御家人という身分を知っているか。鎌倉幕府に従うすべての武士の総称のことで、鎌倉幕府から「土地の所有」を認められた代わりに、鎌倉で戦争があったときには命かけて戦う義務が課せられた。

江戸時代になると合戦がなくなり御家人は役目がなくなる。そんな御家人の理念や生活を日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの文化と歴史を専門とする元大学教員。日本の歴史にも興味があり気になることがあると調べている。今回は時代劇にも登場する御家人についてまとめてみた。

御家人とはどんな人たちのこと?

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伝土佐光信 - 『安徳天皇縁起絵図』 第七巻「壇の浦合戦」、第八巻「安徳天皇御入水」, パブリック・ドメイン, リンクによる

御家人とは鎌倉幕府に従うすべての武士の総称のこと。彼らは、鎌倉幕府から「土地の所有」を認められた代わりに、鎌倉で戦争があったときには命かけて戦う義務がありました。これは「御恩と奉公」と呼ばれる契約関係のこと。この契約を結んだ武士のことを御家人と言います。

御家人という呼称はどうやって生まれたの?

平安時代に貴族に仕えていた武士団の棟梁を「家長」と呼び、その従者を「家人」と呼んでいました。鎌倉時代になると、鎌倉幕府という巨大な武士団に仕える家人に敬意をこめて、「御」という尊称をつけ「御家人」と呼ぶようになりました。

御家人とは、鎌倉幕府が成立したときに生まれた言葉。中世や江戸時代にも使われました。しかしながら、意味合いは異なります。中世の戦国時代になると戦国大名の家臣を指す言葉へと変化。江戸時代には幕府に仕える中級もしくは下級の役人を指すようになりました。

そもそも武士とはどんな立場?

武士とは、平安時代後期に定着した言葉。奈良時代までは「公地公民」が原則で、土地と領民は天皇のものとされてきました。平安時代になると、それを規定した法律である「律令」がなし崩しに壊され、有力貴族や寺社だけでなく有力農民までも土地を私物化。戦力あるいは政治力で自分の土地を守るのみならず、他人の土地を無理やり奪うこともありました。

その土地の豪族やその土地を開発した農民たちは、私有地を守るために弓や馬で武装。やがて武装化した集団を作るようになりました。この武力に注目した都の貴族たちは武士団のリーダーなどに自分の身辺を警護させ、自分の勢力を拡大させる過程で利用するようになりました。

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関東地方で生まれた御家人の特徴

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関東地方の呼び名は「東国」。それより西あるいは南の地方とは異なる特徴がありました。関東より北は「蝦夷」。異国同然の扱いでしたから関東は日本の最北の地と考えていいでしょう。そんな東国で御家人は生まれました

土地の開発と共に武士が発生

東国には広い原野があって、良質の馬をたくさん生産しました。そのような環境のもと、土地や馬を守るために強力な武力が必要になりました。その結果、武士と呼ばれる者たちが生れ、彼らは強いリーダーを必要としました。当初のリーダーは土地の開発領主や豪族が棟梁。都で出世できなかった貴族や、臣籍降下された元皇族が、中央政治に不満を持ち東国に流れ、武士集団を束ねるようになりました。

そうして形成されたのが平氏や源氏でした。土地の豪族も、ブランド力のある人がトップになることで自分たちのブランドも上がると大歓迎。源氏の源頼朝が伊豆に流されたときには、利用価値のある存在と思って力を貸しました。そこで頼朝は、彼らの軍事力を利用して平氏を打倒。そのときに協力した武士たちを、敬意を込めて御家人と呼ぶようになったのです。

源氏政権が作り上げた「御家人」

鎌倉に日本初の武家政権を打ち立てたのが頼朝。彼は自分を武士団のリーダーと自負していました。当時の人々は、頼朝に対する敬意をこめて頼朝の家臣を「御家人」と呼びました。当初、主従関係は個人的に結ぶもので、頼朝に従属しない武士たちも大勢いました。しかしながら鎌倉幕府が成立すると各地の武士たちは続々と頼朝の配下に下りました。

頼朝にとって平氏追討に活躍した武士たちすべてが御家人。鎌倉殿から直接土地を保証される御家人だけではなく、土地に広大な領土を持っていた豪族も「国御家人」と位置づけ、彼らが地頭を統率する体制を作り上げました。

このときの相互関係は「御恩」と「奉公」。それはもちろん所領を持たない零細な御家人もいました。身分は同格。最初は複数の主人に仕える者もいましたが、鎌倉幕府の力が増すに従い、鎌倉殿一筋になってゆきました。

御家人になることで得られるメリット

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武士は土地を守るための戦闘員。そのため武士と土地は切っても切れない関係がありました。御家人になったのは自分の土地を鎌倉幕府が保証してくれたから。これを「本領安堵」(ほんりょうあんど)と言います。手柄のあった武士に幕府は新たに褒美として土地を与えました。これを「新恩給与」(しんおんきゅうよ)と呼びます。

