天然痘って知っているか。今は根絶されているから患者は存在しない。実は日本では平安時代よりも前から天然痘により苦しめられていた。そんな天然痘はどんな経緯で根絶に至ったのでしょうか。

天然痘とはどんな病気なのか、ワクチン開発の経緯、日本での苦しみなどを、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの文化と歴史を専門とする元大学教員。気になることがあったらいろいろ調べている。今回は今は根絶されている天然痘の歴史について調べてみた。

天然痘とはどのような病気?

Fold out colour plate showing vaccination scars Wellcome L0041064.jpg
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天然痘の別名は痘瘡(とうそう)。天然痘ウィルスによる感染症で、非常に感染力が高いことが特徴です。かつては世界中で多くの死亡者がでていました。1980年にWHO(世界保健機関)で天然痘根絶宣言が出され、決まった研究設備で厳重に保管されているのみ。社会からは断絶されています。

病気としての天然痘の歴史

紀元前から天然痘ウィルスは存在。病状が悲惨なうえに死に至る病として恐れられていました。運よく治癒しても顔に醜い傷痕、いわゆる「あばた」が残ります。江戸時代には「美目定めの病」と忌み嫌われていました。ヨーロッパ大陸、アメリカ大陸、インドアジア大陸、アフリカ大陸など地球上のほとんどの国々で流行。多くの人命を奪っていきました。

1770年にはインドで300万人が、1796年にはイギリスで4万5000人が、明治時代の日本では2万人が死亡。1946年には戦後の混乱した状況下、1万8千人が感染し3千人が死亡しました。当時は世界の33か国で天然痘が流行っており、感染者は2千万人、死亡者は400万人もいたのです。

人類に悲劇をもたらした天然痘

モンゴルがアジアからヨーロッパ周辺までを征服。進軍を続けることで天然痘も広まりました。またヨーロッパの十字軍遠征でも天然痘はヨーロッパ中に広がりました

16世紀、コロンブスが新大陸を発見以来、アメリカ大陸にも大勢の人が押し寄せました。その結果、この細菌の存在を知らなかった先住民族のインディオが多数亡くなりました。南米大陸のインカ帝国やアステカ王国が滅びたのも武力ではなくヨーロッパ人がもたらした天然痘でした。

1774年、フランス国王ルイ15世は天然痘で命を落としました。アメリカ大統領ジョージ・ワシントンは、天然痘にかかり命は助かったものの顔にあばたが残ります。ジェンナーがワクチンを開発する前にも、牛の膿をこすり付けたら天然痘が軽くて済むという噂がありました。一部の医者が金儲けのために牛痘に罹った牛の膿を注射。患者を死なせたとういう話も残っています。

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天然痘の後遺症と日本における信仰の関係

感染してからおよそ2週間後に39度以上の高熱が出て、倦怠感や嘔吐などの全身症状が出現。3日ほどでいったん熱が下がり、顔や手足に痛みや灼熱感を伴う発疹があらわれます。はじめの発疹は丘状ですが、しばらくすると球状の皮疹に変化。水泡になって膿をもち、かさぶたができて治癒しますが後遺症は残りました。

どんな後遺症が残るのか?

天然痘の恐ろしいところは治ったとしても顏に傷痕が残ること。あばたを治す手段はありません。平安時代の貴族たちは鉛の粉で顔を真っ白に塗って、あばたを隠そうとしました。すると今度あらわれたのが鉛の後遺症。今でいう水俣病のようなものです。子供に母乳をやる女性の場合、母乳に鉛の成分が出て赤ちゃんが病気になることもありました。

いったん下がった熱がまた高くなることも。かさぶたは治癒して剥がれ落ちても強い感染力がありました。敗血症、肺炎、脳炎などの合併症で死ぬ人も多かった天然痘。脱水症状を和らげたり、激しい痛みを抑えたりする対処療法で乗り切っていました。

天然痘に関わる信仰や言い伝え

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症状が苦しいうえに後遺症も辛いものだった天然痘。そのため日本では疱瘡神信仰という宗教が生れました。日本各地に点在する御霊神社がその名残です。今の祇園祭りである祇園会も同様。鉾の先端に指してある松の木の枝に乗って、疱瘡の神さまに都を出ていってもらおう。そんな願いがだんだん華やかな行列になってゆきました。

それでも名のある人が天然痘で命を落とします。天平の疫病大流行では平城京で権力を握っていた藤原四兄弟が相次いで死亡。平城京が混乱状態になったのは高位の帰属が天然痘で亡くなり、政権運営が混乱したことも一因としてあるとされています。また、あとの時代になりますが伊達政宗が小さいころに失明したのも天然痘がきっかけ。江戸時代になっても猛威をふるい続けました。

エドワード・ジェンナーが天然痘ワクチンを開発

A physician inspects the growth of cowpox on a milking maid' Wellcome V0011690.jpg
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この恐ろしい病気から人類を救ったのがジェンナー。1749年にイギリスの田園地帯に生れ、医師ならびに博物学者として働いた人物です。いちばんの功績は天然痘ワクチンを開発したことでした。酪農地帯で医師として働くうちに、牛の罹る牛痘に着目。世間からのバッシングにも負けず世界を天然痘から救いました。

医師の道を歩んだジェンナー

12歳で親元を離れて開業医ダニエル・ラドロウに弟子入り。ここで9年間、見習いをしながら自然観察や研究に取り組みました。ラドロウ医師のもとを訪れた乳搾りの女性が「自分は牛痘に罹ったから天然痘には罹らない」と言ったのを耳にしました。むかしからの酪農地帯でこのような言い伝えがあったのです。

ジェンナーはこの言葉に着目。言い伝えには根拠があるはずだと思いました。彼はたくさんの酪農従事者を訪ね、その実態を調査。牛痘にわざと感染させたら天然痘に罹らない、かかっても軽くて済むのではないかと考えました。この逆転の発想がワクチン開発につながったのです。

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ジェンナーは、昼は有能な外科医で夜は闇の解剖屋。そういう二面性から『ジキル博士とハイド氏』のモデルとも言われています。また、動物観察にも優れており、動物と話ができるという話から『ドリトル先生』のモデルという話も。とにかく彼は異端児だったことは間違いありません。

ジェンナーが行った観察と実験

21歳の時にジェンナーは師匠ラドロウの紹介により生涯の師となるジュン・ハンターのところへ行きます。ハンターは有名な外科医。ただ、当時の医学界の権威対立していました。ハンターが異端とされていたのは、実験と観察を重ねること、そして違法で遺体を手に入れて解剖をしていた点です。

ハンターがジェンナーに教えたことは「実践」。「考えるより実験を、辛抱強く正確に」というハンターの言葉がジェンナーの信念となりました。開業医になったジェンナーの患者は酪農関係者が中心。そこでジェンナーは牛痘に罹った人を見つけては患者の膿をこすり付けていました。結果は成功。天然痘の予防に成功したのです。

天然痘ワクチン開発のための人体実験


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治療薬を開発するためには人体実験が必須です。健康な人に牛痘の膿を接種して、さらに天然痘の膿を付着。それでも天然痘に罹らなければワクチン成功です。免疫という言葉もワクチンという概念もない時代。医学界から嘲笑されてもジェンナーはワクチン開発に挑み続けました。

ジェンナーに協力した人々

一人目の協力者がサラ。牛痘に罹っていた百姓娘です。サラから膿を採取して、ジェイムスという8歳の少年の腕に擦り傷をつけて、彼女の膿を塗りました。ジェイムスはジェンナーの家で働いている庭師の息子。ジェイムスは軽い倦怠感を覚えた程度で平常に戻りました。さらに実際に天然痘に罹っている人の膿をジェイムスに接種。ジェイムスは天然痘には罹りませんでした。

論文をまとめたジェンナーはそれをロンドン王立協会に提出。しかしながら却下されてしまいます。これだけの大発見であるのに、出版の道は閉ざされてしまいました。却下された理由は「言い伝えをベースにしていること」「実験データが少ないこと」の2点でした。そこでジェンナーはさらに実験を重ねて成果を自費出版。タイトルは『牛痘の原因と効果に関する研究』でした。

この一連の実験が行われたのが1796年。それを根拠に1796年がワクチンが発見された年とされています。ワクチンに関する論文を発表したのは1798年。実際に接種した2年後のことです。ジェンナーの報告は凄まじいバッシングと共に大論争を巻き起こしました。

私費で世界にワクチンをもたらしたジェンナー

ワクチン反対派の根拠は今となっては笑い話。「牛痘で作ったワクチンを接種すると牛になる」さらには「神への冒涜」「恐ろしい悪魔の注射」などと反撃しました。しかし同時に「牛になってもいいから」とワクチンを受ける人も出現。その効果は絶大で、イギリスを超えてヨーロッパそして世界中で接種されるようになります。

ジェンナーのすごいところはワクチンに特許をとらなかったこと。特許をとるとワクチンが高額になり困っている人が接種できなくなるからです。それだけではなくジェンナーは私財を投じてワクチンを積んだ船を外国に送り出しました。

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天然痘予防を評価したのがナポレオン

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当時のイギリスはナポレオンと戦争状態。しかしながらワクチンの効果に感動したナポレオンはジェンナーを評価。敵対している国の国民であるにもかかわらず、フランスの勲章を贈りました

