今回は、超然主義について学んでいこう。

明治から大正時代にかけての内閣では、超然主義を掲げるケースが見られた。しかし、現代では超然主義が採用されないため、超然主義がどのようなものか知らない人は多いでしょう。

超然主義の詳しい内容を、超然主義を採用した歴代内閣を紹介しながら日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

黒田清隆内閣

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日本で最初に超然主義を標榜した内閣は、明治時代中期に成立した黒田清隆内閣です。その時の様子を、超然主義の定義とともに見ていくことにしましょう。

超然主義とは?

超然」(ちょうぜん)とは、「物事にこだわらない世俗とかけ離れている」という意味です。一般的には「他の動きには関知せずに独自のことを行う主義」が「超然主義」となります。この「超然主義」が、日本史においては特別な意味でも使われているのです。

日本では特に帝国議会が設立されてから大正時代末期までの時期に「超然主義」という言葉が使われました。その場合の「超然主義」とは、「政府は議会や政党の意思に制約されずに行動すべきという考え」をいいます。今では考えられないことですが、当時は政権運営の方法の1つとして通用していました。

超然主義演説

1889(明治22)年2月12日、その日は大日本帝国憲法公布の翌日でした。当時の首相である黒田清隆は鹿鳴館で行われた式典で地方官を前に演説を行いました。いわゆる「超然演説」と呼ばれるものです。黒田は政府が政党の意向に左右されずに職務を遂行することを表明しました

黒田が超然演説を行った翌日伊藤博文も同様の演説をしています。つまり、日本の初代と2代目の内閣総理大臣が超然主義を認めていたのです。しかし、超然主義の表明に反発する者が現れました。その中には、伊藤とともに憲法起草に関わっていた、井上毅(こわし)・伊東巳代治(みよじ)・金子堅太郎らも含まれていたのです。

黒田首相だけ辞任する異例の事態

黒田清隆首相は立憲改進党の前総裁である大隈重信を外務大臣として入閣させるなどの方法で民党分裂工作を図りました。超然主義に反対する野党に対抗することが目的です。しかし、条約改正に反対する勢力に大隈が襲撃されると状況は一変責任を問われた黒田内閣は窮地に陥りました

黒田は明治天皇に対して全閣僚(大隈外務大臣を除く)の辞表を提出します。しかし、明治天皇は黒田の辞表だけを受理内大臣の三條實美に内閣総理大臣を兼任させて内閣を存続させたのです。三條實美による暫定内閣は2ヶ月ほど続き、山縣有朋に政権は引き継がれました。

第1次山縣有朋内閣

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黒田清隆内閣の後に成立した第1次山縣有朋内閣も、超然主義の内閣だったとされます。果たして、どのような内閣だったのでしょうか。

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民党対策

1889(明治22)年12月に山縣有朋が3代目の内閣総理大臣に任命されました。当時は首班指名選挙で総理大臣を選出するのではなく、天皇が総理大臣を任命する仕組みでした。1890(明治23)年に日本で初めての衆議院議員総選挙が行われ選挙で選出された議員による初めての帝国議会も開かれます

第1回帝国議会で行われた初めての施政方針演説で山縣は軍事費の拡大を主張しました。主権線の守護と利益線の防護、言い換えれば朝鮮半島での権益を求めたからです。しかし、議会で多数を占めた民党がそれに反発します。そこで、山縣内閣は自由党の議員を買収して多数派の切り崩しを図ったのです

第1回帝国議会閉会後に辞任

第1次山縣内閣による民党買収工作が実り1891(明治24)年3月に第1次山縣内閣は予算案を成立させることができました。そして、無事に第1回帝国議会の閉会を迎えたことを見送ったかのように山縣有朋は首相を辞任したのです。首相就任から1年8ヶ月後のことでした。

なお、山縣有朋は1898(明治31)年に第2次山縣内閣を組閣しています。閣僚には議員がおらず、すべて藩閥の人脈で構成されたため、組閣当時の第2次山縣内閣も超然内閣だったともいえるでしょう。しかし、当時は政党の協力なくして議会運営が成り立たなくなっていたため、第2次山縣内閣はすぐに憲政会と連携するようになりました

第1次松方正義内閣

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さらに、第1次山縣有朋内閣の後継である第1次松方正義内閣も超然内閣でした。この内閣についても詳しく見てみましょう。

