『曾根崎心中』で知られる近松門左衛門は知っているか?江戸時代に爆発的ヒットを飛ばした浄瑠璃と歌舞伎の劇作家です。彼の作品は現在でも上演され、しかも、元の浄瑠璃や歌舞伎に限らず映画やオペラにまでなっている。英訳なんかもされて、もはや日本を代表する劇作家です。
今回はそんな「近松門左衛門」と彼の作品について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。日本伝統芸能や文芸、文化に深い興味を持つ。今回はその中でも江戸時代の劇作家「近松門左衛門」について詳しくまとめた。

1.武士の家系から劇作家の誕生!近松門左衛門と浄瑠璃の世界

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CHIKAMATSU Monzaemon(1725) - https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Chikamatsu_Monzaemon.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる

1653年(承応2年)、近松門左衛門は越前国(現在の福井県)の武士の次男・杉森信盛として生まれました。名前を混ぜるとややこしくなってしまうので、以下は本名の杉森信盛でなく近松門左衛門の名前で進めますね。

さて。武士の仕事は当然、藩のお殿様に仕えること。このまま順調にいけば、近松門左衛門も大人になれば藩で武士として働くことになったでしょう。しかし、彼の父は仕えていた福井藩を辞して浪人となり、京都に移り住みます。近松門左衛門は、二十歳までそこで公家に仕えました。

劇作家としての修行開始!京都・宇治座へ

公家から離れて数年後。近松門左衛門は二十五歳のとき、京都で有名な浄瑠璃大夫・宇治加賀掾(うじ かがのじょう)の宇治座へ入り、浄瑠璃の脚本を書き始めます。武士から芸能の世界へ、というのは当時としては考えられないほどの大転職でした。

しかし、のちのち大作家となる近松門左衛門とはいえ、当時の劇作家の地位はあまり高いものではなく、作者の名前は基本的に公表されません。そんななか、近松門左衛門の作品として確定しているのが、宇治加賀掾が上演した『世継曾我』。脚本に著名はありませんが、他の作品と比べたところ近松門左衛門の作と確定した最も古い作品です。『世継曾我』は大好評となりました。

当時の日本人に大人気!?仇討ちの物語

浄瑠璃や歌舞伎など日本の芸能において「曾我兄弟」は非常に有名かつ人気の題材で、曾我兄弟にまつわる多くの作品が世に生み出されました。知っていると「ああ、あの曾我兄弟ね!」と相槌の打てるテーマなので、ここで簡単に解説しておきましょう。

大本の作品は『曾我物語』(作者・成立年不詳)。鎌倉時代初頭、主人公・曾我兄弟の父が暗殺され、兄弟が富士野で仇討ちを行う、というもの。武士の社会では義理や道義を重んじるものですから、父の仇討ちは曾我兄弟にとって人生をかけるほど非常に大切なことだったのです。同じ理由から、武士たちにとって曾我兄弟の仇討ちは模範となりました。

曾我兄弟の仇討ちに、赤穂浪士の討ち入り(赤穂事件)、伊賀越えの仇討ちの三つを並べて日本三大仇討ちといいます。いずれも歌舞伎などの題材として人気を博しました。

宇治座にさよなら!竹本義太夫との出会いと竹本座の旗揚げ

近松門左衛門が所属する宇治座に「竹本義太夫」が一時期出演していました。竹本義太夫は宇治座から独立し、大阪の道頓堀に人形浄瑠璃の竹本座を開業。近松門左衛門も彼について宇治座を出ます。そうして、竹本座の旗揚げとして竹本義太夫は近松門左衛門作『世継曾我』を上演して好評を得たのです。近松門左衛門と竹本義太夫のコンビは大阪で人気を得、また、竹本義太夫は浄瑠璃の流派のひとつ「義太夫節」を創始者となりました。

しかし、宇治加賀掾はこれを面白く思えません。近松門左衛門を連れて行った上に、自分のために書かれた『世継曾我』も竹本義太夫に取られたのですから、当然ですよね。そこで宇治加賀掾は二人に目にものを見せてやろうとわざわざ京都から同じ道頓堀へ一座を引き連れて殴り込みにやってきたのでした。

