現代社会

田中義一による「田中外交」とは?その詳しい内容を田中義一の生涯とともに歴史好きライターがわかりやすく解説

原敬内閣

1918(大正7)年に米騒動により寺内正毅内閣が総辞職しのちに「平民宰相」と呼ばれるようになる原敬が後継の総理大臣に原内閣の陸軍大臣には田中義一が就任しました。田中は陸軍からの起用でしたが、多くのポストは立憲政友会所属の国会議員が就任。そのため、原敬内閣は日本初の本格的政党内閣と呼ばれます。

田中が陸軍大臣となりシベリア出兵が実行されました。さらに、尼港事件の対応などに追われ田中の心労が重なることになります1921(大正10)田中は狭心症で倒れると任期半ばで陸軍大臣を辞任。田中は大事を取って、静養生活に入りました。

第2次山本権兵衛内閣

1921(大正10)田中義一が外務大臣を辞任してからおよそ5ヶ月後東京駅で原敬が暗殺されました空位となった総理大臣には高橋是清が就任しさらに加藤友三郎が引き継ぎます。しかし、加藤は在任中に病死。その後に成立したのが第2次山本権兵衛内閣です

1923(大正12)年9月成立の第2次山本権兵衛内閣で田中義一は2度目の陸軍大臣に就任しました。しかし、組閣から3ヶ月後に虎ノ門事件が発生して第2次山本内閣は総辞職に追い込まれたのです。次に成立した清浦奎吾内閣は貴族院中心で人事を固めたため、田中にお呼びがかかることはありませんでした。

軍人から政治家への転身

image by iStockphoto

それまで軍人として活躍していた田中義一は、病気などを転機に政治家へと転身します。ここでは、田中が内閣総理大臣になるまでを見てみましょう。

\次のページで「立憲政友会の総裁に就任」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: