今回は、加藤友三郎について学んでいこう。

加藤友三郎は首相にまで上り詰めたが、海軍大臣を5度務めたことでも知られるぞ。加藤が海軍大臣時代に挙げた大きな功績といえば、やはりワシントン会議での成果でしょう。加藤が出席したワシントン会議で、日本は何を得たでしょうか。

ワシントン会議の詳しい内容や加藤友三郎の生涯を、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

加藤友三郎が海軍大臣になるまで

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まずは、加藤友三郎が生まれてから海軍大臣に就任するまでを簡単に振り返ってみましょう。

広島で生まれて海軍で活躍する

加藤友三郎(かとうともさぶろう)1861(文久元)年に現在の広島県で生まれました。父は広島藩士で、学問所の教授でした。少年時代の加藤は「ひいかちの友公」(ひいかちは癇癪持ちの意)と呼ばれるほど喧嘩っ早く、時には刀を振り回していたと伝えられます。そんな加藤は、青年期を海軍兵学校で過ごしました

海軍大学校を卒業した加藤は日清戦争に従軍します。巡洋艦「吉野」に乗り込み、砲術長を務めました。日露戦争には第二艦隊参謀長や連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長として参加。日本海海戦において、加藤は大日本帝国海軍の勝利に大きく貢献しました。

5つの内閣で続けて海軍大臣に

1906(明治39)年に加藤友三郎は海軍次官となります。その2年後には中将に昇進して、呉鎮守府司令長官や第一艦隊司令長官などを歴任しました。そして、1915(大正4)年には第2次大隈重信内閣の海軍大臣に就任。その直後に、海軍大将にまで上り詰めました

その後も、寺内正毅内閣・原敬内閣・高橋是清内閣で加藤は海軍大臣に留任しています。さらに、加藤は高橋是清の後に首相となり一時的に海軍大臣を兼任しました。よって、加藤は5つの内閣で続けて海軍大臣を務めたことになります。その期間は8年近くに及びました。

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ワシントン会議が開かれた背景

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では、加藤友三郎が出席したワシントン会議には、開催されるまでにどのような背景があったのでしょうか。

第一次世界大戦の勃発

1914(大正3)現在のボスニア・ヘルツェゴビナの首都であるサラエボを訪問したオーストリア皇太子のフランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺される事件が発生。犯人は、ボスニア・ヘルツェゴビナのオーストリア併合に反対するセルビア人青年でした。このサラエボ事件をきっかけに、第一次世界大戦が勃発します

第一次世界大戦はオーストリアがセルビアに宣戦布告する形で始まりました。やがて、ドイツ・イタリア・オーストリアの三国同盟(同盟国)と、イギリス・フランス・ロシアの三国協商(連合国)が中心となり、世界を二分する戦闘へと拡大日本はイギリスと日英同盟を結んでいたため連合国側となったのです

日本の勢力拡大

1914(大正3)日本は日英同盟を理由としてドイツに宣戦布告第一次世界大戦に加わりました。第一次世界大戦では、主にヨーロッパの領土を奪い合う戦いとなりましたが、日本はそれとはまた別の戦いをしていたといえるでしょう。なぜなら、日本は主にアジアで戦闘を繰り広げていたからです。

当時の日本はヨーロッパの列強に倣い、アジアで領土や権益を求めていました。そこで、日英同盟を口実とすることによりアジア内のドイツ領を攻撃したのです日本はドイツ領を次々と占領することで勢力を拡大。アジアで屈指の大国とみなされるようになりました。

ワシントン会議の主な内容

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ワシントン会議では、どのようなことが話し合われたのでしょうか。ここでは、ワシントン会議で締結された条約を3つ紹介していきます。

1.ワシントン海軍軍縮条約

ワシントン会議は1921(大正10)年よりアメリカのハーディング大統領の提唱で開催されました。合わせて9カ国が参加して、日本からは首席全権代表の加藤友三郎らが出席していますワシントン会議の主な目的は海軍軍縮と太平洋・極東地域の安定化でした

