マチュピチュという古代遺跡を知っているか?アンデス山麓にあるインカ帝国の遺跡です。インカ帝国はスペイン人のピサロにより征服されて滅びたとされている、マチュピチュがどうして作られたのかは謎に包まれている。

今回はマチュピチュとはどのような遺跡なのか、誰がどんな意図をもって作ったのか、インカ帝国の歴史なども踏まえて、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの文化と歴史を専門とする元大学教員。気になることがあったらいろいろ調べている。今回は世界遺産に登録されているものの実態がほとんど分かっていないマチュピチュについてまとめてみた。

マチュピチュとはどんな遺跡なのか?

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マチュピチュはスペイン語でMachu Picchu。5世紀に存在していたインカ帝国の遺跡とされています。マチュピチュがあるのは、アンデス山麓の一部であるペルーのウルバンバ谷に沿ったところ。標高2430メートルのところに位置しています。

マチュピチュはインカ帝国の首都ではない

マチュピチュは壮大な遺跡のためインカ帝国の首都と思われがちです。ところがインカ帝国の首都はクスコ。マチュピチュよりも約1000メートルも高いところにあります。クスコは現在も栄えており、その街並みは世界遺産にも指定されました。いわばペルー有数の都市という位置づけです。

インカ帝国の首都よりも低い標高にどうしてマチュピチュを作ったのかは今でもはっきりと分かっていません。その理由が文字。アンデス民族は文字により記録を残すという習慣がありませんでした。スペイン人により1533年に滅ぼされてしまったため、マチュピチュがどのように使用されていたのか知ることはできないのです。

マチュピチュは正式な名前ではない

教科書にも記載されているマチュピチュ。しかし本当の名前は別にありました。インカ帝国はこの都市をワイナピチュと呼んでいたされています。

ワイナというのは先住民ケチュアの「若い」もしくは「新しい」という言葉。ピチュは「山頂」という意味です。それに対してマチュは「古い」という意味。一般的に私たちはこの遺跡を「古い山頂」と呼んでいたことになるでしょう。

原住民にその名前を確認したところ、山頂のことを聞かれたと思ってマチュピチュと答えたことが名称の混乱の原因。そのままインカ帝国の遺跡はマチュピチュという名前で広まっていきました。本来はワイナピチュと変更するべきですが、マチュピチュはあまりにも有名な遺跡。さらなる混乱を避けるためにそのままになっています。

マチュピチュを作ったインカ帝国とは?

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マチュピチュを作ったのはインカ帝国。ペルー、ボリビア、エクアドル一帯にケチュア族が築いた帝国です。12世紀頃、ケチュア族はクスコに移り住み、インカ族となりました。これがインカ帝国の始まりです。コロンビア南部からチリ中部まで支配エリアを広げていきました。最終邸に南北で南北4000メートルに至る巨大帝国を築きます。

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ケチュア族の官僚制度

ケチュア族は文字を持たない民族。そのためその実態はほとんど分かっていません。ケチュア族はとても小さな民族。男女共に身長は1メートルちょっとだったと言われています。それにも関わらずそれだけの勢力をひろげたのは強固な組織力。上下関係が明確な官僚制度が確立していました。

ケチュア族の神の象徴は太陽神。官僚は王の系譜をひく者から構成されました。血統の正当性を守るため、外部とつながることは禁止。基本的に近親婚を繰り返して家系をつないでいきました。ケチュア族の官僚制度は独自に作られたわけではなく、先立って存在した文化を参考にしたとされています。

アンデスに住む現在のケチュア族

インカ帝国は滅ぼされましたがケチュア族は今もアンデスで暮らしています。ケチュア族が守っているのは先祖代々引き継がれてきた土地や文化。今でも太陽神に祈りをささげることも忘れていません。

若いケチュア族はスペイン語を話せますが、お年寄はケチュア語のみということも。スペイン人に消滅させられたと言っても、一掃するには至らなかったことが分かります。

農業についてもかつての伝統を継承。そのひとつが「モライ」です。「丸く凹んだ場所」という意味で、日本で言うところの段々畑。凹んでいるので上部と下部には温度差があり、それを利用して農作物の試験をしています。もうひとつがマラス塩田。寒気になると塩田は真っ白になり、その美しさから観光名所ともなっています。

マチュピチュの発見者ハイラム・ビンガム3世

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By Harris & Ewing, photographer - Library of Congress, Public Domain, Link

