簡単に分かる「サハリン」と「樺太」の違い!実は同じ場所?ロシアに暮らす院卒日本語教師が分かりやすく解説
日本とロシアの進出
平安時代以降、交易などで日本人が「樺太」に渡ることはしばしばありましたが、大規模なものではありませんでした。日本人が本格的に「樺太」に進出するのは江戸時代初期以降で、松前藩がその管理を行っていました。
一方のロシアも17世紀半ばに「サハリン」に初めて到達して以降、「サハリン」に暮らす少数民族との接触を強めていきます。ロシアが何度も「サハリン」に探検隊を派遣していることは江戸幕府も承知の事実となり、江戸幕府も対抗して調査隊を何度も派遣しました。
日本とロシアの進出は、時には1807年の「文化露寇」と呼ばれる紛争にまで発展します。しかし明確な帰属や国境は定まりませんでした。また、1809年に間宮林蔵が「樺太」と大陸の間に海峡があることを発見し、「樺太」が島であることが正式に判明します。
日本とロシア(ソ連)で帰属が転々と…
幕末に入り日本は欧米諸国と条約を結び、正式な近代的な外交関係を樹立します。その中にはロシアも含まれていました。1855年に締結された日露和親条約では「サハリン」「樺太」の国境を決定することはできず、日本人とロシア人の混住の地とされました。その後1867年にむすばれた条約でも「サハリン」「樺太」は日本人とロシア人の雑居地と定められます。
1875年に千島・樺太交換条約によって「サハリン」「樺太」は全土がロシア領になりました。しかし1904年発生の日露戦争で日本が勝利すると、1905年のポーツマス条約で「サハリン」「樺太」の南半分(南樺太)が日本領となります。
1905年以降、1945年の第二次世界大戦終結まで「南樺太」は日本の一部であり、多くの日本人や当時日本の支配下だった朝鮮人が進出しました。
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第二次世界大戦後は全土がソ連(ロシア)領に
第二次世界大戦末期の1945年8月9日、ソ連軍(1922年ロシアはソ連に生まれ変わっていました)が中立条約を一方的に破棄して「南樺太」に侵攻を開始。当時「南樺太」には約40万人の日本人が暮らしており、多くが北海道に脱出しました。
結局「南樺太」はソ連に占領され「サハリン」「樺太」全土がソ連領に。ソ連崩壊後は新生ロシア連邦がその支配を引き継ぎ現在に至ります。
日本は1951年に調印したサンフランシスコ平和条約で「南樺太」の領有を放棄していますが、引き渡し先は明記されていないため、「南樺太」について厳密に言えば、ロシアが実効支配しているものの日本とロシアの国境が定まっていない地帯ということになっているのです。
現在の「サハリン」「樺太」
こうして現在は「サハリン」「樺太」と呼ばれる1つの島はロシア連邦の支配下にあります。ただ地理的には北海道に非常に近く、かつて南半分が日本領だったこともあり、日本とのつながりが深い地でもあるのです。
ロシア連邦のサハリン州
現在の「サハリン」「樺太」は全土がロシア連邦の「サハリン州」の一部となっています。「サハリン州」は「サハリン」「樺太」の他、一部を日本が領有権を主張している「クリル列島」がその範囲です。
現在の「サハリン」「樺太」のうち、かつて「南樺太」だった南半分には日本統治時代の遺構が多く残されており、建物は現在もそのまま使用されていることも多いですね。また、歴史的な背景から日本人の墓地が複数あったり、現在も暮らし続ける日本人や日本にルーツがある人が多くいたりするため、ユジノサハリンスク市に日本総領事館が置かれています。
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