選挙干渉

第1次山縣有朋内閣が総辞職した後に成立したのが、第1次松方正義です。しかし、第1次松方内閣の成立は困難を極めました内閣成立直後に大津事件が発生し事件の対応に追われたためです。閣僚が交代したこともあり、第1次松方内閣が本格的に始動するまでにしばらくの時間を要しました。

第1次松方内閣が積極的な財政方針を打ち出したのに対し、野党は予算の削減を主張。両者の対立が激しくなったこともあって、内閣成立から半年余りで衆議院は解散しました。すると、選挙期間中に政府は大規模な選挙干渉を行います。その結果、民党関係者を中心に死者25名を出す大惨事となったのです

閣内不一致で辞任

1892(明治25)年の衆議院総選挙が実施された後、第1次松方内閣は帝国議会に臨みましたが、民党からの政府批判が止みませんでした。選挙干渉に対する内閣弾劾決議が採択されると、内閣は窮地に追い込まれます。次々と閣僚が辞任するなどで閣内不一致となった第1次松方内閣は総選挙から半年近く経った後に総辞職しました

第1次松方内閣の後には、第2次伊藤博文内閣が成立します。日清戦争などを経験した内閣は4年ほど続き、その後を継いだのが第2次松方正義内閣でした。第2次松方内閣は進歩党と提携したため党首だった大隈重信と松方の名を取って「松隈内閣」(しょうわいないかく)とも呼ばれます

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寺内正毅内閣

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大正時代に入り、しばらく鳴りを潜めていた超然主義が、寺内正毅内閣によって復活しました。なぜ寺内内閣は超然主義を採用したのでしょうか。

不偏不党

1916(大正5)第2次大隈重信内閣の後に生まれたのが寺内正毅内閣でした。それまで朝鮮総督を務めていた寺内を、元老院が首相に推挙した形となります。寺内も、山縣有朋が支援して首相となった者の1人でした。寺内は貴族院や陸軍関係者を中心とした人事を起用した超然内閣を組織しました

寺内内閣が目指していたのは挙国一致体制でした。そのため、「不偏不党」というどの党や主義にも与しないという立場を取り続けていたのです。さらに、立憲政友会の原総裁と立憲国民党の犬養毅総裁を臨時外交調査会の委員に迎えました。当時の議会で多数派だった憲政会に対抗するためとされます。

米騒動で辞任

寺内内閣が成立したのは1916(大正5)年のことで第一次世界大戦の最中でした。そのため、日本は中国やロシアの動向に注意を払う必要がありました。中国に対しては、西原借款で段祺瑞(だんきずい)政権を援助。その一方で、ロシアにはシベリア出兵という形でロシア革命に干渉しようと試みたのです。

ところが、寺内内閣がシベリア出兵を宣言したため米問屋などによる米の買い占めや売り惜しみが横行し始めます。そのため、米の価格が急騰して、市民生活に多大な影響を及ぼしました。すると、全国で米騒動が発生して暴動を鎮圧させるために軍隊が出動するほどでした。その結果、米騒動の責任を取って寺内内閣は総辞職しました

清浦奎吾内閣

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日本で最後の超然内閣とされるのが、清浦奎吾内閣です。清浦内閣の成立から総辞職までを、簡単に振り返ってみましょう。

貴族院勢力を中心に組閣

超然主義の寺内内閣が倒れた後に日本初の本格的政党内閣である原敬内閣が成立します。しかし、東京駅で原が暗殺されるとそれ以降は安定しない政権が続きました。原の後を同じ政友会で原内閣の大蔵大臣だった高橋是清が引き継ぎましたが、党内をまとめ切れなかったために内閣を持続させられませんでした。

その次の加藤友三郎内閣は加藤の病死、第2次山本権兵衛内閣は虎ノ門事件により、ともに短命内閣となります。その後に成立したのが清浦奎吾内閣でした。枢密院議長だった清浦は貴族院の議員を中心に組閣選挙で選ばれた衆議院議員を起用しない超然主義の内閣となりました

\次のページで「第二次護憲運動」を解説!/

第二次護憲運動

清浦奎吾内閣が超然内閣となったのには理由がありました清浦が政党出身ではなかったことも理由の1つでした。さらに、清浦内閣が選挙管理内閣の性質も有していたことも理由となっていました。衆議院議員総選挙を目前に控え、滞りなく総選挙を終えるためには、政党から距離を置く清浦が首相には適任と考えられていたのです。