ハイラム・ビンガム3世はアメリカの探検家。マチュピチュの発見者として知られています。祖父がプロテスタントの宣教師として渡ったこともあり、ハワイのホノルルにて生まれました。ハーバード大学でも学位を取得しているエリート。南アメリカの歴史を専門としていました。

イェール大学にてペルー探検隊を組織

1908年にサンティアゴで開催された会議に出席したあと、ハイラム・ビンガム3世はたまたまペルーに立ち寄ります。そこでマンコ・インカ・ユパンキがスペイン人に反乱を起こしたインカ時代の都市オリャンタイタンボを見学。そこでアンデスに存在していた古代遺跡に興味を持つようになります。

帰国したハイラム・ビンガム3世は1911年、イェール大学にてペルー探検隊を組織。ペルーで調査を開始します。そしてマチュピチュを確認しました。その成果によりハイラム・ビンガム3世はイェール大学およびナショナルジオグラフィック協会の支援を受けるとに成功。さらに2回の調査を行います。

ハイラム・ビンガム3世はマチュピチュの発見者?

アメリカ大陸をコロンブスが「発見」したというのは間違い。先住民はすでにそれを知っており、コロンブスはそこに上陸しただけにすぎません。マチュピチュも同じ。ハイラム・ビンガム3世はマチュピチュの存在を確認し、欧米に知らせる役割を果たしましたが、その存在は現地では知られていました。そのため「発見」という表現は適切ではありません。

ハイラム・ビンガム3世よりも前にマチュピチュの存在に気づいていたのはクスコの農場主アグスティン・リサラガ。1902年の時点で遺跡を確認していました。さらにビンガムがペルーに来るより前にワイナピチュという名前を記載した地図も残されています。

それにもかかわらず、ハイラム・ビンガム3世のコミュニケーション不足により、ワイナピチュはマチュピチュと勘違いされてしまいました。

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マチュピチュが作られたのはなぜ?

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By RAF-YYC from Calgary, Canada - IMG_9573, CC BY-SA 2.0, Link

マチュピチュが作られた理由ははっきりとは分かっていません。ただ、神聖な場所であるという説が濃厚です。マチュピチュがあるのは急峻な山の上。良好な日当たりや壮大な景色を活用するために、その地が選ばれたという説が有力です。

太陽神をまつる場所

マシュピチュがあるのは高地で、太陽を存分に観測できる立地です。つまり当時の人々にとって太陽にもっとも近い場所として認識されていた可能性も。太陽神を信仰する場としてマチュピチュの場所が定められたと考えてもいいでしょう。

マチュピチュの頂上にあるのは太陽の神殿。太陽をつなぎ止める石が頂上に置かれています。インカ帝国の人々は、太陽を信仰するとともに、その観測を通じて暦も作成。夏至と冬至に対する理解もあり、それに合わせた建物の作っています。

月に対する信仰も存在

インカ帝国はエジプトなどと同じく太陽神を信仰。しかし同時に月も信仰していました。太陽神殿の背後にある洞窟のなかには月の神殿が存在。洞窟の壁には、こまやかな石細工とくぼみが並んでいます。そのなかにミイラが収められていました。

聖なる山に対する信仰心の表れと考えることもできます。遺跡がある位置やシンボリックな建物の向きは、マチュピチュの近くにある聖なる山々と関連。インカ帝国の壮大な宇宙論を表現しているのがマチュピチュと考えてもいいでしょう。

マチュピチュ建造に深く関わるパチャクテク

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パチャクテクはクスコ王国の9代目の皇帝。マチュピチュは彼の別邸もしくは御用邸だったという説があります。世界を震撼させる者という名の通り、帝国の支配者としても強靭な力を持っていました。クスコにとどまらず広いエリアを支配する足掛かりを作った、まさにインカ帝国の創設者と言ってもいいでしょう。

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インカ帝国を発展させたパチャクテク

パチャクテクの父親は8代インカ皇帝ウィラコチャ。もともと正当な後継者とは見なされていませんでした。しかしながら敵が進攻してきた際、主要人物がみんなクスコを放棄。そのときに勇敢にも戦いを挑み、敵を撃退したのがパチャクテク。この勝利をきっかけに、正式な後継者として認められました

このときの経緯は残されている資料によって見解が異なります。敵を撃退したことが王位継承の根拠とされているものの、実際はパチャクテクがクーデターを起こしたのではないかという説も。いずれにせよ、父親が亡くなったあとパチャクテクは正式な皇帝となり、クスコのまわりにある小さな国をまとめて大きな帝国へと進化させていきました。

