日本史を勉強していると、近世の代表的な事件として記されている「百姓一揆」と「打ちこわし」。
いずれも民衆の不満が爆発した暴動のように見えるが、いったいこの2つの違いは何なんでしょうな。
今回は「百姓一揆」と「打ちこわし」の違いについて、歴史好きライターのおおつけと一緒に解説していきます。

ライター/おおつけ

現役システムエンジニア兼ライター。前職は貿易商社の営業マン。子どものころから歴史が大好き。知らない言葉は徹底的に調べるクセがあり、独自の単語帳を作っている。日々たくわえた広い知識を、わかりやすく紹介していく。

百姓一揆と打ちこわしの違い

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身分制度が厳しく整備されていた時代、弱い立場の民衆は一方的にしいたげられていたました。そんな民衆の不満が爆発した事件が「百姓一揆」と「打ちこわし」です。ですがこの「百姓一揆」と「打ちこわし」にはどのような違いがあるのか、理解している人は少ないのではないでしょうか。ここでは「百姓一揆」と「打ちこわし」の違いについて解説していきます。

百姓一揆:農民が農村で蜂起

「百姓一揆」とは農民が農村で領主や役人に対して蜂起(ほうき)することです。百姓とは農民の別称。今でこそ百姓(ひゃくしょう)とは単純に農業従事者のことを意味しますが、元々は農作業の課税対象者という意味でもありました。また「田舎者」、「あかぬけない者」といった侮蔑のニュアンスを含んでもいました。

ちなみに蜂起とは「蜂が巣からいっせいに飛び立つように、大勢の者がいっせいに立ち上がること」を意味します。我慢の限界を超えた民衆たちが一つになって戦ったんですね。

打ちこわし:都市部の貧困層が蜂起

「打ちこわし」とは都市に定住している貧困層が、都市の商人を襲った事件です。特に豪商(ごうしょう:大規模な商売を行う商人)は市場価格を決めるほどの力があったり、役人から優遇されていたことからターゲットにされていました。名前の通り、食料が貯蓄されている倉庫などを破壊(打ちこわし)て実行されました。

なぜ百姓一揆と打ちこわしが起こったのか

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「百姓一揆」と「打ちこわし」の違いについてはおわかりいただけたと思います。ここで気になるのは、なぜこれらの事件が発生したのかという原因ですよね。ここでは「百姓一揆」と「打ちこわし」の原因について解説していきます。

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百姓一揆:年貢の減免や役人の交代などを要求した

主に「百姓一揆」は飢饉(ききん:冷害や干ばつ、洪水などの自然災害によって作物がとれなくなり、食糧難に陥ること)の後に発生しました。

食糧難の状況では年貢(毎年農作物などの現物で納める税)を納めることはまず不可能ですが、領主や役人によってはそのような事情はお構いなしで年貢の取り立てを行っていました。そのような圧政に耐え切れず、農民たちが武装蜂起するのが「百姓一揆」です。年貢の減免や、無理な取り立てを行わない役人への交代などを要求しました。

打ちこわし:商人に買い占められた米を強奪した

「打ちこわし」も基本的には飢饉の後に発生しています。都市部では市場経済の原理がはたらきやすく、飢饉などで米の市場供給量が下がると、商人たちは米の買い占めを行いました。こうすることでより米の値段が釣りあがるので、後々大儲けできるからです。近世は商業が発展した時代でもあり、商人たちは米を投機対象、すなわち「今買っておいて、値段が上がったら売る商品」として目をつけていました。

食糧難で苦しんでいたり死んでしまう人がいる状況で、自分の利益だけを求める商人のやり方に民衆は反発。武装蜂起し承認が運営する食料倉庫を襲い米を奪いました。

代表的な百姓一揆と打ちこわしの事件例

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「百姓一揆」と「打ちこわし」は農村と都市部という違いはあれど、根本的な原因としては飢饉や自然災害による食糧難でした。では日本の歴史において、どこまで大規模な武装蜂起があったのでしょうか。ここでは「百姓一揆」と「打ちこわし」について代表的な事件例をとりあげて解説します。

5万人もの民衆が蜂起した「元文一揆」

「元文一揆」は元文4年(1739年)に鳥取藩で発生した大規模な「百姓一揆」です。参加した民衆はなんと5万人。当時の鳥取藩の総人口が30万人であることを考えると、実に藩の民衆の6分の1が蜂起したことになります。元々飢饉で苦しんでいたところに長雨が続き、農民たちは年貢を納めることが難しくなりました。

