現代社会

田中義一による「田中外交」とは?その詳しい内容を田中義一の生涯とともに歴史好きライターがわかりやすく解説

立憲政友会の総裁に就任

1924(大正13)年の第二次護憲運動によって立憲政友会は分裂しました総裁の高橋是清は辞意を伝え後任探しに着手します。しかし、人事は難航し党外からも探した末に選ばれたのが田中義一でした。それにより、田中は軍人から政治家に転身して、立憲政友会の総裁に就任しました。

ところが、田中が立憲政友会に加わる際の持参金が問題視されたのです当時の金額で300万円を持参金としましたがそれは田中が軍事機密費を横領したものではないかという疑惑が上がりました。帝国議会でもその問題は取り上げられましたが、結局は有耶無耶のままで事実は解明されませんでした。

田中義一内閣の成立

1927(昭和2)年に昭和金融恐慌が発生し全国の銀行で取り付け騒ぎが起きます。鈴木商店が倒産し、台湾銀行が休業に追い込まれるなど、日本の経済は混乱したのです。第1次若槻禮次郎内閣は解決策を見出すことができず総辞職に追い込まれました

その後に成立したのが田中義一内閣です田中は立憲政友会で人事を固め大蔵大臣に政界を引退していた元首相の高橋是清を招聘しました。すると、高橋は大量の紙幣発行を指示し、銀行の店頭に積み上げさせるという大胆な施策を講じたのです。大量の紙幣を目にした預金者は安心するようになり、次第に金融市場は落ち着きを取り戻しました。

「田中外交」とは

image by iStockphoto

では、田中義一の手によって展開された「田中外交」とは、どのようなものだったのでしょうか。

積極外交

1927(昭和2)年に成立した田中義一内閣では首相の田中が外務大臣を兼任しました。外務大臣になりうる人材はいましたが、就任への合意に至らなかったこともあり、最終的に田中が自ら務めることにしたという経緯があったのです。のちに、内務大臣なども田中は兼任しています。

「田中外交」とは田中義一が首相兼外務大臣として行った外交のことです。田中外交を一言で表すなら「積極外交」となります。これは、外国に対して強硬的な姿勢を取るというものです特に中国に対しては厳しい姿勢で臨み日本が積極的に中国に干渉することで中国での日本の権益を確立しようと試みました

「幣原外交」との違い

田中義一による外交が「田中外交」として殊更に取り上げられるのは「幣原外交」の存在があったからに他なりません。「幣原外交」とは、外務大臣で後に総理大臣にもなった幣原喜重郎による外交のことです。田中義一内閣が成立する直前まで幣原外交が展開されていました

幣原外交は「協調外交」と一言で表すことができます幣原外交では欧米諸国とは協調して国際秩序を遵守するよう努めました。その一方で、中国に対しては内政不干渉を貫いて中国での問題を中国自らが解決するようにさせたのです。幣原外交と田中外交とでは中国に対する姿勢が正反対だったため、2つは対比して引き合いに出されます。

山東出兵

田中外交の顕著な例が山東出兵といえるでしょう。山東出兵とは1927(昭和2)年から1928(昭和3)年にかけて日本が中国の国民革命に干渉するため中国の山東省に軍隊を派遣したことです。第1次から第3次にわたって行われました。第2次の出兵では、済南事件と呼ばれる武力衝突も発生しています。

3度の出兵は日本人の居留民保護を名目にして実行されました。その他にも、国民党軍から張作霖の軍閥を守ることなどが目的となっています。ところが、山東出兵で中国に軍事介入したため日本は他の列強国から信用を失うことになりました。さらに、中国では反日感情が抱かれるようになります

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