フランスの捕虜になったジェンナー

1802年のナポレオンとの戦争の中でたくさんのイギリス人がフランス軍の捕虜になりました。そこでイギリス人がナポレオン宛てに「捕虜釈放嘆願書」を提出。その名簿の中に世界を天然痘の危機から救ったジェンナーの名前があることにナポレオンは気づきます。

そこでナポレオンはジェンナーをすぐに釈放するように指示。ジェンナーは自由の身となりました。ジェンナーが捕虜になったことも驚きですが、名簿のリストすべてに目を通していたナポレオンもさすが。ここでジェンナーが命を落としていたら天然痘の根絶には至らなかったかもしれません。

王立ジェンナー協会の設立

ジェンナーの功績を最初に評価したのはナポレオン。それに遅れたもののイギリスに「王立ジェンナー協会」が設置されました。ジェンナーは初代会長。協会の活動により天然痘による死者は18カ月で3分の1にまで減りました。

ドイツのバイエル州では種痘を義務化。ロシアでは最初にワクチンを受けた子に「ワクチーノフ」という名前が授けられました。そして国がその子の教育費を負担しました。しかしながら保守的な医学界のなかでジェンナーが出世することはなし。これだけの成果をあげながら教授にはなれませんでした。

恩師であるハンターは力強くジェンナーを支持。ジェンナーと共に自然観察や博物知識を深めていきました。そしてジェンナーに「いつも問題意識を持って挑戦する」ことを助言。ジェンナーは信頼できる人たちからのバックアップもあり、医師としてだけでなく博物学者としても有名になりましたが、脳卒中により73歳で亡くなりました。

天然痘の根絶は人類史のターニングポイント

ジェンナーは天然痘を根絶させた立役者。さらに彼の生き方は現代でも響くものがあります。彼が逆境のなか研究を続けたのは人類に幸せをもたらすため。最後まで天然痘を根絶するために力を注ぎました。今私たちは幸いにも天然痘を知りません。それはジェンナーの功績と言っていいでしょう。

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イギリス世界史平安時代日本史

「天然痘」はどうやって根絶された?ワクチン開発の経緯や日本での流行を元大学教員が簡単にわかりやすく解説

天然痘って知っているか。今は根絶されているから患者は存在しない。実は日本では平安時代よりも前から天然痘により苦しめられていた。そんな天然痘はどんな経緯で根絶に至ったのでしょうか。

天然痘とはどんな病気なのか、ワクチン開発の経緯、日本での苦しみなどを、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの文化と歴史を専門とする元大学教員。気になることがあったらいろいろ調べている。今回は今は根絶されている天然痘の歴史について調べてみた。

天然痘とはどのような病気?

天然痘の別名は痘瘡(とうそう)。天然痘ウィルスによる感染症で、非常に感染力が高いことが特徴です。かつては世界中で多くの死亡者がでていました。1980年にWHO(世界保健機関)で天然痘根絶宣言が出され、決まった研究設備で厳重に保管されているのみ。社会からは断絶されています。

病気としての天然痘の歴史

紀元前から天然痘ウィルスは存在。病状が悲惨なうえに死に至る病として恐れられていました。運よく治癒しても顔に醜い傷痕、いわゆる「あばた」が残ります。江戸時代には「美目定めの病」と忌み嫌われていました。ヨーロッパ大陸、アメリカ大陸、インドアジア大陸、アフリカ大陸など地球上のほとんどの国々で流行。多くの人命を奪っていきました。

1770年にはインドで300万人が、1796年にはイギリスで4万5000人が、明治時代の日本では2万人が死亡。1946年には戦後の混乱した状況下、1万8千人が感染し3千人が死亡しました。当時は世界の33か国で天然痘が流行っており、感染者は2千万人、死亡者は400万人もいたのです。

人類に悲劇をもたらした天然痘

モンゴルがアジアからヨーロッパ周辺までを征服。進軍を続けることで天然痘も広まりました。またヨーロッパの十字軍遠征でも天然痘はヨーロッパ中に広がりました

16世紀、コロンブスが新大陸を発見以来、アメリカ大陸にも大勢の人が押し寄せました。その結果、この細菌の存在を知らなかった先住民族のインディオが多数亡くなりました。南米大陸のインカ帝国やアステカ王国が滅びたのも武力ではなくヨーロッパ人がもたらした天然痘でした。

1774年、フランス国王ルイ15世は天然痘で命を落としました。アメリカ大統領ジョージ・ワシントンは、天然痘にかかり命は助かったものの顔にあばたが残ります。ジェンナーがワクチンを開発する前にも、牛の膿をこすり付けたら天然痘が軽くて済むという噂がありました。一部の医者が金儲けのために牛痘に罹った牛の膿を注射。患者を死なせたとういう話も残っています。

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