江戸の大作家「井原西鶴」といえば『好色一代男』や『好色五人女』が有名です。しかし、ただただ有名なだけじゃない。彼はこれらの作品で当時まったく新しい小説のジャンル「浮世草子」を開拓し、人々に広めたんです。
今回は「井原西鶴」が誕生した元禄文化や彼の作品を歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。日本伝統芸能や文芸、文化に深い興味を持つ。今回はその中でも江戸時代の大作家「井原西鶴」について詳しくまとめた。

1.関ケ原から100年後!花開く江戸の元禄文化

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今回のテーマとなる「井原西鶴」が活躍したのは江戸時代前期、将軍は五代目の徳川綱吉の御代。このころはちょうど江戸幕府が開かれてから100年が経過しようとする時期で、戦国時代のような争いもなく人々は泰平の世のもとで活き活きと暮らしていました。

また、ちょうどそのころ江戸時代を代表する「元禄文化」がはじまった時期でもあります。井原西鶴が爆発的にヒットしたのもこの元禄時代でした。なぜ、井原西鶴は人気作家になったのか。まずはその時代の様子から見ていきましょう。

文化の担い手は上流階級から庶民へ!「元禄文化」の下地はここ

戦いがなく、商売や暮らしに精が出ると経済は豊かになっていきますね。産業や農業の発展により町民たちの経済力も上がり、その子どもたちは寺子屋という当時の教育施設で読み書きやそろばんなどを学ぶようになります。こうして文字の読み書きが可能になったことで新聞や小説などの読み物を受け入れる下地ができていきました。

また、人々のお財布事情が豊かになれば、生活レベルもそれに応じて上がり、ちょっとした趣味も楽むようになり、絵や俳句、焼き物などの芸術や文学が庶民の間に広まり始めました。庶民が芸術や文化、学問に触れたことでその発展に携われるようになったのです。

このようにして庶民が文化の中心となる「元禄文化」が始まりました。以前の文化の中心は貴族など上流階級の人々が作った雅なものでしたが、それらと比較すると町人たちのなかで築き上げられた元禄文化は華美で力強い印象があります。

歌舞伎に落語、近松や芭蕉も!「元禄文化」で発展した伝統芸能と担い手

現在日本の伝統芸能とされている歌舞伎や落語、浄瑠璃。これらは華々しい「元禄文化」のなかで誕生したり、さらなる発展をとげた芸能です。

現在も活躍中の歌舞伎俳優「市川團十郎」さんの先祖「初代市川團十郎」が登場、人気を博しました。初代市川團十郎を中心として創始された歌舞伎のジャンル「荒事」は、雄々しい芸風で、活気あふれる江戸の気質と合ってたいへんなヒットとなります。

また、落語のはじまりも元禄で、大阪・京都の上方では道や神社の境内で、江戸ではお座敷に人を集めて面白おかしく話を聞かせたことにはじまったとか。

そして、浄瑠璃を一変させた天才「近松門左衛門」。彼は大阪の道頓堀で義太夫節浄瑠璃の創設者・竹本義太夫とタッグを組んで竹本座をはじめ、浄瑠璃世界に新しい風を巻き起こします。

俳諧では、元禄の少し前に松尾芭蕉が。古典の教科書に載る『奥の細道』でみなさんご存じですね。

2.俳諧師から作家へ転職!多才な井原西鶴

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井原西鶴は1642年(寛永19年)ごろ紀伊国(現在の和歌山県)の中部の山間にある中津村に生まれました。作家として有名な井原西鶴ですが、実は最初は俳諧師を目指していました。

「俳諧」は平安時代にまでさかのぼる「俳諧連歌」のことで、即興的で滑稽な連歌を指します。要するに、五七七の発句と七七の脇句を別の人が交互に読み、俗世的な言葉や言葉遊びなどを用いて面白おかしく表現する文芸です。一方、俳諧から派生した俳句は、俳諧の最初の発句を独立させ、そこに季語を入れた優美な文芸となりました。

最初は貶しの意味だった?俳諧師・井原西鶴の「オランダ流」とは?

井原西鶴は15歳の時にこの俳諧を生業とする「俳諧師」になります。当時、流行した俳諧の派閥「談林派」に所属し、マンネリ化していた俳諧に奇抜な作風で殴り込み、「オランダ流」と称されました。

「オランダ流」は伝統的なものに対して、変わった革新的なもののことを指します。最初は井原西鶴の作風を貶すためにそう呼ばれたものを、彼自身が作風を誇示するために自らもそう名乗ったのです。「俺の俳諧は従来のマンネリ化したものじゃない、まったく新しい革新的な芸術だぞ!」というふうに。

そんな井原西鶴が得意だったのは、一昼夜にかけて発句をつくった数を競争する「矢数俳諧」です。これも井原西鶴が創り出したもので、最多記録は二万句を超えました。ライバルたちと競ったとはいえ、この数字は群を抜いています。

