今回は、日中国交正常化について学んでいこう。

田中角栄の功績として有名なのが、日中国交正常化を実現させたことです。しかし、国交の「正常化」とはどういったものか、知らない人も多いでしょう。

日中国交正常化の内容や実現するまでの過程などを、戦後の日中関係とともに、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

中華人民共和国と中華民国

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まずは、中華人民共和国と台湾(中華民国)の国家体制が形成された時について見ていくことにしましょう。

中華人民共和国の建国宣言

第二次世界大戦が終結した直後から中国国民党と中国共産党との対立が再燃します。1920年代から両党は対立と協力(国共合作)を繰り返していましたが、1946(昭和21)年から本格的な武力衝突が始まりました。当初は国民党が優勢でしたが、戦況は徐々に逆転。共産党が中国本土を制圧しました

1949(昭和24)年10月1日毛沢東により中華人民共和国の建国が宣言されました。毛沢東は共産主義化を推進させ、中国共産党の一党独裁体制を確固たるものにしていきます。のちに中国は市場経済を導入。2010年代より世界第2位の経済大国にまで躍進しました

中華民国の台湾への遷都

19世紀末より日本が台湾を統治するようになり、戦時中も台湾は日本軍の南方への拠点として重要な役目を果たしていました。しかし、日本は戦争に敗れ台湾の領有権を放棄します。すると、日本と入れ替わるようにして中国国民党の南京国民政府が台湾に上陸しました

さらに、中国共産党との内戦に敗れた中国国民党が台湾へと逃れたのです蔣介石率いる中華民国の政府が首都を台北に遷都した形となります。台湾はあくまでも地域名で、国家としての正式な名称ではありません。今も中華民国が台湾地域を実効支配しているという表現が正しいでしょう。

戦後まもなくから70年代にかけての日中関係

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ここでは、戦後まもなくから1970年代にかけての日中関係を簡単に振り返ってみましょう。

日華平和条約

1951(昭和26)年にサンフランシスコ講和会議が開催されサンフランシスコ平和条約が締結されました日本と48の国々との間で第二次世界大戦を終結させるためのものです。その他にも、朝鮮の独立や台湾などの放棄を規定しています。しかし、48カ国に中国は含まれていませんでした

そこで、中国とは別個で条約締結を目指しましたが、中華人民共和国ではなく中華民国(台湾)と締結することになりました1952(昭和27)年に日本と台湾との間で結ばれたのが日華平和条約です。日華平和条約により、日本と台湾との戦争状態が集結しましたが、中国とは条約が結ばれない状況が続きました。

\次のページで「文化大革命で国交が停滞」を解説!/

文化大革命で国交が停滞

中国では1960年代半ばから70年代にかけて文化大革命が展開されました。文化の改革を装っていましたが、その実態は権力闘争でした。その結果、毛沢東が復権し自らの権威を確固たるものとしました。しかし、多くの書物や文化財が破壊されるなど、中国社会が疲弊することになります

文化大革命で中国全土が混乱に陥ったため中国のあらゆるものが停滞しました。外交もその例外ではなく、日本との関係が改善することはありませんでした。その一方で、日中間の貿易は覚書が交わされたこともあり少しずつ増えていきました。それでも、日本と中国との間で国交が結ばれる必要があったのは間違いありません。

日中国交正常化に向けての交渉

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田中角栄が総理大臣に就任すると、中国との国交正常化に意欲を見せます。果たして、どのようにして日中国交正常化が実現したのでしょうか。

ニクソン大統領の中国への接近

1971(昭和46)年2月アメリカのニクソン大統領が中国を訪問する計画があることを発表し世界中が衝撃を受けました。当時は冷戦の時代で、アメリカと中国は対立していると認識されていたからです。さらにニクソンは、同時期に金とアメリカドルとの交換停止も発表して2つの出来事は「ニクソンショック」と呼ばれるようになりました

1972(昭和47)年にニクソンの中国訪問が実現。毛沢東や周恩来との会談の場が設けられました。その結果、アメリカは中華人民共和国が唯一の政府であることを認め台湾が中国の一部であるという中華人民共和国の立場に異議を唱えないと表明したのです

