室町時代に権力と結びついた猿楽
猿楽が発展して室町時代に能楽として大成。大陸から渡来した散楽が様々な変遷を繰り返しながら、日本の舞台芸術の粋ともいえる能になりました。そこに至るまでには、足利将軍のサポートが大きな力となりました。
観阿弥のスポンサーとなった足利義光
暦応元年に足利尊氏は征夷大将軍となり室町幕府を開きました。京都に開いた武家政権です。三代目将軍の足利義満は生粋の芸能好き。京都の今熊野で結城座の太夫観阿弥の演じた能を見て心を奪われました。そしてスポンサーとなることを決意しました。
足利義満は南北朝を統一して幕府の権力を確固たるものにした政治人。日明貿易を発展させ、京都北山に別荘である金閣寺を建てたことや、北山文化の中心人物であることでも知られています。歌人としても能力を発揮。観阿弥という天才を発掘して育て上げ、今日の能の基盤を作りました。
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さまざまな芸能を取り込んだ観阿弥
鎌倉から南北朝の動乱期に田楽が大流行して楽劇が生れました。これを猿楽の能、田楽の能と呼びます。寺社を中心に座を作って活動していました。春日神社に属していた大和猿楽の結城座の太夫が観阿弥清次。観阿弥は他の座の長所や曲舞を取り入れ、今まで物真似中心だったものを幽玄中心にして人気を得ました。
幽玄というのは優美な美という意味。それを舞台上の表現では花と言います。花を命とする能の中心は謡(うたい)と舞(まい)。演技は抽象的で人物の劇的な対立はなく、主役、脇役、助演者などがパターン化されていきました。
ワキ(脇役)はシテ(主役)を舞台に導き引き立てる役割。シテやワキが連れているのはツレとされました。全曲を決定するのはシテ。観阿弥によりこれが能の形となりました。
能楽を大成した世阿弥
観阿弥の子である世阿弥は父の後を継いで能楽を大成。世阿弥は能の役者であり作者です。父と共に京都の熊野での猿楽能に出演して将軍である足利義満に認められました。それ以後は義満の支援を受けて観世座を隆盛に導きました。
そして世阿弥は猿楽を室町時代の代表的な芸能に押し上げることに成功。さまざまな芸能を取り込んで幽玄能を大成しました。現在演じられている曲のおよそ三分の一は世阿弥によるもの、あるいは改作とされています。
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