鉄オタじゃなくても学校で習って知っている、そんな鉄道のひとつがシベリア鉄道。ウラジオストクからモスクワまでを一気に横断する、全長9000キロを超える鉄道です。広大な領土を誇るロシアは鉄道王国。さまざまな鉄道が縦横無尽に走っている。その軸となるのがシベリア鉄道と言ってもいいでしょう。

シベリア鉄道はどうやって始まりそして今に至るのか。ロシアの情勢の変化と絡めながらシベリア鉄道の歴史を世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史と文化を専門とする元大学教員。鉄道の写真を撮るのが好きないわゆる撮り鉄でもある。そこで鉄オタの憧れ、シベリア鉄道の歴史について調べてみた。

シベリア鉄道の長さは世界一

VL 85-022 container train.jpg
Sorovas - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

シベリア鉄道はモスクワからウラジオストクまでをつなぐ世界でいちばん長い鉄道。線路の長さは諸説ありますが9289キロ、7日間をかけて走行しています。鉄道の建設はロシア帝国時代にスタート。中断されることもありましたが大陸横断するまでの長さに成長していきました。

ロシア帝国時代にシベリア鉄道の計画がスタート

シベリアに鉄道を建設する計画があらわれたのはロシア帝国時代です。1851年にモスクワ・サンクトペテルブルク鉄道が完成。その時期にはすでにシベリア鉄道を建設する計画が浮上していました。

ことの発端はニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーがアムール川付近を占拠したこと。カストリ湾とアムール江岬のソフィウィスクをつなぐ馬車道をつくろうとしました。企画案はいろいろ出てきましたがどれも不採用。1860年代に入るまで停滞していました。

飢饉がきっかけでシベリア鉄道の計画が浮上

シベリア鉄道の建設が一気に進んだのは1864年のヴャトカ飢饉。飢饉の被害を最小限に抑えるためには鉄道を建設する必要があるとされました。構想されたのはシベリアを経由して中国に至るまでの鉄道。軍事的にも貿易的にもいい影響を与えると考えられました。

ニーズの高まりをうけて政府は測量を開始。その結果をうけて三つの幹線を建設することが決まりました。工事は路線の両端から開始。出来上がったところから使用するという方式がとられました。三つの幹線がすべて完成したのは1916年のことです。

三国干渉とシベリア鉄道の完成の関わり

image by PIXTA / 12211524

シベリア鉄道が全線開通したのは1916年。第一次世界大戦の真っただ中の時期です。その当時、三国干渉により日本は清に遼東半島を返還することに。清国は日本に対して賠償金を支払う必要がありましたが、ロシア帝国は融資を申し出ます。それと引き換えにシベリア鉄道の完成に向けてロシア政府は交渉をしかけました。

露清密約により東清鉄道の敷設権を得る

1896年6月3日、ロシア帝国と清国のあいだで締結されたのが露清密約。この密約はいわゆる安全保障条約。日本がロシアと清国のいずれかに進攻したとき、それぞれが防衛のために参戦するという内容でした。対等な内容に見えますが、満州におけるロシアの権限が一方的に強化された不平等な内容でした。

東清鉄道はシベリア鉄道の短絡線という位置づけ。それを清国のなかに建設することも認めさせました。東清鉄道はロシア帝国と清国の共同名義。ただそれは表向きのこと。すべてロシアの資金と権限により進められました。さらにロシアは沿線の土地の管理権も取得。密約は都合よく解釈されました。

\次のページで「ヨーロッパ諸国に農産物を輸送することが可能に」を解説!/

ヨーロッパ諸国に農産物を輸送することが可能に

清国が置かれている状況を巧みに利用してシベリア鉄道の完成にこじつけたロシア帝国。シベリア鉄道が完成したことによりロシア西部の豊富な農産物をヨーロッパに移送することができるようになりました。とくに飛躍的に発展したのが小麦の生産。農民のシベリア移住が加速し、農地の開拓も進められました。

しかしながらこのときロシア帝国は混乱期。農奴解放令が出されたものの、無条件で土地を分譲されたわけではないので、経済的に混乱していました。そこで政府はこの混乱を抑えるため税金を優遇。その結果、シベリアには穀物を加工する製粉所がたくさんつくられました。そこで製造された小麦粉を輸送したのがシベリア鉄道です。

ロシア革命下のシベリア鉄道

Zheleznodorozhnyjj most, the railway bridge over the Yenisei in Krasnoyarsk, Russia, view from the left bank.jpg
Anatoliy Semyonov - 投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

シベリア鉄道の建設を進めてきたロシア帝国は、その完成の時期にはすでに末期状態。共産主義の台頭によりロシアの中央集権主義は崩壊しつつありました。シベリア鉄道はロシア帝国の権力の象徴。そのためシベリア鉄道は革命勢力の破壊活動の対象となりました。

アメリカの支援によるシベリア鉄道の運営

1917年のロシア革命のあと臨時政府が樹立。資金力が脆弱だったことからアメリカのウィルソン大統領が支援してシベリア鉄道の修理が進められました。鉄道技師などが派遣されたものの、彼らが到着するまえに臨時政府は消滅。不通の状態となってしまいます。