作家になったのは40歳!?第一作目『好色一代男』の発表

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1682年(天和2年)十月、井原西鶴の浮世草子第一作となる『好色一代男』が出版されます。『好色一代男』のあらすじを要約すると、「恋に生き、好色を尽くした男・浮世之介が60歳で女しかいない女護島を目指すまでの54年間の描く一代記」です。

当時、仏教や儒教の観点からあまりにも奔放な恋愛模様は良く思われませんでした。そのため、井原西鶴の書いた『好色一代男』は斬新で自由な風俗小説として大成功。作家としての処女作『好色一代男』は大ヒットし、多くの人々の目に触れることになりました。

漢文よりは読みやすい?浮世草子以前の「仮名草子」

井原西鶴が『好色一代男』を発表する以前、小説として世間一般に流布していたのは「仮名草子」と呼ばれるジャンルでした。読んで字のごとく、仮名で書かれたもの…漢文でなく、和文(日本語)で書かれた作品です。漢文を読むには高い教養が必要でしたから、庶民はあまり触れることはありませんでした。

けれど、ひらがな・カタカナを使う仮名草子は日本語がわかれば読めますね。なので、広く大衆に向けて発行されました。多くの庶民に読めるものですから、内容は様々。実用性や教訓を伝える説話から娯楽小説までいろんなものがありました。まさに、貴族から庶民まで誰でも手に取ることができたのです。

仮名草子は漢文よりは優しいけれど、ちょっと難しい話が書かれている、という印象でしょうか。文学は教養のある人々のもの、という従来の考えから、仮名草子の登場によって文学が庶民へ届けられるようになった、と考えてもよいでしょう。

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江戸時代のライトノベル!?井原西鶴が創設した新ジャンル「浮世草子」

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庶民に仮名草子が浸透した後、井原西鶴の『好色一代男』が発売されます。これが当時の小説のなかでもより娯楽性に特化した作品でした。恋愛を扱いつつ、当時の風俗や人情が書かれ、説話はありません。それどころか、主人公の浮世之介もまた遊女にしてやられたりして、完璧な男ではないように書かれているところも特徴のひとつです。

これより、仮名草子よりももっと娯楽性の強い小説を「浮世草子」と呼ぶようになります。現代風に言うと、江戸時代のライトノベルといったところでしょうか。以後、浮世草子は1783年に衰退するまで多くの作者に書かれ続けました。

『好色一代男』の大ヒットを期に井原西鶴は次々に好色物を世に発表していきます。

雑話物、武家物…次々に他ジャンルに手を出しヒットを生み続ける

井原西鶴は『好色一代男』以降も『諸艶大艦』(1684年刊行)、『好色五人女』(1686年刊行)と、町人の遊里生活と色恋沙汰を題材とする「好色物」を著しました。

その一方で『西鶴諸国ばなし』(1685年)などの雑話物、『武道伝来記』(1687年)などの武家物、親不孝を題材とした『本朝二十不孝』など、好色物に限らず幅広いジャンルの作品を発表していきます。それぞれ解説すると、「雑話物」は諸国の珍聞奇談を集めた作品、「武家物」は武家社会を題材にし、義理や仇討ち、道義を重んじる武士たちの生活を書いたものです。

井原西鶴が死去するまでの約十一年の間に幅広いジャンルの小説を二十五点残しました。ちなみに、井原西鶴は自分の作品の挿絵を自分自身で描くことも。文芸に絵にと非常に多彩な作家だったんですね。

浄瑠璃にも手を出した!? ひいきの浄瑠璃大夫のために書き下ろし!

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1685年(貞享2年)、井原西鶴は浄瑠璃の台本『暦』を書きあげました。これは井原西鶴がひいきにしていた浄瑠璃大夫・宇治加賀掾(うじ かがのじょう)のために書かれた作品です。執筆されたのが1685年ですから、井原西鶴が『好色一代男』で一世を風靡したあとで、大人気だったころですね。

ライバルは近松門左衛門!勝敗は!?

さて、宇治加賀掾は江戸時代前期から中期にかけて活動した浄瑠璃大夫であり、彼が率いる宇治座は京都で人気を博していました。当時まだまだ駆け出しだった作家「近松門左衛門」はこの宇治座で修行中、そして、後に竹本座を創設する竹本義太夫も宇治座に属しています。しかし、竹本義太夫が宇治座から独立し、近松門左衛門と提携してライバルとなったのです。

こうして、大阪の道頓堀にて宇治座と竹本座の競演がはじまりました。

宇治加賀掾は旗揚げした竹本座と戦うために上演したのが井原西鶴の『暦』です。一方、対する竹本座が上演したのが近松門左衛門の『賢女の手習新暦』。結果、『暦』は人気を得ることができず、負けてしまいます。

負けてしまった宇治加賀掾はさらに井原西鶴に依頼してできたのが『凱陣八島』(1685年)。近松門左衛門は『出世景清』で対抗します。こちらは宇治座が勝ち…と、名勝負を重ねていきました。

