今回は、田中義一について学んでいこう。

田中義一は、それまでの日本の外交路線から大きく方針を転換した「田中外交」を実施した。果たして、田中外交とはどのようなものだったのでしょうか。

田中義一の生涯を振り返るとともに、田中外交がどのような内容だったかを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

田中義一が軍人として名を揚げるまで

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まずは、田中義一の若かりし頃から軍人として名を揚げるまでを見ていくことにしましょう。

13歳で萩の乱に加わる

田中義一(たなかぎいち)1864(元治元)年に現在の山口県萩市で生まれました。父は長州藩の下級武士でした。義一が幼少の頃に明治政府が樹立されましたが、武士は特権を奪われたため、全国各地で士族の反乱が発生します。山口県では萩の乱が起こり当時13歳の義一も参加しました

田中は20歳になると陸軍教導団に入ります。その後、陸軍士官学校や陸軍大学校を卒業すると田中は日清戦争に従軍しました。戦争が終結した後の田中はロシアに留学。ロシア研究やロシア軍の調査などに勤しみ、ロシア通を自負するほどまでになりました。

日露戦争に参加

1904(明治37)年に開戦した日露戦争では田中義一は満州軍参謀として参加。その頃に、後に深く関わることになる張作霖(ちょうさくりん)と知り合ったとされます。日露戦争が終わると、田中は山縣有朋に抜擢されました。当時は陸軍中佐でしたが、帝国国防方針の原案作成を命じられたのです

1910(明治43)年には現役を離れた軍人のための団体である在郷軍人会を組織。さらに、軍事課長や軍務局長などを歴任しました。1915(大正4)年に参謀次長となり中将にまで昇進しています。なお、1921(大正10)年には陸軍大将に任ぜられました。

2度陸軍大臣に就任した田中義一

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田中義一は、陸軍所属時に2度陸軍大臣に就任しています。その時の様子を簡単に見てみましょう。

\次のページで「原敬内閣」を解説!/

原敬内閣

1918(大正7)年に米騒動により寺内正毅内閣が総辞職しのちに「平民宰相」と呼ばれるようになる原敬が後継の総理大臣に原内閣の陸軍大臣には田中義一が就任しました。田中は陸軍からの起用でしたが、多くのポストは立憲政友会所属の国会議員が就任。そのため、原敬内閣は日本初の本格的政党内閣と呼ばれます。

田中が陸軍大臣となりシベリア出兵が実行されました。さらに、尼港事件の対応などに追われ田中の心労が重なることになります1921(大正10)田中は狭心症で倒れると任期半ばで陸軍大臣を辞任。田中は大事を取って、静養生活に入りました。

第2次山本権兵衛内閣

1921(大正10)田中義一が外務大臣を辞任してからおよそ5ヶ月後東京駅で原敬が暗殺されました空位となった総理大臣には高橋是清が就任しさらに加藤友三郎が引き継ぎます。しかし、加藤は在任中に病死。その後に成立したのが第2次山本権兵衛内閣です

1923(大正12)年9月成立の第2次山本権兵衛内閣で田中義一は2度目の陸軍大臣に就任しました。しかし、組閣から3ヶ月後に虎ノ門事件が発生して第2次山本内閣は総辞職に追い込まれたのです。次に成立した清浦奎吾内閣は貴族院中心で人事を固めたため、田中にお呼びがかかることはありませんでした。

軍人から政治家への転身

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それまで軍人として活躍していた田中義一は、病気などを転機に政治家へと転身します。ここでは、田中が内閣総理大臣になるまでを見てみましょう。

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立憲政友会の総裁に就任

1924(大正13)年の第二次護憲運動によって立憲政友会は分裂しました総裁の高橋是清は辞意を伝え後任探しに着手します。しかし、人事は難航し党外からも探した末に選ばれたのが田中義一でした。それにより、田中は軍人から政治家に転身して、立憲政友会の総裁に就任しました。

