を中心に座を作って活動していました。春日神社に属していた大和猿楽の結城座の太夫が観阿弥清次。観阿弥は他の座の長所や曲舞を取り入れ、今まで物真似中心だったものを幽玄中心にして人気を得ました。

幽玄というのは優美な美という意味。それを舞台上の表現では花と言います。花を命とする能の中心は謡(うたい)と舞(まい)。演技は抽象的で人物の劇的な対立はなく、主役、脇役、助演者などがパターン化されていきました。

ワキ(脇役)はシテ(主役)を舞台に導き引き立てる役割。シテやワキが連れているのはツレとされました。全曲を決定するのはシテ。観阿弥によりこれが能の形となりました。

能楽を大成した世阿弥

観阿弥の子である世阿弥は父の後を継いで能楽を大成。世阿弥は能の役者であり作者です。父と共に京都の熊野での猿楽能に出演して将軍である足利義満に認められました。それ以後は義満の支援を受けて観世座を隆盛に導きました。

そして世阿弥は猿楽を室町時代の代表的な芸能に押し上げることに成功。さまざまな芸能を取り込んで幽玄能を大成しました。現在演じられている曲のおよそ三分の一は世阿弥によるもの、あるいは改作とされています。

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猿楽、能、そして狂言へ

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Corpse Reviver - 投稿者自身による著作物, CC 表示 3.0, リンクによる

本来の猿楽は、滑稽、卑俗、風刺的な寸劇の物真似です。それに対して狂言は能の合間に演じられていました。いわゆる息抜き的な役割。能と能の間で独立した劇が演じされました。そんな狂言は、優雅で荘重な能による緊張を和らげる効果をもっていました。

狂言における扮装の役柄

扮装はきわめて質素。鬼や狐のほかの面をつけません。舞台装置も設けず小道具もシンプル。演技は型が決まっていて様式化されていました。写実的でありながら儀式的な能に近い性格も持っていました。登場人物は生活や役割を持っているなど、シテ中心の能とは一線を画する演劇性もありました。

狂言でも主役はシテ。相手役は能と違いアドといいます。アドにはいろいろな役割がありました。能とは異なり歴史的な人物は登場せず、神さまも、恵比寿や大黒など庶民的な神さまのみ。それほど大きな権力がないのに偉ぶっている権力者である大名や小名などの地主などを誇張して描くこともありました。

狂言の流派や内容

能にはあるのは主に5流派。観世流、宝生流、金春流、金剛流、喜多流などです。喜多流は江戸時代に出現した新しい流派。いっぽう狂言には大蔵、和泉、鷺の3流派がありました。鷺は途絶えてしまいましたが今も大蔵と和泉は残っています。

『末広がり』は詐欺師に引っかかった男の話。主人に末広がりの扇を買いに行かされた男が詐欺師に騙され、高額な古傘を買ってきました。主人は怒りましたが、詐欺師が教えてくれた囃子もので主人の機嫌をなおすという内容です。『附子』もまた主人と使用人の話。主人が毒といっている附子を留守番中に食べてしまった使用人が、秘蔵の器をわざと壊して「死んでお詫びをしようと思い附子を舐めたのですが死ねませんでした」といって主人を降参させたという話です。

狂言の内容にはいろいろな種類があります。脇狂言は狂言の最初に演じて祝言をあらわすもの。大名狂言や小名狂言は名田を持つ大名の失敗談です。婿・女狂言は婿の失敗や強い妻などが登場するもの。強いはずの鬼や霊験あるはずの山伏が力を出せず笑われるものが鬼・山伏狂言です。出家・座頭狂言は高徳であるべき僧侶の失敗談、あるいは目が見えないがゆえにやってしまった座頭の間違いなどが演じられました。

長い歳月と社会の変化のなかで発展した猿楽

中国大陸から渡来した散楽が猿楽(申楽)となり、長い歳月と社会の変化のなかで能と狂言になりました。能と狂言は今でもお馴染みの伝統芸能。私たちからするとちょっと敷居が高いイメージすらありますよね。実は能や狂言も江戸時代までは猿楽と記されることも多かったのですが、嫌がられたのが「猿」という漢字。貴族たちの反感があり明治時代になると能楽に変更されました。もともとは猿楽として庶民に親しまれていた伝統芸能。権力者は伝統芸能を巧みに利用して自らの地位を確立していった一面もあるのでしょう。

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南北朝時代室町時代平安時代日本史明治江戸時代鎌倉時代

滑稽な物真似芸から生まれた「猿楽」とは?権力とのつながりや派生について元大学教員が簡単にわかりやすく解説

猿楽、能、そして狂言へ

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本来の猿楽は、滑稽、卑俗、風刺的な寸劇の物真似です。それに対して狂言は能の合間に演じられていました。いわゆる息抜き的な役割。能と能の間で独立した劇が演じされました。そんな狂言は、優雅で荘重な能による緊張を和らげる効果をもっていました。

狂言における扮装の役柄

扮装はきわめて質素。鬼や狐のほかの面をつけません。舞台装置も設けず小道具もシンプル。演技は型が決まっていて様式化されていました。写実的でありながら儀式的な能に近い性格も持っていました。登場人物は生活や役割を持っているなど、シテ中心の能とは一線を画する演劇性もありました。

狂言でも主役はシテ。相手役は能と違いアドといいます。アドにはいろいろな役割がありました。能とは異なり歴史的な人物は登場せず、神さまも、恵比寿や大黒など庶民的な神さまのみ。それほど大きな権力がないのに偉ぶっている権力者である大名や小名などの地主などを誇張して描くこともありました。

狂言の流派や内容

能にはあるのは主に5流派。観世流、宝生流、金春流、金剛流、喜多流などです。喜多流は江戸時代に出現した新しい流派。いっぽう狂言には大蔵、和泉、鷺の3流派がありました。鷺は途絶えてしまいましたが今も大蔵と和泉は残っています。

『末広がり』は詐欺師に引っかかった男の話。主人に末広がりの扇を買いに行かされた男が詐欺師に騙され、高額な古傘を買ってきました。主人は怒りましたが、詐欺師が教えてくれた囃子もので主人の機嫌をなおすという内容です。『附子』もまた主人と使用人の話。主人が毒といっている附子を留守番中に食べてしまった使用人が、秘蔵の器をわざと壊して「死んでお詫びをしようと思い附子を舐めたのですが死ねませんでした」といって主人を降参させたという話です。

狂言の内容にはいろいろな種類があります。脇狂言は狂言の最初に演じて祝言をあらわすもの。大名狂言や小名狂言は名田を持つ大名の失敗談です。婿・女狂言は婿の失敗や強い妻などが登場するもの。強いはずの鬼や霊験あるはずの山伏が力を出せず笑われるものが鬼・山伏狂言です。出家・座頭狂言は高徳であるべき僧侶の失敗談、あるいは目が見えないがゆえにやってしまった座頭の間違いなどが演じられました。

長い歳月と社会の変化のなかで発展した猿楽

中国大陸から渡来した散楽が猿楽(申楽)となり、長い歳月と社会の変化のなかで能と狂言になりました。能と狂言は今でもお馴染みの伝統芸能。私たちからするとちょっと敷居が高いイメージすらありますよね。実は能や狂言も江戸時代までは猿楽と記されることも多かったのですが、嫌がられたのが「猿」という漢字。貴族たちの反感があり明治時代になると能楽に変更されました。もともとは猿楽として庶民に親しまれていた伝統芸能。権力者は伝統芸能を巧みに利用して自らの地位を確立していった一面もあるのでしょう。

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