ワシントン会議の成果の1つがワシントン海軍軍縮条約です条約では各国の主力艦保有率をアメリカ5・イギリス5・日本3・フランス1.67・イタリア1.67としました。日本は米英の6割とされてしまい、大幅な譲歩を受け入れざるをえませんでした。しかし、これらは主力艦に限ったことだったので、後に補助艦などについて話し合われることになります。

2.四カ国条約

アメリカ・フランスと、イギリス・日本を加えた4カ国がワシントン会議で太平洋諸島の現状維持について話し合いの場を持ちました。アメリカは日本とイギリスの同盟関係に脅威を感じていたため、フランスを加えて4カ国として、同盟関係を牽制する目的があったとされます。

4カ国はそれぞれが太平洋諸島の領土や委任統治などについて現状維持とすることを決めました。それと同時に、紛争があった場合は共同会議などにより解決を図ると規定しています。当時の日本はパラオやマーシャル諸島などを委任統治するようになり、ハワイやフィリピンなどを領有していたアメリカと衝突することなどが懸念されていたのです。

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3.九カ国条約

1922(大正11)アメリカ・イギリス・フランス・イタリア・ベルギー・オランダ・ポルトガルと中国と日本を合わせた9カ国が条約を結びました。その内容は、中国の主権や独立を尊重することで中国での機会均等や門戸開放などを約束したものです。九カ国条約により、中国の領土は守られるべきと改めて確認されました。

九カ国条約には、日本を抑え込む狙いがあったとされます。というのも、日本は対華二十一カ条要求を中国に認めさせ、中国内で日本の権益を得ていたからです。ワシントン会議では「ワシントン体制」と呼ばれる国際秩序が生まれ日本が中国の権益を侵害することは好ましくないと考えられるようになりました

ワシントン会議の日本への影響とは

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では、ワシントン会議が開かれたことで、日本にどのような影響を与えたのでしょうか。

日英同盟の破棄

ワシントン会議で締結された四カ国条約には日英同盟の破棄が条文に加えられていました。四カ国条約を新たに結んだことで、日英同盟は役割を終えたという形となります。1902(明治35)年に締結された日英同盟は2度の更新を経た後におよそ20年で破棄されたのです

四カ国条約のそもそもの目的が日本の軍拡をアメリカが抑止することにありました。日本が中国などで領土を拡大させたのは、日英同盟を口実にして第一次世界大戦に参加したからでした。そのため、アメリカは日英同盟をなくしてしまうことで太平洋諸島でアメリカと日本が衝突するのを避けられると考えていました

石井・ランシング協定の破棄

1917(大正6)日本から石井菊次郎が特命全権大使として渡米しアメリカの国務長官であるロバート・ランシングと会談。日本は対華二十一カ条要求を中国に発していたため、それをアメリカに承認させる必要があったのです。2人の間で中国の特殊権益に関する日米間の協定が結ばれそれを石井・ランシング協定と呼びます

しかし、1918(大正7)年に第一次世界大戦が終戦すると、中国の情勢が大きく変化しました。アメリカやイギリスが中国に進出するようになったのです。日本との利害関係を重く見たアメリカはワシントン会議で九カ国条約を締結させた代わりに石井・ランシング協定を破棄しました

加藤友三郎内閣の誕生とその後

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最後に、加藤友三郎内閣が生まれてから、その後に起きたことを見ていきましょう。

加藤友三郎が首相となる

1921(大正10)年に原敬首相が東京駅で暗殺されると高橋是清が急遽その後を引き継ぎます。しかし、原の急死で与党だった立憲政友会が内部分裂したのです。さらに、内閣改造を巡って閣内対立が起きたため高橋内閣は総辞職せざるをえませんでした

高橋是清の後に担ぎ出されたのが加藤友三郎だったのです。加藤は立憲政友会で閣僚人事を固めると、自らは海軍大臣を兼任。ワシントン会議で決定した条項に基づいて、日本の主力艦を削減しました。さらに、山梨半造陸軍大臣の手により陸軍の削減にも踏み切ったのです