年貢滞納により入牢者も増え、民衆の不満が高まったころ、松田勘右衛門という農民が指導者となり役人に年貢の減免を要求する運動を開始しました。鳥取藩は一揆勢の要求を完全に受理することはありませんでしたが、一定の配慮を行い、かつ当時の藩政を指導していた役人を追放しました。

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近世最大の打ちこわし「天明の打ちこわし」

「天明の打ちこわし」は江戸時代である天明7年(1787年)に江戸、大阪など当時の主要都市を中心に30か所あまりで発生した大規模な打ちこわしの総称です。

当時の民衆は天明の大飢饉と呼ばれる近世最大の飢饉に苦しんでいました。そこに浅間山の大噴火や関東地方の大洪水など自然災害が相次ぎ、米の不作は加速する一方でした。そして商人による米価の高騰を見込んだ米の買い占めが発生したのです。

最初に大阪で発生した「打ちこわし」は全国に飛び火し、江戸時代最高の打ちこわし件数を記録しました。幕府は取り急ぎ困窮者に対する米の安価での販売を行ったり、米の販売や購入に規制を設けました。また特権をふるっていた商人や役人を処罰しました。

百姓一揆と打ちこわしは場所、実行者、襲撃された相手、実行理由が違う

ここまで「百姓一揆」と「打ちこわし」の違い、なぜこれらの事件が発生したのかという原因、そして代表的な事件例を解説してきました。一口に民衆の暴動といっても、その背景に大きな違いがあったんですね。

日本で暴動が起こることはほとんどありませんが、それは現在の日本が平和で豊かな証拠。できるならば、このまま平和で豊かな暮らしをおくっていきたいものですね。

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文化・歴史雑学

3分で簡単にわかる百姓一揆と打ちこわしの違い!原因はなに?広がった理由や幕府の対応も歴史好きライターがわかりやすく解説

百姓一揆:年貢の減免や役人の交代などを要求した

主に「百姓一揆」は飢饉(ききん:冷害や干ばつ、洪水などの自然災害によって作物がとれなくなり、食糧難に陥ること)の後に発生しました。

食糧難の状況では年貢(毎年農作物などの現物で納める税)を納めることはまず不可能ですが、領主や役人によってはそのような事情はお構いなしで年貢の取り立てを行っていました。そのような圧政に耐え切れず、農民たちが武装蜂起するのが「百姓一揆」です。年貢の減免や、無理な取り立てを行わない役人への交代などを要求しました。

打ちこわし:商人に買い占められた米を強奪した

「打ちこわし」も基本的には飢饉の後に発生しています。都市部では市場経済の原理がはたらきやすく、飢饉などで米の市場供給量が下がると、商人たちは米の買い占めを行いました。こうすることでより米の値段が釣りあがるので、後々大儲けできるからです。近世は商業が発展した時代でもあり、商人たちは米を投機対象、すなわち「今買っておいて、値段が上がったら売る商品」として目をつけていました。

食糧難で苦しんでいたり死んでしまう人がいる状況で、自分の利益だけを求める商人のやり方に民衆は反発。武装蜂起し承認が運営する食料倉庫を襲い米を奪いました。

代表的な百姓一揆と打ちこわしの事件例

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「百姓一揆」と「打ちこわし」は農村と都市部という違いはあれど、根本的な原因としては飢饉や自然災害による食糧難でした。では日本の歴史において、どこまで大規模な武装蜂起があったのでしょうか。ここでは「百姓一揆」と「打ちこわし」について代表的な事件例をとりあげて解説します。

5万人もの民衆が蜂起した「元文一揆」

「元文一揆」は元文4年(1739年)に鳥取藩で発生した大規模な「百姓一揆」です。参加した民衆はなんと5万人。当時の鳥取藩の総人口が30万人であることを考えると、実に藩の民衆の6分の1が蜂起したことになります。元々飢饉で苦しんでいたところに長雨が続き、農民たちは年貢を納めることが難しくなりました。

年貢滞納により入牢者も増え、民衆の不満が高まったころ、松田勘右衛門という農民が指導者となり役人に年貢の減免を要求する運動を開始しました。鳥取藩は一揆勢の要求を完全に受理することはありませんでしたが、一定の配慮を行い、かつ当時の藩政を指導していた役人を追放しました。

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