
1960年に発生した「浅沼稲次郎暗殺事件」とは?詳しい内容を過去に党首が襲撃された例とともに歴史好きライターが簡単にわかりやすく解説
2022年に安倍晋三元首相が狙撃され、2023年には岸田文雄首相に向けて爆発物が投げ込まれる騒動があった。思い出されるのは、1960年に発生した浅沼稲次郎暗殺事件です。2つの事件と類似点はあるのでしょうか。
浅沼稲次郎暗殺事件の詳しい内容を、過去に党首が襲撃された例とともに、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル
資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。
民主社会党(民社党)の結成
1955(昭和30)年に自由民主党(自民党)が結成され、日本社会党(社会党)は再び左右統一を果たします。国会の議席はその2党でほぼ占められ、55年体制と呼ばれる枠組みが出来つつありました。アメリカやイギリスなどで見られる二大政党制が、日本でも生まれようとしていたのです。
しかし、1959(昭和34)年に安保問題を巡り、社会党内部で対立。右派の西尾末広らが離党しました。離党したグループに同調した者が加わり、1960(昭和35)年に結成されたのが民主社会党(後に民社党)です。初代の中央執行委員長には西尾が就任しました。
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池田勇人内閣の成立
1951(昭和26)年に締結された日米安全保障条約は、岸信介内閣により条約が改定されます。しかし、野党は改正に反対して、全国で安保闘争と呼ばれる激しい反対運動が起きたのです。その後、衆議院で強行採決。条約改正は自然承認されますが、岸内閣は社会を混乱させた責任を取って総辞職しました。
その後に成立したのが池田勇人内閣です。池田内閣には、初めての女性大臣として中山マサ厚生大臣が入閣しました。さらに、池田内閣は所得倍増計画を発表。10年間で日本の国民総生産を2倍以上にすると宣言し、高度経済成長を後押しする結果となりました。
学生時代から社会主義運動へ
浅沼稲次郎(あさぬまいねじろう)は、1898(明治31)年に東京都の三宅島で生まれました。その後、浅沼は早稲田大学に進学。大学在学中から社会主義運動に傾倒し、大学卒業後も運動への参加を続けていました。社会主義系の政党にも加入しています。
1933(昭和8)年に東京市会議員になり、1936(昭和11)年には衆議院議員選挙に初当選しました。しかし、日本が戦時下に入ると、浅沼は一時国会議員の座から離れます。終戦は東京都議会議員として迎えました。浅沼が再び代議士となったのは、終戦後のことでした。
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