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加藤内閣総辞職後に関東大震災

加藤友三郎内閣は軍縮やシベリアからの撤退などを実行します。しかし、加藤が任期半ばにして病気療養に入ると職務に復帰することなくそのまま亡くなりました。まだ62歳でした。加藤の死後、しばらくは外務大臣の内田康哉が臨時で総理大臣を兼任しました

加藤友三郎内閣が総辞職した後に成立したのが第2次山本権兵衛内閣でした。しかし、内閣成立の前日に関東大震災が発生したため第2次山本内閣は震災復興に追われました。さらに、虎ノ門事件で摂政裕仁親王(後の昭和天皇)が襲撃されます。虎ノ門事件の責任を取り第2次山本内閣は成立からわずか4ヶ月で総辞職しました

幣原外交

ワシントン会議には加藤友三郎の他に幣原喜重郎も全権委員として出席していました。幣原は、後に戦後2人目の内閣総理大臣となります。その前には、加藤高明内閣・第1次若槻禮次郎内閣・濱口雄幸内閣・第2次若槻禮次郎内閣でそれぞれ外務大臣として入閣しました

「幣原外交」とは幣原喜重郎の外務大臣時代に行われた外交です国際協調を基本路線として中国には内政不干渉の方針を取り続けました。幣原が協調外交路線を進んだのは、ワシントン体制を重んじたからに他なりません。幣原外交は、間違いなく加藤友三郎らと参加したワシントン会議の影響があったのです。

加藤友三郎はワシントン会議で形成された国際協調路線を順守した

加藤友三郎は5度も海軍大臣を務め、中には自ら総理大臣と海軍大臣を兼任したのも含まれています。原敬内閣の海軍大臣時代には、首席全権代表としてワシントン会議に出席し、ワシントン体制と呼ばれる国際協調路線を築きました。加藤はワシントン会議に則って、海軍や陸軍の軍縮を断行。加藤とワシントン会議に出席していた幣原喜重郎は国際協調路線を踏襲して、その後の幣原外交を展開させたのです。

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現代社会

加藤友三郎が首席全権代表となって出席したワシントン会議とは?詳しい内容や加藤友三郎の生涯も歴史好きライターが簡単にわかりやすく解説

今回は、加藤友三郎について学んでいこう。

加藤友三郎は首相にまで上り詰めたが、海軍大臣を5度務めたことでも知られるぞ。加藤が海軍大臣時代に挙げた大きな功績といえば、やはりワシントン会議での成果でしょう。加藤が出席したワシントン会議で、日本は何を得たでしょうか。

ワシントン会議の詳しい内容や加藤友三郎の生涯を、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

加藤友三郎が海軍大臣になるまで

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まずは、加藤友三郎が生まれてから海軍大臣に就任するまでを簡単に振り返ってみましょう。

広島で生まれて海軍で活躍する

加藤友三郎(かとうともさぶろう)1861(文久元)年に現在の広島県で生まれました。父は広島藩士で、学問所の教授でした。少年時代の加藤は「ひいかちの友公」(ひいかちは癇癪持ちの意)と呼ばれるほど喧嘩っ早く、時には刀を振り回していたと伝えられます。そんな加藤は、青年期を海軍兵学校で過ごしました

海軍大学校を卒業した加藤は日清戦争に従軍します。巡洋艦「吉野」に乗り込み、砲術長を務めました。日露戦争には第二艦隊参謀長や連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長として参加。日本海海戦において、加藤は大日本帝国海軍の勝利に大きく貢献しました。

5つの内閣で続けて海軍大臣に

1906(明治39)年に加藤友三郎は海軍次官となります。その2年後には中将に昇進して、呉鎮守府司令長官や第一艦隊司令長官などを歴任しました。そして、1915(大正4)年には第2次大隈重信内閣の海軍大臣に就任。その直後に、海軍大将にまで上り詰めました

その後も、寺内正毅内閣・原敬内閣・高橋是清内閣で加藤は海軍大臣に留任しています。さらに、加藤は高橋是清の後に首相となり一時的に海軍大臣を兼任しました。よって、加藤は5つの内閣で続けて海軍大臣を務めたことになります。その期間は8年近くに及びました。

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