恩と奉公の関係

公務員は、公務により亡くなる、あるいは公務による傷病のために退職する場合、遺族年金である「恩給」が支払われます。この言葉のルーツは御家人。また、公務員や会社員の給料は「給与」と呼ばれますが、これも同様です。国や会社に生命を捧げて尽くす関係にあると見なされ、生活が保障されていますよね。

御家人たちは、お給料こそ支払われませんが先祖からの土地を幕府により保証されました。土地を保証してもらったことが「御恩」この恩に報いるために「奉公」するという関係です。彼らは、鎌倉番役といって、鎌倉や、京都大内裏の警護を担当。鎌倉で合戦が起こったらすぐに駆けつけて命をかけて戦う義務が課せられました。

合戦に参加するわけですので、命を落とすこともあります。しかしながら合戦で亡くなったら褒美に土地を貰えるため、一族の生活は保証されました。いわゆる遺族年金。ただ、生活の保障は鎌倉幕府が存続していることが大前提。だからこそ彼らは命をかけて幕府に仕えたのです。

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平時の時の御家人たちの生活

元々御家人はその土地の開発領主。合戦がないときは農民に農耕をさせ、年貢をとって暮らしていました。御家人の暮らしは質素なもの。何かが起こったら鎌倉に駆けつけられるように武芸の訓練は怠りませんでした。主人のために戦う「武士道」の基礎は御家人にあるといえます。

当時は馬上から弓を射かけて攻撃する戦法がほとんど。馬を疾走させる、馬上から板を的として射る「流鏑馬」(やぶさめ)、笠の的を射る「笠懸け」、走る犬を弓でいる「犬追物」(いぬおうもの)などの訓練法が生まれました。

語り継がれる御家人の物語

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月岡耕漁 - この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, リンクによる

南北朝時代に成立したと思われる物語に「鉢の木」という話があります。それは、能、歌舞伎、人形浄瑠璃などを通じて江戸時代に広まり、明治時代には教科書にも載りました。理想的な御家人の話ですが、現代を生きる私たちにはどう響くでしょうか。

旅の老僧と御家人の話

ある大雪の日、今の栃木県佐野市あたりにある佐野のあばら家に、道に迷った旅の僧があらわれました。一夜の宿を求めましたが、主人である源左衛門常世は断ります。妻のとりなしで泊めることにしましたが、暖を取る薪もありません。そこで常世は大切に育てていた馬、松、桜の盆栽を燃やして老僧のために暖を与えました

実は常世は、もともとこの地に広い土地を持っていましたが、一族に裏切られて土地を奪われていたのです。それにも関わらず、いざ鎌倉殿に何かあったら、古い鎧を付けてやせ馬にまたがり、鎌倉に駆けつける覚悟があると僧侶に話しました。

翌年、鎌倉幕府から招集がかかると、本当に常世は真っ先に駆けつけました。するとあの老僧がいたのです。老僧は元鎌倉幕府執権の北条時頼。時頼は常世の土地を取り戻し、新たに梅・桜・松にちなむ土地を「新恩給与」として与えました。

どんな御家人が理想と見なされたのか

老僧の姿で諸国行脚をするなんてまるで水戸黄門。実際に元執権北条時頼が諸国行脚をした記録はありません。栃木県佐野市にも常世という御家人がいたのかは不明。南北朝時代の作家が、過ぎ去りし鎌倉時代を懐かしんでこのような物語を作り、江戸時代の人々の心を掴んだのでしょう。

明治時代、常世の話が教科書に掲載されました。「御恩」と「奉公」による主従の結びつきは、西洋化が進む世の中にあっても日本人の心をとらえるものでした。事実関係はともかく、鎌倉時代の御家人には、命に代えても守るべき義務が課せられていたのことは間違いありません。

江戸時代は最下級の武士となった御家人

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江戸時代になると御家人の位置づけは変わってきます。幕府の家臣であることはそれまでと同じ。しかしながら将軍にお目見えする資格のない最下級の身分の武士、いわゆる中級もしくは下級役人として働いている人たちのことを指すようになりました。

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武士のシビアな階級差

武士は俸禄によって階級差がもうけられました。俸禄とは給与としてのコメの量のことで、一万石以上の家臣を大名、一万石未満の者を直参とされました。直参のなかで将軍に謁見できる身分は旗本。謁見できない者は御家人として区別されました。江戸時代は合戦がなくなったので身分が下がったのでしょう。

旗本は元々首領を警護する武士団という意味。江戸時代には徳川幕府直属の家臣という位置づけになりました。主人は「殿さま」、正妻は「奥さま」と呼ばれ、江戸時代中期には5000人ほどいました。旗本は戦の際には馬に乗り、家に玄関を作ることが許されました。