\次のページで「浄瑠璃に革命!近松門左衛門の『出世景清』から新浄瑠璃へ」を解説!/

浄瑠璃に革命!近松門左衛門の『出世景清』から新浄瑠璃へ

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竹本座と宇治座の最初の競演で宇治座が上演したのは『暦』。これは宇治加賀掾をひいきにしていた大作家「井原西鶴」が彼のために書き上げた作品です。対する近松門左衛門と竹本義太夫は『賢女の手習新暦』で応戦、勝利を収めます。

さらなる勝負が続き、宇治座はまたもや井原西鶴作の『凱陣八島』を上演。近松門左衛門は『出世景清』が戦いました。ところが、こちらは宇治座に軍配が上がり…と名勝負を重ね合っていたとき、不運なことに宇治座が火事にあって道頓堀から撤退してしまったのです。

このとき竹本座で上演された『出世景清』は、近松門左衛門が竹本義太夫のためにはじめて書いた作品であると同時に、竹本義太夫の義太夫節の始まりとなりました。また、『出世景清』はそれまでの浄瑠璃に対して革命的な作品だったため、以降の浄瑠璃を「新浄瑠璃」、以前のを「古浄瑠璃」と区別するようになったのです。

作家の地位向上!作品に作者の著名を

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竹本座の設立から、人気の宇治座との対決…と、漫画のような展開が続くなか近松門左衛門と竹本義太夫のもとで活躍し続けました。その結果、近松門左衛門の功績のおかげで作家の地位が向上し、著作物に名前を入れられるようになったのです。

近松門左衛門が最初に著名を入れた作品は1686年の『佐々木大鑑』。以降、近松門左衛門の作品の著名は続けられました。

2.元禄時代到来!歌舞伎作者・近松門左衛門と坂田藤十郎

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1694年(元禄六年)、近松門左衛門は歌舞伎作者となり、京都の歌舞伎座・都万太夫座(のちの南座)の専属作家として務めます。当時の都万太夫座の座本は「初代 坂田藤十郎」。元禄時代を代表する歌舞伎役者のひとりです。

ところで、「元禄」と何度か出てきましたが、元禄時代は江戸時代のなかでも華美で力強い「元禄文化」が花開いた時代でした。上記の坂田藤十郎を含め、初代市川團十郎、芳沢あやめ、俳諧では松尾芭蕉…と、名前を上げるとキリがないほどの著名人が世に出たのです。

好景気!今こそ庶民も学を持つべし!

1688年から1704年まで続いた元禄年間は、関ケ原の合戦から約100年後。もちろん、帯刀した武士たちはいましたが、戦国時代のように戦争が頻発するような時代は遠い昔のようなことでした。

時の将軍は五代目・徳川綱吉。生類憐みの令で有名ですね。徳川綱吉は武力ではなく、徳を重んじ、法令によって治められる「文治政治」を目指していました。

そんななか、元禄年間初頭は好景気になり、農業や産業が発展。町人たちが経済力を着けて庶民が豊かになっていきます。懐に余裕ができた町人たちは、当時の教育施設「寺子屋」に子どもを通わせて文字の読み書きやそろばんを学ばせませた。こうして、庶民の識字率が上がり、新聞や小説など読み物や学問を受け入れられるようになっていったのです。

貴族・武士から町人へ!文化の担い手の変化

文化というのは、少々乱暴に言ってしまうと、生活に余裕のある層が担うものでした。代表的なのが貴族ですね。彼らにとって教養は政治的な付き合いも含めて非常に重要なものですから。武士たちもまた彼らに必須の儒学を学んだりと刀の腕前だけでなく、学問もしなくてはお殿様に仕えることができません。

しかし、元禄の好景気によって町人たちに経済的余裕が生まれたことで、彼らもまた学問や芸術に触れる機会が増えました。そうして、それぞれの趣味を持つようになります。その趣味は歌舞伎や浄瑠璃の鑑賞だったり、絵だったり、俳句だったりとさまざま。

町人たちが中心とり、そのなかで発展した元禄文化は、華美で力強い印象を持ちます。このことから、昭和のバブル経済期の派手で贅沢な様子を指して「昭和元禄」と言ったりもしました。