パチャクテクはクスコ王国を再編

パチャクテクが行ったことはクスコ王国の再編。四つの邦として帝国化しました。四つの邦を支配するのは地方官。その下に、トクリコクという指導者が配置されました。指導官はそれぞれの都市のみならず谷や鉱山なども管理していました。地方政治の先駆けのような体制が敷かれていたことが分かります。

さらにクスコを大都市して機能するように再編。貴族や移民など身分に応じて住む場所を指定しました。さらに身分の低い者はスラムのような場所に強制移住。皇帝と皇族は、貴族と移民とは別のところに居住。中心部に住まいを構えました。クーデターが起こらないように相互に監視する仕組みも確立。自らの地位を確固たるものにしました。

マチュピチュはインカ帝国の最盛期のなごり

第11代のワイナ=カパックが亡くなるとインカ帝国は内部分裂。後継者争いで混乱していきます。そんなときにスペインの征服者であるピサロがツンベスに上陸。ピサロが率いていたのは少数の部下のみでしたが、あっけなく後継者候補を捉えて殺します。そのあともピサロの支配下で皇位は継承されますが、最終的にインカ帝国は滅亡しました。マチュピチュはインカ帝国の最盛期のなごり。インカ帝国の政治と宗教の一端を垣間見ることができます。謎が多いマチュピチュですが、だからこそどうして作られたのか、自分なりに想像してみるのも悪くないですね。

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アメリカの歴史世界史

スペイン人に征服されたインカ帝国の遺跡「マチュピチュ」の歴史と今について元大学教員が簡単にわかりやすく解説

マチュピチュという古代遺跡を知っているか?アンデス山麓にあるインカ帝国の遺跡です。インカ帝国はスペイン人のピサロにより征服されて滅びたとされている、マチュピチュがどうして作られたのかは謎に包まれている。

今回はマチュピチュとはどのような遺跡なのか、誰がどんな意図をもって作ったのか、インカ帝国の歴史なども踏まえて、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの文化と歴史を専門とする元大学教員。気になることがあったらいろいろ調べている。今回は世界遺産に登録されているものの実態がほとんど分かっていないマチュピチュについてまとめてみた。

マチュピチュとはどんな遺跡なのか?

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マチュピチュはスペイン語でMachu Picchu。5世紀に存在していたインカ帝国の遺跡とされています。マチュピチュがあるのは、アンデス山麓の一部であるペルーのウルバンバ谷に沿ったところ。標高2430メートルのところに位置しています。

マチュピチュはインカ帝国の首都ではない

マチュピチュは壮大な遺跡のためインカ帝国の首都と思われがちです。ところがインカ帝国の首都はクスコ。マチュピチュよりも約1000メートルも高いところにあります。クスコは現在も栄えており、その街並みは世界遺産にも指定されました。いわばペルー有数の都市という位置づけです。

インカ帝国の首都よりも低い標高にどうしてマチュピチュを作ったのかは今でもはっきりと分かっていません。その理由が文字。アンデス民族は文字により記録を残すという習慣がありませんでした。スペイン人により1533年に滅ぼされてしまったため、マチュピチュがどのように使用されていたのか知ることはできないのです。

マチュピチュは正式な名前ではない

教科書にも記載されているマチュピチュ。しかし本当の名前は別にありました。インカ帝国はこの都市をワイナピチュと呼んでいたされています。

ワイナというのは先住民ケチュアの「若い」もしくは「新しい」という言葉。ピチュは「山頂」という意味です。それに対してマチュは「古い」という意味。一般的に私たちはこの遺跡を「古い山頂」と呼んでいたことになるでしょう。

原住民にその名前を確認したところ、山頂のことを聞かれたと思ってマチュピチュと答えたことが名称の混乱の原因。そのままインカ帝国の遺跡はマチュピチュという名前で広まっていきました。本来はワイナピチュと変更するべきですが、マチュピチュはあまりにも有名な遺跡。さらなる混乱を避けるためにそのままになっています。

マチュピチュを作ったインカ帝国とは?

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マチュピチュを作ったのはインカ帝国。ペルー、ボリビア、エクアドル一帯にケチュア族が築いた帝国です。12世紀頃、ケチュア族はクスコに移り住み、インカ族となりました。これがインカ帝国の始まりです。コロンビア南部からチリ中部まで支配エリアを広げていきました。最終邸に南北で南北4000メートルに至る巨大帝国を築きます。

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