田中角栄内閣の成立

高等小学校卒業という異色の経歴でありながら田中角栄は駆け上がるようにして政権の座を掴みました。30代で初めて閣僚となり、40代で自民党幹事長に。佐藤派から独立して田中派を立ち上げると、その直後の自民党総裁選挙に勝利。54歳にして内閣総理大臣となりました

田中は日本列島改造論を掲げて産業の構造改革や交通網の整備などに着手。高速道路や新幹線が次々と着工されました。しかし、列島改造ブームに沸く日本で投機ブームが発生し地価上昇や物価高を招いたのです。そこへオイルショックが重なったため、田中内閣は経済の安定化に苦慮することとなります。

「国交回復」ではなく「国交正常化」

田中角栄は1972(昭和47)年7月の首相就任直後から日中関係の構築に積極的な姿勢を示していました。ニクソンの中国訪問に影響を受けたとされます。すると、中国との間で話は順調に進み、1972年の9月に田中は中国を訪問周恩来首相らとの首脳会談が実現しました

会談の結果日中両国の首脳が日中共同声明に署名して日中国交正常化が成立しました中華人民共和国は1949(昭和24)年の建国以来日本との国交がなかったため「国交回復」ではなく「国交正常化」という表現が使われています。中国が中華人民共和国に変わってから、初めて日本との国交を結んだのです。

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日中国交正常化の後はどうなったのか

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ここからは、国交正常化が実現してから現在に至るまでの中国との関係について見てみましょう。

日中平和友好条約

1972(昭和47)年に日中国交正常化が実現し日本と中国との間で国交が樹立されました。しかし、すぐに条約締結という形には至りませんでした。「両国とも周辺地域での覇権を求めるべきではない」という、いわゆる反覇権条項を巡って日中間で対立があったとされます。

結局、「この条約は第三国との関係に影響を及ばすものではない」などとする第三国条項と呼ばれる表現を使うことで妥結しました1978(昭和53)年になり北京でようやく日中平和友好条約が調印されています。日中国交正常化から6年が経過してからのことでした。

村山談話

1995(平成7)当時の内閣総理大臣で社会党委員長だった村山富市が閣議決定に基づき「戦後50周年の終戦記念日にあたって」という声明を発表しました。いわゆる「村山談話」と呼ばれるものです。終戦からちょうど50年を迎える節目の日に発表されたものでした。

村山談話は政府が初めて公式で侵略と植民地支配について見解を示したものになりますそれらに関してアジア諸国に多大な損害と苦痛を与えたことを認め反省と心からのお詫びの気持ちを表したのです。この村山談話は、村山内閣以降も政府の公式見解として踏襲されています。

尖閣諸島問題

日本の政府は沖縄県にある尖閣諸島の領有権について「国際法上明らかであることから領有権の問題は存在しない」との見解を示しています。しかし、現に中国などと領有権を巡る争いがあるのも事実です。1970年代より、領有権の主張が盛んに行われるようになりました。

2010(平成22)年日本の海上保安庁の巡視船と中国の漁船が衝突漁船の船長が公務執行妨害の容疑で逮捕される事件が起きました2012(平成24)年には日本の政府が尖閣諸島の所有権を国に移して国有化したところ中国側が強く反発しています。現在も両者の主張は平行線をたどったままで、互いに譲りません。

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日中間における喫緊の問題とは

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最後に、日中間における喫緊の問題には何があるのでしょうか。

台湾危機

日中国交正常化により、日本と中国の国交は樹立されましたが、中華民国(台湾)との国交は断絶しました。ところが、現在の日本と台湾は互いに良好な関係を築き上げています。その一方で、国交のある中国とは台湾の領有権を巡る問題で緊迫するようになりました

習近平政権になってからは、中国が台湾統一に積極的な姿勢を見せています。もし台湾周辺で有事が起こった場合台湾と国境を接する日本も無関係ではいられません。日本は憲法で有事には自ら参加しないことになっていますので、今後は台湾情勢を注視するとともに万が一のために備えておくべきでしょう