江戸時代の御家人の暮らし

江戸時代の御家人は戦が起こっても馬に乗ることは許されません。徒歩で従う立場です。奉行所の与力として働くときに限っては馬に乗れました。しかしながら玄関を作ることは禁止。主人は「旦那さま」、正妻は「御新造さま」と呼ばれました。家の建て方も呼び名も、旗本と区別されるようになったのです。

御家人は、組屋敷という長屋のような住宅を与えられ、同心や与力など警護の補助的な仕事に就くことが多数。与力の方が身分は上で給与もいいのですが、どちらも江戸城に入れませんでした。暮らし向きが苦しい御家人は、提灯張り、傘張り、金魚の育成、行燈作りなどの内職をしました。

私たちが「お宅の旦那さま」とか「奥さま」という呼称を使うのは江戸時代の名残の呼び方の名残。旗本の妻でもないのに、結婚している女性にはすべて「奥さま」。男性はすごい金持ちでも「お殿さま」とは呼ばれません。どんな立場であっても御家人扱いの「旦那さま」です。面白いですね。

御家人の副業

「入谷の朝顔市」は、御家人が組屋敷で内職として栽培したのが始まり。地方の御家人は片手間に農業に従事できるので比較的生活は楽でした。江戸のような大都会ですと農業はできません。物価が高いので生活に苦労する御家人は少なくありませんでした。そのため朝顔栽培などの内職をするようになったのです。

また、養子縁組という制度を使ってお金を得ることもありました。その方法は、子供を裕福な町人の養子に出すというもの。町人となればさまざまな仕事に従事できるので、親は子どもから金銭をもらって生活しました。

現代にも残っている主人と御家人の関係

御家人というと昔の身分という印象があるでしょう。しかし忠誠を誓う代わりに生活を保障してもらう立場は今の公務員と共通するもの。会社員が会社に身を捧げるという美徳も同様です。日本には、ひと昔前までは終身雇用制がありました。これも御家人の制度の名残なのかもしれません。御家人の存在は日本人の働き方の根底に大きな影響を与えたとも言えそうですね。

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鎌倉幕府に忠誠を誓った「御家人」とは?江戸時代になるとどうなる?元大学教員が簡単に分かりやすく解説

御家人という身分を知っているか。鎌倉幕府に従うすべての武士の総称のことで、鎌倉幕府から「土地の所有」を認められた代わりに、鎌倉で戦争があったときには命かけて戦う義務が課せられた。

江戸時代になると合戦がなくなり御家人は役目がなくなる。そんな御家人の理念や生活を日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの文化と歴史を専門とする元大学教員。日本の歴史にも興味があり気になることがあると調べている。今回は時代劇にも登場する御家人についてまとめてみた。

御家人とはどんな人たちのこと?

AntokuTennou Engi.7&8 Dannoura Kassen.jpg
伝土佐光信 – 『安徳天皇縁起絵図』 第七巻「壇の浦合戦」、第八巻「安徳天皇御入水」, パブリック・ドメイン, リンクによる

御家人とは鎌倉幕府に従うすべての武士の総称のこと。彼らは、鎌倉幕府から「土地の所有」を認められた代わりに、鎌倉で戦争があったときには命かけて戦う義務がありました。これは「御恩と奉公」と呼ばれる契約関係のこと。この契約を結んだ武士のことを御家人と言います。

御家人という呼称はどうやって生まれたの?

平安時代に貴族に仕えていた武士団の棟梁を「家長」と呼び、その従者を「家人」と呼んでいました。鎌倉時代になると、鎌倉幕府という巨大な武士団に仕える家人に敬意をこめて、「御」という尊称をつけ「御家人」と呼ぶようになりました。

御家人とは、鎌倉幕府が成立したときに生まれた言葉。中世や江戸時代にも使われました。しかしながら、意味合いは異なります。中世の戦国時代になると戦国大名の家臣を指す言葉へと変化。江戸時代には幕府に仕える中級もしくは下級の役人を指すようになりました。

そもそも武士とはどんな立場?

武士とは、平安時代後期に定着した言葉。奈良時代までは「公地公民」が原則で、土地と領民は天皇のものとされてきました。平安時代になると、それを規定した法律である「律令」がなし崩しに壊され、有力貴族や寺社だけでなく有力農民までも土地を私物化。戦力あるいは政治力で自分の土地を守るのみならず、他人の土地を無理やり奪うこともありました。

その土地の豪族やその土地を開発した農民たちは、私有地を守るために弓や馬で武装。やがて武装化した集団を作るようになりました。この武力に注目した都の貴族たちは武士団のリーダーなどに自分の身辺を警護させ、自分の勢力を拡大させる過程で利用するようになりました。

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