近松門左衛門と人気の歌舞伎役者・坂田藤十郎

近松門左衛門は竹本座ですでにその才能を認められた人気の作家となったあとでした。しかし、近松門左衛門は1694年(元禄六年)に歌舞伎の作者となり、坂田藤十郎のもとで歌舞伎作品を書くようになります。

歌舞伎では、脚本よりも役者がどのような演技をするかが重要視されていました。坂田藤十郎は「やつし事」「口説事」の得意な役者で、近松門左衛門は彼に『傾城仏の原』をはじめ多くの作品を書きあげます。「やつし事」は「身をやつす」の「やつし」。つまり、高貴なものがみすぼらしく身をやつしながらも、もともと身に着けていた気品や育ちの良さを隠せない、というもの。その正体は実は○○だった!と本当の姿へと戻る瞬間、観客は驚き、喜びを覚えるのです。ちょっと古いのですが、水戸黄門や暴れん坊将軍がこの構成ですね。

3.『曾根崎心中』大ヒットで社会問題に発展!?

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京都から再び大阪の竹本座へ戻った近松門左衛門は再び竹本義太夫とコンビを組み、代表作となる『曾根崎心中』を書きあげました。上演された『曾根崎心中』は大ヒット。経営難だった竹本座を救い、再び人気の浄瑠璃小屋へ返り咲いたのです。近松門左衛門はここで竹本座の専属作家となり、残りの人生を浄瑠璃へささげることに決めたのでした。

『曾根崎心中』に続く心中物の連作から社会問題へ!?

『曾根崎心中』の大ヒット以降、近松門左衛門は男女の心中をテーマにした「心中物」を連作し、1722年(享保7年)までに九本の作品を上演しました。ところが、近松門左衛門の心中物が流行れば流行るほど問題が起こってしまったのです。

そもそも、「心中」とは、さまざまな理由で結ばれない男女が一緒に自殺すること。怖い話なのです。それが作品のヒットにより心中が増え、とうとう幕府が腰を上げて取り締まらなければいけないところまで至ってしまったのでした。心中の罪は重く、亡くなった男女の葬儀、埋葬は禁止。一方が生き残れば死罪に、両方が生き残れば非人の身分にされたのです。

当然、心中をテーマとする作品の上演は禁止。近松門左衛門の心中物も1722年の作品が最後となりました。

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4.竹本義太夫の死…竹本座を支えた近松門左衛門

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『曾根崎心中』のヒット後、竹本義太夫は座本を初代竹田出雲に譲って浄瑠璃界を引退しようとしました。しかし、竹田出雲に引退を止められ、竹本義太夫は死の直前まで活躍し続けました。しかし、やはり竹本義太夫という大きな看板を亡くしたあとの竹本座は大きな局面に立たされます。

17カ月のロングランヒット!竹本政太夫への『国姓爺合戦』

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歌川国貞 - Museum of Fine Arts, Boston, online database, パブリック・ドメイン, リンクによる

近松門左衛門は新たな座本・竹田出雲とこの局面を乗り越えるべく、1715年に新作『国姓爺合戦』を上演しようとします。そこで重用されたのが、竹本義太夫の後を継いだ弟子・竹本政太夫でした。近松門左衛門と竹田出雲は竹本政太夫を、竹本義太夫に代わる太夫へと成長させようとしたのです。

そうして、その目論見は見事に当たり、『国姓爺合戦』は17カ月に渡るロングランヒットとなったのでした。その後も近松門左衛門は『女殺油地獄』など、72歳でこの世を去るまで数々のヒット作を手掛け続けました。

時代に乗り、ヒット作を生み出し続けた劇作家・近松門左衛門

武士の子として生まれながら芸能の世界に飛び込んだ近松門左衛門。その功績は非常に大きく、当時は低かった劇作家の地位を向上。さらに新設された竹本座を盛り上げ、『出世景清』で浄瑠璃世界に新しい風を吹き込みました。一時は歌舞伎作家として活躍するものの、浄瑠璃へと再び戻り代表作『曾根崎心中』を世に送り出します。近松門左衛門の心中物が流行り、その結果心中が社会問題になってしまうという悲しいこともありましたが、それでも近松門左衛門が折れることなく、亡くなるまでヒット作を生み出し続けたのです。