政冷経熱

日中国交正常化により経済分野でも日中間の交流が進みます。さらに、中国が1990年代から改革開放路線に踏み切ったため日本企業の中国進出が活発化しました。その後、中国経済は成長を続け、2010年代に中国のGDP(国内総生産)は世界2位にまで上昇したのです。

しかし、靖国神社参拝問題などで日中の政治関係が悪化すると「政冷経熱」という言葉が叫ばれるようになります。経済分野では熱を帯びているが、政治では関係が冷めているという意味です。さらに、新型コロナやさらなる政治関係の悪化などが重なった結果「政冷経冷」などといった言葉まで持ち出されるようになりました

日中国交正常化で中国と国交が結ばれるも問題は残ったまま

中華人民共和国が建国されて以来、日本と中国に国交がないという「正常ではない」状態が続きました。田中角栄が日中関係を「正常な」ものにしようと取り組んだ結果、日中国交正常化が実現したのです。それ以来、経済分野では日中間の交流が発展しましたが、政治面での日中関係は緊迫する状況がたびたび訪れました。現在は台湾での有事を警戒せねばならず、正常化したはずの日中関係が危機を迎えているといっていいでしょう。

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現代社会

5分でわかる「日中国交正常化」何が正常ではなかったのか?戦後の日中関係も行政書士試験合格ライターがわかりやすく解説

今回は、日中国交正常化について学んでいこう。

田中角栄の功績として有名なのが、日中国交正常化を実現させたことです。しかし、国交の「正常化」とはどういったものか、知らない人も多いでしょう。

日中国交正常化の内容や実現するまでの過程などを、戦後の日中関係とともに、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

中華人民共和国と中華民国

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まずは、中華人民共和国と台湾(中華民国)の国家体制が形成された時について見ていくことにしましょう。

中華人民共和国の建国宣言

第二次世界大戦が終結した直後から中国国民党と中国共産党との対立が再燃します。1920年代から両党は対立と協力(国共合作)を繰り返していましたが、1946(昭和21)年から本格的な武力衝突が始まりました。当初は国民党が優勢でしたが、戦況は徐々に逆転。共産党が中国本土を制圧しました

1949(昭和24)年10月1日毛沢東により中華人民共和国の建国が宣言されました。毛沢東は共産主義化を推進させ、中国共産党の一党独裁体制を確固たるものにしていきます。のちに中国は市場経済を導入。2010年代より世界第2位の経済大国にまで躍進しました

中華民国の台湾への遷都

19世紀末より日本が台湾を統治するようになり、戦時中も台湾は日本軍の南方への拠点として重要な役目を果たしていました。しかし、日本は戦争に敗れ台湾の領有権を放棄します。すると、日本と入れ替わるようにして中国国民党の南京国民政府が台湾に上陸しました

さらに、中国共産党との内戦に敗れた中国国民党が台湾へと逃れたのです蔣介石率いる中華民国の政府が首都を台北に遷都した形となります。台湾はあくまでも地域名で、国家としての正式な名称ではありません。今も中華民国が台湾地域を実効支配しているという表現が正しいでしょう。

戦後まもなくから70年代にかけての日中関係

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ここでは、戦後まもなくから1970年代にかけての日中関係を簡単に振り返ってみましょう。

日華平和条約

1951(昭和26)年にサンフランシスコ講和会議が開催されサンフランシスコ平和条約が締結されました日本と48の国々との間で第二次世界大戦を終結させるためのものです。その他にも、朝鮮の独立や台湾などの放棄を規定しています。しかし、48カ国に中国は含まれていませんでした

そこで、中国とは別個で条約締結を目指しましたが、中華人民共和国ではなく中華民国(台湾)と締結することになりました1952(昭和27)年に日本と台湾との間で結ばれたのが日華平和条約です。日華平和条約により、日本と台湾との戦争状態が集結しましたが、中国とは条約が結ばれない状況が続きました。

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