\次のページで「井原西鶴の死と出版され続けた遺稿集」を解説!/

井原西鶴の死と出版され続けた遺稿集

俳諧師だけでなく、作家としても大成した井原西鶴。その人生は、作家業を続けた11年目の1693年9月に幕を下ろしました。世は元禄文化の真っ只中にあり、その死は非常に惜しまれたことでしょう。井原西鶴の遺稿集として『西鶴置土産』が世に出された後も他の遺稿集が出版され続けました。

浮世草子創設、多才なインフルエンサー井原西鶴

俳諧師として成功した上に、俳諧に新しい風を吹き込んだ井原西鶴。「オランダ流」と称して活躍した…かと思えば、今度は40歳で作家として『好色一代男』を発表。小説の新たなジャンルであり、より娯楽に特化した「浮世草子」を創設します。また、『好色一代男』から始まる好色物も人々の目に新しい元の仕手写り、新作を次々と発表。浮世草子は多くの作家たちに影響を与え、長い間書き続けられました。

井原西鶴は自身の拓いた好色物だけでなく、武家物や雑話物など他の小説ジャンル、さらには浄瑠璃の台本などにも手を伸ばします。人間は成功したものに頼みがちですが、井原西鶴は次々と新しいものに挑戦していくチャレンジ精神にあふれた人物だったのです。そんな井原西鶴ですから、彼の代表作としてあげられる作品は非常に多くあります。ひとまずはデビュー作の『好色一代男』、そして『好色五人女』は覚えておいて損はありませんよ。

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日本史江戸時代

簡単にわかる「井原西鶴」!新ジャンル浮世草子発表し、元禄文化を彩った大作家を歴史オタクがわかりやすく解説

江戸時代のライトノベル!?井原西鶴が創設した新ジャンル「浮世草子」

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庶民に仮名草子が浸透した後、井原西鶴の『好色一代男』が発売されます。これが当時の小説のなかでもより娯楽性に特化した作品でした。恋愛を扱いつつ、当時の風俗や人情が書かれ、説話はありません。それどころか、主人公の浮世之介もまた遊女にしてやられたりして、完璧な男ではないように書かれているところも特徴のひとつです。

これより、仮名草子よりももっと娯楽性の強い小説を「浮世草子」と呼ぶようになります。現代風に言うと、江戸時代のライトノベルといったところでしょうか。以後、浮世草子は1783年に衰退するまで多くの作者に書かれ続けました。

『好色一代男』の大ヒットを期に井原西鶴は次々に好色物を世に発表していきます。

雑話物、武家物…次々に他ジャンルに手を出しヒットを生み続ける

井原西鶴は『好色一代男』以降も『諸艶大艦』(1684年刊行)、『好色五人女』(1686年刊行)と、町人の遊里生活と色恋沙汰を題材とする「好色物」を著しました。

その一方で『西鶴諸国ばなし』(1685年)などの雑話物、『武道伝来記』(1687年)などの武家物、親不孝を題材とした『本朝二十不孝』など、好色物に限らず幅広いジャンルの作品を発表していきます。それぞれ解説すると、「雑話物」は諸国の珍聞奇談を集めた作品、「武家物」は武家社会を題材にし、義理や仇討ち、道義を重んじる武士たちの生活を書いたものです。

井原西鶴が死去するまでの約十一年の間に幅広いジャンルの小説を二十五点残しました。ちなみに、井原西鶴は自分の作品の挿絵を自分自身で描くことも。文芸に絵にと非常に多彩な作家だったんですね。

浄瑠璃にも手を出した!? ひいきの浄瑠璃大夫のために書き下ろし!

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1685年(貞享2年)、井原西鶴は浄瑠璃の台本『暦』を書きあげました。これは井原西鶴がひいきにしていた浄瑠璃大夫・宇治加賀掾(うじ かがのじょう)のために書かれた作品です。執筆されたのが1685年ですから、井原西鶴が『好色一代男』で一世を風靡したあとで、大人気だったころですね。

ライバルは近松門左衛門!勝敗は!?

さて、宇治加賀掾は江戸時代前期から中期にかけて活動した浄瑠璃大夫であり、彼が率いる宇治座は京都で人気を博していました。当時まだまだ駆け出しだった作家「近松門左衛門」はこの宇治座で修行中、そして、後に竹本座を創設する竹本義太夫も宇治座に属しています。しかし、竹本義太夫が宇治座から独立し、近松門左衛門と提携してライバルとなったのです。

こうして、大阪の道頓堀にて宇治座と竹本座の競演がはじまりました。

宇治加賀掾は旗揚げした竹本座と戦うために上演したのが井原西鶴の『暦』です。一方、対する竹本座が上演したのが近松門左衛門の『賢女の手習新暦』。結果、『暦』は人気を得ることができず、負けてしまいます。

負けてしまった宇治加賀掾はさらに井原西鶴に依頼してできたのが『凱陣八島』(1685年)。近松門左衛門は『出世景清』で対抗します。こちらは宇治座が勝ち…と、名勝負を重ねていきました。

\次のページで「井原西鶴の死と出版され続けた遺稿集」を解説!/

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