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日本史江戸時代

簡単にわかる!「近松門左衛門」幕府から御禁制をくらった!?近世浄瑠璃を拓いた天才作者を歴史オタクがわかりやすく解説

『曾根崎心中』で知られる近松門左衛門は知っているか?江戸時代に爆発的ヒットを飛ばした浄瑠璃と歌舞伎の劇作家です。彼の作品は現在でも上演され、しかも、元の浄瑠璃や歌舞伎に限らず映画やオペラにまでなっている。英訳なんかもされて、もはや日本を代表する劇作家です。
今回はそんな「近松門左衛門」と彼の作品について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。日本伝統芸能や文芸、文化に深い興味を持つ。今回はその中でも江戸時代の劇作家「近松門左衛門」について詳しくまとめた。

1.武士の家系から劇作家の誕生!近松門左衛門と浄瑠璃の世界

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CHIKAMATSU Monzaemon(1725) – https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Chikamatsu_Monzaemon.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる

1653年(承応2年)、近松門左衛門は越前国(現在の福井県)の武士の次男・杉森信盛として生まれました。名前を混ぜるとややこしくなってしまうので、以下は本名の杉森信盛でなく近松門左衛門の名前で進めますね。

さて。武士の仕事は当然、藩のお殿様に仕えること。このまま順調にいけば、近松門左衛門も大人になれば藩で武士として働くことになったでしょう。しかし、彼の父は仕えていた福井藩を辞して浪人となり、京都に移り住みます。近松門左衛門は、二十歳までそこで公家に仕えました。

劇作家としての修行開始!京都・宇治座へ

公家から離れて数年後。近松門左衛門は二十五歳のとき、京都で有名な浄瑠璃大夫・宇治加賀掾(うじ かがのじょう)の宇治座へ入り、浄瑠璃の脚本を書き始めます。武士から芸能の世界へ、というのは当時としては考えられないほどの大転職でした。

しかし、のちのち大作家となる近松門左衛門とはいえ、当時の劇作家の地位はあまり高いものではなく、作者の名前は基本的に公表されません。そんななか、近松門左衛門の作品として確定しているのが、宇治加賀掾が上演した『世継曾我』。脚本に著名はありませんが、他の作品と比べたところ近松門左衛門の作と確定した最も古い作品です。『世継曾我』は大好評となりました。

当時の日本人に大人気!?仇討ちの物語

浄瑠璃や歌舞伎など日本の芸能において「曾我兄弟」は非常に有名かつ人気の題材で、曾我兄弟にまつわる多くの作品が世に生み出されました。知っていると「ああ、あの曾我兄弟ね!」と相槌の打てるテーマなので、ここで簡単に解説しておきましょう。

大本の作品は『曾我物語』(作者・成立年不詳)。鎌倉時代初頭、主人公・曾我兄弟の父が暗殺され、兄弟が富士野で仇討ちを行う、というもの。武士の社会では義理や道義を重んじるものですから、父の仇討ちは曾我兄弟にとって人生をかけるほど非常に大切なことだったのです。同じ理由から、武士たちにとって曾我兄弟の仇討ちは模範となりました。

曾我兄弟の仇討ちに、赤穂浪士の討ち入り(赤穂事件)、伊賀越えの仇討ちの三つを並べて日本三大仇討ちといいます。いずれも歌舞伎などの題材として人気を博しました。

宇治座にさよなら!竹本義太夫との出会いと竹本座の旗揚げ

近松門左衛門が所属する宇治座に「竹本義太夫」が一時期出演していました。竹本義太夫は宇治座から独立し、大阪の道頓堀に人形浄瑠璃の竹本座を開業。近松門左衛門も彼について宇治座を出ます。そうして、竹本座の旗揚げとして竹本義太夫は近松門左衛門作『世継曾我』を上演して好評を得たのです。近松門左衛門と竹本義太夫のコンビは大阪で人気を得、また、竹本義太夫は浄瑠璃の流派のひとつ「義太夫節」を創始者となりました。

しかし、宇治加賀掾はこれを面白く思えません。近松門左衛門を連れて行った上に、自分のために書かれた『世継曾我』も竹本義太夫に取られたのですから、当然ですよね。そこで宇治加賀掾は二人に目にものを見せてやろうとわざわざ京都から同じ道頓堀へ一座を引き連れて殴り込みにやってきたのでした。

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