しかしながらシベリア鉄道が不通となるとヨーロッパに穀物を届けることが困難に。世界的な食糧難や経済的混乱が恐れられました。そこでアメリカ政府は鉄道技師をそのまま派遣。破壊活動を抑制するために、シベリア鉄道の各所に技師などの人員を配置します。

シベリア鉄道をめぐる国家の衝突

シベリア鉄道は食糧や人員を移送する重要な手段。シベリア鉄道の管理権をどこが取得するのかで第一次世界大戦の戦況は変わるほどの存在でした。1918年にチェコの軍隊がシベリア鉄道の沿線にて囚われます。そこで、アメリカ、フランス、イギリス、イタリア、日本による連合国軍がシベリア出兵を決定しました。

シベリア出兵の真の目的は共産主義の封じ込め。帝政ロシア時代の外積を守ることも出兵のもうひとつの目的です。そしてシベリア鉄道の管理権を獲得する。これもシベリア出兵の狙いのひとつでした。

日本はとりわけシベリア出兵の力を入れていました。兵力については連合国のあいだで取り決めがあったものの日本はそれを破ります。他の国の軍隊が1920年に撤退したあとも日本兵はシベリアに残留。シベリア地方のイルクーツクまで占領地を広げていきました。そのためシベリア出兵は日本の単独行動のようにとらえられることもあります。

\次のページで「現在に至るまでのシベリア鉄道」を解説!/

現在に至るまでのシベリア鉄道

image by PIXTA / 1183848

第二次世界大戦期のシベリア鉄道はその路線の長さから物資の輸送で活躍。ただ、日本が路線の一部を改軌したことにより、本来の輸送力は発揮できなくなりました。戦後は旅客機のルートが充実。物資の輸送は相変わらず活発に行われていましたが、人が乗ることが徐々に減ってきました。そこでシベリア鉄道は外国人旅行者を受け入れるために車両の改革も進めていきます。

日本はシベリア鉄道を満州国に売却

第二次世界大戦前、シベリア鉄道は危機にさらされます。満州国が成立するとシベリア鉄道の短路線であった東清鉄道は満州国に売られました。満州国有鉄道になったことをうけてソビエトベースの広軌は標準軌に変更されます。その結果、シベリア鉄道の輸送力は大幅に低下してしまいました。

第二次世界大戦中も日本は日ソ中立条約を結んでいたこともあり引き続きシベリア鉄道を使用。ヨーロッパに駐在している大使館員などが日本に戻る際にシベリア鉄道を使いました。しかしながらソ連はドイツに降伏したあとはシベリア鉄道を使って兵士と物資を満州国に投下。対日戦の足掛かりを作りました。

戦後はシベリア鉄道の重要性は低下

戦後、旅客機の国際路線が増えてきたこともあり存在感は薄くなりますが、貨物の輸送は積極的に行われました。ソ連の最高指導者がゴルバチョフになったあとは、自由化により航空路を開放。さらにシベリア鉄道は利用されなくなっていきます。ソ連が崩壊したあと、ロシア号は一日おきに走行されるなどのダイヤ改正にも見舞われました。

一方、これまで利用が限定されていたシベリア鉄道を海外の旅行者にも開放。すべての線に乗車できるようになりました。電化工事が始まったのは1929年。2002年に全線の電化が完了しました。ロシア横断ツアーをする際にも活躍。食堂車や停車駅にて各地のロシア料理を堪能できることも、ロシアを横断する路線だからこその楽しみです。

シベリア鉄道の利用を促進したい日本

実は、日本政府はシベリア鉄道の利用を促進したいと考えています。その理由はコストが安いこと。海運と空輸に並ぶ第三の輸送手段としてシベリア鉄道の活用を検討してきました。そのためロシア・ウクライナ戦争が始まるまえは、シベリア鉄道と協力して試行的な利用を進めてきました。

1970年代は日本企業の重要な輸送手段

戦後、シベリア鉄道は日本の経済発展にとって欠かせない存在でした。1970年から1980年にかけて、日本企業はヨーロッパに物資を輸送するためシベリア鉄道を積極的に活用。しかしながらソ連が崩壊して今の体制になったあとは、使われる機会は減っていました。そこで再びシベリア鉄道を活用する機運が高まっているというわけです。

シベリア鉄道を利用するメリットは輸送に関わるコストをカットできること。さらには環境を守るための脱酸素の取り組みを進められるという点でも注目されました。2020年度に国交省がパイロット事業を実施。大手企業がその取り組みに参加しました。

日本直行化も検討されたシベリア鉄道

image by PIXTA / 83139514

シベリア鉄道はヨーロッパに向かう輸送手段として発達してきましたが、日本との直行化が検討された時期もあります。海の部分は海底トンネルを掘ってつなぐというもの。この案はロシアの大統領であるプーチンにより提案されました。日本でも話題になっていた時期もあるので、記憶にある方もいらっしゃるのではないでしょうか。

計画されたのは宗谷海峡トンネルの開通。技術的にはすでに完成している青函トンネルよりも短いので決して不可能な計画ではありません。もしシベリア鉄道の直行化が実現したら、今よりも簡単にロシア旅行ができるようになりますが、現在はその話は進んでいません。