しかし、清浦奎吾内閣が生まれた1924(大正13)年は大正デモクラシーの真っ只中でした。すでに政党政治を求める機運が醸成されていたのです。立憲政友会・憲政会・革新倶楽部の3党は護憲三派を結成打倒清浦内閣に向けて総選挙で連携することを決めました

超然主義の終焉

1924(大正13)年に行われた衆議院総選挙では、清浦内閣を支持する政友本党と、護憲三派(立憲政友会・憲政会・革新倶楽部)との間で争われる形となりました。結果は、護憲三派の圧勝護憲三派の中から第1党となった憲政会の加藤高明総裁が首相となりました

護憲三派が清浦内閣を倒した一連の運動は第二次護憲運動と呼ばれます。藩閥政治の打破に動いた第一次護憲運動とともに、大正デモクラシーを象徴する出来事となりました。清浦奎吾内閣以降は超然主義を標榜する政権が日本には現れず、戦時中を除き、日本の内閣は議会や政党の意向を反映する政治を行っています

政党や議会の意思を尊重しない超然主義は昭和以降採用されていない

帝国議会が開設されてから大正時代にかけて、歴代内閣のいくつかは超然主義を採用していました。超然主義とは、政府が議会や政党の意思に制約されずに行動すべきという考えのことです。超然主義を掲げる内閣は大正時代まで存在しましたが、昭和以降は日本に超然内閣が生まれていません。大正デモクラシーなどを経験した日本には政党政治が定着しており、議会や政党の意思を無視した政権は成り立たないからです。

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現代社会

大正時代までの内閣で採用された「超然主義」とは?詳しい内容を歴代の超然内閣とともに歴史好きライターがわかりやすく解説

今回は、超然主義について学んでいこう。

明治から大正時代にかけての内閣では、超然主義を掲げるケースが見られた。しかし、現代では超然主義が採用されないため、超然主義がどのようなものか知らない人は多いでしょう。

超然主義の詳しい内容を、超然主義を採用した歴代内閣を紹介しながら日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

黒田清隆内閣

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日本で最初に超然主義を標榜した内閣は、明治時代中期に成立した黒田清隆内閣です。その時の様子を、超然主義の定義とともに見ていくことにしましょう。

超然主義とは?

超然」(ちょうぜん)とは、「物事にこだわらない世俗とかけ離れている」という意味です。一般的には「他の動きには関知せずに独自のことを行う主義」が「超然主義」となります。この「超然主義」が、日本史においては特別な意味でも使われているのです。

日本では特に帝国議会が設立されてから大正時代末期までの時期に「超然主義」という言葉が使われました。その場合の「超然主義」とは、「政府は議会や政党の意思に制約されずに行動すべきという考え」をいいます。今では考えられないことですが、当時は政権運営の方法の1つとして通用していました。

超然主義演説

1889(明治22)年2月12日、その日は大日本帝国憲法公布の翌日でした。当時の首相である黒田清隆は鹿鳴館で行われた式典で地方官を前に演説を行いました。いわゆる「超然演説」と呼ばれるものです。黒田は政府が政党の意向に左右されずに職務を遂行することを表明しました

黒田が超然演説を行った翌日伊藤博文も同様の演説をしています。つまり、日本の初代と2代目の内閣総理大臣が超然主義を認めていたのです。しかし、超然主義の表明に反発する者が現れました。その中には、伊藤とともに憲法起草に関わっていた、井上毅(こわし)・伊東巳代治(みよじ)・金子堅太郎らも含まれていたのです。

黒田首相だけ辞任する異例の事態

黒田清隆首相は立憲改進党の前総裁である大隈重信を外務大臣として入閣させるなどの方法で民党分裂工作を図りました。超然主義に反対する野党に対抗することが目的です。しかし、条約改正に反対する勢力に大隈が襲撃されると状況は一変責任を問われた黒田内閣は窮地に陥りました

黒田は明治天皇に対して全閣僚(大隈外務大臣を除く)の辞表を提出します。しかし、明治天皇は黒田の辞表だけを受理内大臣の三條實美に内閣総理大臣を兼任させて内閣を存続させたのです。三條實美による暫定内閣は2ヶ月ほど続き、山縣有朋に政権は引き継がれました。

第1次山縣有朋内閣

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黒田清隆内閣の後に成立した第1次山縣有朋内閣も、超然主義の内閣だったとされます。果たして、どのような内閣だったのでしょうか。

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