ところが、田中が立憲政友会に加わる際の持参金が問題視されたのです当時の金額で300万円を持参金としましたがそれは田中が軍事機密費を横領したものではないかという疑惑が上がりました。帝国議会でもその問題は取り上げられましたが、結局は有耶無耶のままで事実は解明されませんでした。

田中義一内閣の成立

1927(昭和2)年に昭和金融恐慌が発生し全国の銀行で取り付け騒ぎが起きます。鈴木商店が倒産し、台湾銀行が休業に追い込まれるなど、日本の経済は混乱したのです。第1次若槻禮次郎内閣は解決策を見出すことができず総辞職に追い込まれました

その後に成立したのが田中義一内閣です田中は立憲政友会で人事を固め大蔵大臣に政界を引退していた元首相の高橋是清を招聘しました。すると、高橋は大量の紙幣発行を指示し、銀行の店頭に積み上げさせるという大胆な施策を講じたのです。大量の紙幣を目にした預金者は安心するようになり、次第に金融市場は落ち着きを取り戻しました。

「田中外交」とは

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では、田中義一の手によって展開された「田中外交」とは、どのようなものだったのでしょうか。

積極外交

1927(昭和2)年に成立した田中義一内閣では首相の田中が外務大臣を兼任しました。外務大臣になりうる人材はいましたが、就任への合意に至らなかったこともあり、最終的に田中が自ら務めることにしたという経緯があったのです。のちに、内務大臣なども田中は兼任しています。

「田中外交」とは田中義一が首相兼外務大臣として行った外交のことです。田中外交を一言で表すなら「積極外交」となります。これは、外国に対して強硬的な姿勢を取るというものです特に中国に対しては厳しい姿勢で臨み日本が積極的に中国に干渉することで中国での日本の権益を確立しようと試みました

「幣原外交」との違い

田中義一による外交が「田中外交」として殊更に取り上げられるのは「幣原外交」の存在があったからに他なりません。「幣原外交」とは、外務大臣で後に総理大臣にもなった幣原喜重郎による外交のことです。田中義一内閣が成立する直前まで幣原外交が展開されていました

幣原外交は「協調外交」と一言で表すことができます幣原外交では欧米諸国とは協調して国際秩序を遵守するよう努めました。その一方で、中国に対しては内政不干渉を貫いて中国での問題を中国自らが解決するようにさせたのです。幣原外交と田中外交とでは中国に対する姿勢が正反対だったため、2つは対比して引き合いに出されます。

山東出兵

田中外交の顕著な例が山東出兵といえるでしょう。山東出兵とは1927(昭和2)年から1928(昭和3)年にかけて日本が中国の国民革命に干渉するため中国の山東省に軍隊を派遣したことです。第1次から第3次にわたって行われました。第2次の出兵では、済南事件と呼ばれる武力衝突も発生しています。

3度の出兵は日本人の居留民保護を名目にして実行されました。その他にも、国民党軍から張作霖の軍閥を守ることなどが目的となっています。ところが、山東出兵で中国に軍事介入したため日本は他の列強国から信用を失うことになりました。さらに、中国では反日感情が抱かれるようになります

\次のページで「張作霖爆殺事件と突然の死」を解説!/

張作霖爆殺事件と突然の死

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最後に、田中義一が首相を辞任してから生涯を終えるまでを見てみましょう。

関東軍の暴走

「田中外交」により、日本は中国に対して強硬な態度を取り続けました。その一方で、張作霖を利用することで日本の権益を維持させようとしていたのも事実です。しかし、張作霖の存在を疎ましく思っていた勢力がありました。それが、大日本帝国陸軍の部隊の1つである関東軍でした

関東軍は満州地域を占領して、満州一帯を日本の領土とする野望がありました。そのために排除したかったのが、満州を実効支配していた張作霖だったのです。1928(昭和3)張作霖を乗せた列車が爆破され乗っていた張作霖を含む10数名が死亡しましたもちろん関東軍の仕業でした

昭和天皇から叱責される

張作霖爆殺事件または発生した地名から奉天事件とも呼ばれる出来事はすぐさま日本にも伝わりました。しかし、事件は「満州某重大事件」として真相が明かされぬままでした。田中は事件の容疑者を処罰すべきと主張し昭和天皇にその旨を伝えましたが軍部に強く反対されます

そのため、当事者の処罰を断念したところ今度は野党に批判されました。さらに、関東軍に対する処罰はないと昭和天皇に上奏したところ田中は昭和天皇に叱責されたのです。当初は処罰することを主張していたのに、後に処罰がないと聞かされれば当然のことでしょう。その結果、田中内閣は張作霖爆殺事件の責任を取り総辞職しました

総理辞任後の急死

田中義一は張作霖爆殺事件のことで昭和天皇に叱責されたことに堪えていたとされます。さらに、田中はもともと心臓に既往症を持っていたため、首相辞任後はあまり人前には出なくなりました。そして、辞任からわずか3ヶ月後に田中義一は亡くなったのです。まだ65歳でした。

田中の死後から2年1931(昭和6)年に満州事変が発生さらに2年には満州国の建国が宣言されました。満州国には日本の傀儡政権が発足して、その後は愛新覚羅溥儀を皇帝とする帝政に移行しています。日本による満州地域の支配は太平洋戦争が終結するまで続きました

「田中外交」とは中国に対する強硬的な外交

田中義一は首相と外務大臣を兼任して、「田中外交」と呼ばれる積極外交を展開しました。田中外交とは、特に中国に対しては強硬的な態度で臨み、中国における日本の権益を確保することを目的としたものです。しかし、関東軍が暴走したことで張作霖爆殺事件が発生し、田中の外交方針は崩れてしまいます。その結果、田中は事件発生の責任を取り、内閣総辞職を余儀なくされました。

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現代社会

田中義一による「田中外交」とは?その詳しい内容を田中義一の生涯とともに歴史好きライターがわかりやすく解説

今回は、田中義一について学んでいこう。

田中義一は、それまでの日本の外交路線から大きく方針を転換した「田中外交」を実施した。果たして、田中外交とはどのようなものだったのでしょうか。

田中義一の生涯を振り返るとともに、田中外交がどのような内容だったかを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

田中義一が軍人として名を揚げるまで

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まずは、田中義一の若かりし頃から軍人として名を揚げるまでを見ていくことにしましょう。

13歳で萩の乱に加わる

田中義一(たなかぎいち)1864(元治元)年に現在の山口県萩市で生まれました。父は長州藩の下級武士でした。義一が幼少の頃に明治政府が樹立されましたが、武士は特権を奪われたため、全国各地で士族の反乱が発生します。山口県では萩の乱が起こり当時13歳の義一も参加しました

田中は20歳になると陸軍教導団に入ります。その後、陸軍士官学校や陸軍大学校を卒業すると田中は日清戦争に従軍しました。戦争が終結した後の田中はロシアに留学。ロシア研究やロシア軍の調査などに勤しみ、ロシア通を自負するほどまでになりました。

日露戦争に参加

1904(明治37)年に開戦した日露戦争では田中義一は満州軍参謀として参加。その頃に、後に深く関わることになる張作霖(ちょうさくりん)と知り合ったとされます。日露戦争が終わると、田中は山縣有朋に抜擢されました。当時は陸軍中佐でしたが、帝国国防方針の原案作成を命じられたのです

1910(明治43)年には現役を離れた軍人のための団体である在郷軍人会を組織。さらに、軍事課長や軍務局長などを歴任しました。1915(大正4)年に参謀次長となり中将にまで昇進しています。なお、1921(大正10)年には陸軍大将に任ぜられました。

2度陸軍大臣に就任した田中義一

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田中義一は、陸軍所属時に2度陸軍大臣に就任しています。その時の様子を簡単に見てみましょう。

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