ロシアと北海道をつなぐ構想は最近に始まったことではありません。ソ連時代にもシベリア鉄道を通じて樺太とつなぐ構想がありました。どうしてロシアが日本直行化を望んでいるのかというと石炭の輸出を促進するため。現在の日本の石炭の主要な輸入元はオーストラリア。ロシアのシェアは決して多くありません。しかしながらロシアの石炭埋蔵量はかなり多いため、シベリア鉄道を使って輸送することが悲願なのです。

激動の時代を映し出すシベリア鉄道

シベリア鉄道は19世紀にはじまり、第一次世界大戦、第二次世界大戦、冷戦、ソ連崩壊など、歴史的な転換期にさまざまに関わってきました。日本とのつながりも深く、満州を占領していたときには、一部の短期路線ではありますが日本が管理。日本の戦争の記憶も色濃く反映されています。現在、日本との直行化が実現する可能性は低いですが、ゼロではありません。そういう意味では日本ともつながりの深い路線と言えるでしょう。

" /> 激動の時代を走り抜ける「シベリア鉄道」敷設の背景や国際情勢の変化との関連を元大学教員が分かりやすく解説 – Study-Z
ソビエト連邦ヨーロッパの歴史ロシアロシア革命ロマノフ朝世界史

激動の時代を走り抜ける「シベリア鉄道」敷設の背景や国際情勢の変化との関連を元大学教員が分かりやすく解説

鉄オタじゃなくても学校で習って知っている、そんな鉄道のひとつがシベリア鉄道。ウラジオストクからモスクワまでを一気に横断する、全長9000キロを超える鉄道です。広大な領土を誇るロシアは鉄道王国。さまざまな鉄道が縦横無尽に走っている。その軸となるのがシベリア鉄道と言ってもいいでしょう。

シベリア鉄道はどうやって始まりそして今に至るのか。ロシアの情勢の変化と絡めながらシベリア鉄道の歴史を世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史と文化を専門とする元大学教員。鉄道の写真を撮るのが好きないわゆる撮り鉄でもある。そこで鉄オタの憧れ、シベリア鉄道の歴史について調べてみた。

シベリア鉄道の長さは世界一

VL 85-022 container train.jpg
Sorovas投稿者自身による著作物, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

シベリア鉄道はモスクワからウラジオストクまでをつなぐ世界でいちばん長い鉄道。線路の長さは諸説ありますが9289キロ、7日間をかけて走行しています。鉄道の建設はロシア帝国時代にスタート。中断されることもありましたが大陸横断するまでの長さに成長していきました。

ロシア帝国時代にシベリア鉄道の計画がスタート

シベリアに鉄道を建設する計画があらわれたのはロシア帝国時代です。1851年にモスクワ・サンクトペテルブルク鉄道が完成。その時期にはすでにシベリア鉄道を建設する計画が浮上していました。

ことの発端はニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーがアムール川付近を占拠したこと。カストリ湾とアムール江岬のソフィウィスクをつなぐ馬車道をつくろうとしました。企画案はいろいろ出てきましたがどれも不採用。1860年代に入るまで停滞していました。

飢饉がきっかけでシベリア鉄道の計画が浮上

シベリア鉄道の建設が一気に進んだのは1864年のヴャトカ飢饉。飢饉の被害を最小限に抑えるためには鉄道を建設する必要があるとされました。構想されたのはシベリアを経由して中国に至るまでの鉄道。軍事的にも貿易的にもいい影響を与えると考えられました。

ニーズの高まりをうけて政府は測量を開始。その結果をうけて三つの幹線を建設することが決まりました。工事は路線の両端から開始。出来上がったところから使用するという方式がとられました。三つの幹線がすべて完成したのは1916年のことです。

三国干渉とシベリア鉄道の完成の関わり

image by PIXTA / 12211524

シベリア鉄道が全線開通したのは1916年。第一次世界大戦の真っただ中の時期です。その当時、三国干渉により日本は清に遼東半島を返還することに。清国は日本に対して賠償金を支払う必要がありましたが、ロシア帝国は融資を申し出ます。それと引き換えにシベリア鉄道の完成に向けてロシア政府は交渉をしかけました。

露清密約により東清鉄道の敷設権を得る

1896年6月3日、ロシア帝国と清国のあいだで締結されたのが露清密約。この密約はいわゆる安全保障条約。日本がロシアと清国のいずれかに進攻したとき、それぞれが防衛のために参戦するという内容でした。対等な内容に見えますが、満州におけるロシアの権限が一方的に強化された不平等な内容でした。

東清鉄道はシベリア鉄道の短絡線という位置づけ。それを清国のなかに建設することも認めさせました。東清鉄道はロシア帝国と清国の共同名義。ただそれは表向きのこと。すべてロシアの資金と権限により進められました。さらにロシアは沿線の土地の管理権も取得。密約は都合よく解釈されました。

\次のページで「ヨーロッパ諸国に農産物を輸送することが可能に」を解説!/

次のページを読む
1 2 3
Share: