

今回は「井原西鶴」が誕生した元禄文化や彼の作品を歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していくぞ。
- 1.関ケ原から100年後!花開く江戸の元禄文化
- 文化の担い手は上流階級から庶民へ!「元禄文化」の下地はここ
- 歌舞伎に落語、近松や芭蕉も!「元禄文化」で発展した伝統芸能と担い手
- 2.俳諧師から作家へ転職!多才な井原西鶴
- 最初は貶しの意味だった?俳諧師・井原西鶴の「オランダ流」とは?
- 作家になったのは40歳!?第一作目『好色一代男』の発表
- 漢文よりは読みやすい?浮世草子以前の「仮名草子」
- 江戸時代のライトノベル!?井原西鶴が創設した新ジャンル「浮世草子」
- 雑話物、武家物…次々に他ジャンルに手を出しヒットを生み続ける
- 浄瑠璃にも手を出した!? ひいきの浄瑠璃大夫のために書き下ろし!
- ライバルは近松門左衛門!勝敗は!?
- 井原西鶴の死と出版され続けた遺稿集
- 浮世草子創設、多才なインフルエンサー井原西鶴
この記事の目次

解説/桜木建二
「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/リリー・リリコ
興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。日本伝統芸能や文芸、文化に深い興味を持つ。今回はその中でも江戸時代の大作家「井原西鶴」について詳しくまとめた。
1.関ケ原から100年後!花開く江戸の元禄文化

今回のテーマとなる「井原西鶴」が活躍したのは江戸時代前期、将軍は五代目の徳川綱吉の御代。このころはちょうど江戸幕府が開かれてから100年が経過しようとする時期で、戦国時代のような争いもなく人々は泰平の世のもとで活き活きと暮らしていました。
また、ちょうどそのころ江戸時代を代表する「元禄文化」がはじまった時期でもあります。井原西鶴が爆発的にヒットしたのもこの元禄時代でした。なぜ、井原西鶴は人気作家になったのか。まずはその時代の様子から見ていきましょう。
こちらの記事もおすすめ
文化の担い手は上流階級から庶民へ!「元禄文化」の下地はここ
戦いがなく、商売や暮らしに精が出ると経済は豊かになっていきますね。産業や農業の発展により町民たちの経済力も上がり、その子どもたちは寺子屋という当時の教育施設で読み書きやそろばんなどを学ぶようになります。こうして文字の読み書きが可能になったことで新聞や小説などの読み物を受け入れる下地ができていきました。
また、人々のお財布事情が豊かになれば、生活レベルもそれに応じて上がり、ちょっとした趣味も楽むようになり、絵や俳句、焼き物などの芸術や文学が庶民の間に広まり始めました。庶民が芸術や文化、学問に触れたことでその発展に携われるようになったのです。
このようにして庶民が文化の中心となる「元禄文化」が始まりました。以前の文化の中心は貴族など上流階級の人々が作った雅なものでしたが、それらと比較すると町人たちのなかで築き上げられた元禄文化は華美で力強い印象があります。
こちらの記事もおすすめ
歌舞伎に落語、近松や芭蕉も!「元禄文化」で発展した伝統芸能と担い手
現在日本の伝統芸能とされている歌舞伎や落語、浄瑠璃。これらは華々しい「元禄文化」のなかで誕生したり、さらなる発展をとげた芸能です。
現在も活躍中の歌舞伎俳優「市川團十郎」さんの先祖「初代市川團十郎」が登場、人気を博しました。初代市川團十郎を中心として創始された歌舞伎のジャンル「荒事」は、雄々しい芸風で、活気あふれる江戸の気質と合ってたいへんなヒットとなります。
また、落語のはじまりも元禄で、大阪・京都の上方では道や神社の境内で、江戸ではお座敷に人を集めて面白おかしく話を聞かせたことにはじまったとか。
そして、浄瑠璃を一変させた天才「近松門左衛門」。彼は大阪の道頓堀で義太夫節浄瑠璃の創設者・竹本義太夫とタッグを組んで竹本座をはじめ、浄瑠璃世界に新しい風を巻き起こします。
俳諧では、元禄の少し前に松尾芭蕉が。古典の教科書に載る『奥の細道』でみなさんご存じですね。
こちらの記事もおすすめ

伝統芸能「歌舞伎」の成り立ちを歴史マニアが5分でわかりやすく解説 – Study-Z ドラゴン桜と学ぶWebマガジン

井原西鶴が活躍した「元禄」のころは、町民に活気があって経済的にも豊かだった。庶民たちが文化に触れ、それまでにない発展を遂げることになる。井原西鶴以外にも、近松門左衛門や松尾芭蕉、初代市川團十郎という華々しいメンバーがこの時代を彩っていたんだな。
2.俳諧師から作家へ転職!多才な井原西鶴
I, KENPEI, CC 表示-継承 3.0, リンクによる
井原西鶴は1642年(寛永19年)ごろ紀伊国(現在の和歌山県)の中部の山間にある中津村に生まれました。作家として有名な井原西鶴ですが、実は最初は俳諧師を目指していました。
「俳諧」は平安時代にまでさかのぼる「俳諧連歌」のことで、即興的で滑稽な連歌を指します。要するに、五七七の発句と七七の脇句を別の人が交互に読み、俗世的な言葉や言葉遊びなどを用いて面白おかしく表現する文芸です。一方、俳諧から派生した俳句は、俳諧の最初の発句を独立させ、そこに季語を入れた優美な文芸となりました。
こちらの記事もおすすめ
最初は貶しの意味だった?俳諧師・井原西鶴の「オランダ流」とは?
井原西鶴は15歳の時にこの俳諧を生業とする「俳諧師」になります。当時、流行した俳諧の派閥「談林派」に所属し、マンネリ化していた俳諧に奇抜な作風で殴り込み、「オランダ流」と称されました。
「オランダ流」は伝統的なものに対して、変わった革新的なもののことを指します。最初は井原西鶴の作風を貶すためにそう呼ばれたものを、彼自身が作風を誇示するために自らもそう名乗ったのです。「俺の俳諧は従来のマンネリ化したものじゃない、まったく新しい革新的な芸術だぞ!」というふうに。
そんな井原西鶴が得意だったのは、一昼夜にかけて発句をつくった数を競争する「矢数俳諧」です。これも井原西鶴が創り出したもので、最多記録は二万句を超えました。ライバルたちと競ったとはいえ、この数字は群を抜いています。
作家になったのは40歳!?第一作目『好色一代男』の発表

1682年(天和2年)十月、井原西鶴の浮世草子第一作となる『好色一代男』が出版されます。『好色一代男』のあらすじを要約すると、「恋に生き、好色を尽くした男・浮世之介が60歳で女しかいない女護島を目指すまでの54年間の描く一代記」です。
当時、仏教や儒教の観点からあまりにも奔放な恋愛模様は良く思われませんでした。そのため、井原西鶴の書いた『好色一代男』は斬新で自由な風俗小説として大成功。作家としての処女作『好色一代男』は大ヒットし、多くの人々の目に触れることになりました。
漢文よりは読みやすい?浮世草子以前の「仮名草子」
井原西鶴が『好色一代男』を発表する以前、小説として世間一般に流布していたのは「仮名草子」と呼ばれるジャンルでした。読んで字のごとく、仮名で書かれたもの…漢文でなく、和文(日本語)で書かれた作品です。漢文を読むには高い教養が必要でしたから、庶民はあまり触れることはありませんでした。
けれど、ひらがな・カタカナを使う仮名草子は日本語がわかれば読めますね。なので、広く大衆に向けて発行されました。多くの庶民に読めるものですから、内容は様々。実用性や教訓を伝える説話から娯楽小説までいろんなものがありました。まさに、貴族から庶民まで誰でも手に取ることができたのです。
仮名草子は漢文よりは優しいけれど、ちょっと難しい話が書かれている、という印象でしょうか。文学は教養のある人々のもの、という従来の考えから、仮名草子の登場によって文学が庶民へ届けられるようになった、と考えてもよいでしょう。
\次のページで「江戸時代のライトノベル!?井原西鶴が創設した新ジャンル「浮世草子」」を解説!/