百姓一揆:年貢の減免や役人の交代などを要求した
主に「百姓一揆」は飢饉(ききん:冷害や干ばつ、洪水などの自然災害によって作物がとれなくなり、食糧難に陥ること)の後に発生しました。
食糧難の状況では年貢(毎年農作物などの現物で納める税)を納めることはまず不可能ですが、領主や役人によってはそのような事情はお構いなしで年貢の取り立てを行っていました。そのような圧政に耐え切れず、農民たちが武装蜂起するのが「百姓一揆」です。年貢の減免や、無理な取り立てを行わない役人への交代などを要求しました。
打ちこわし:商人に買い占められた米を強奪した
「打ちこわし」も基本的には飢饉の後に発生しています。都市部では市場経済の原理がはたらきやすく、飢饉などで米の市場供給量が下がると、商人たちは米の買い占めを行いました。こうすることでより米の値段が釣りあがるので、後々大儲けできるからです。近世は商業が発展した時代でもあり、商人たちは米を投機対象、すなわち「今買っておいて、値段が上がったら売る商品」として目をつけていました。
食糧難で苦しんでいたり死んでしまう人がいる状況で、自分の利益だけを求める商人のやり方に民衆は反発。武装蜂起し承認が運営する食料倉庫を襲い米を奪いました。
代表的な百姓一揆と打ちこわしの事件例
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「百姓一揆」と「打ちこわし」は農村と都市部という違いはあれど、根本的な原因としては飢饉や自然災害による食糧難でした。では日本の歴史において、どこまで大規模な武装蜂起があったのでしょうか。ここでは「百姓一揆」と「打ちこわし」について代表的な事件例をとりあげて解説します。
5万人もの民衆が蜂起した「元文一揆」
「元文一揆」は元文4年(1739年)に鳥取藩で発生した大規模な「百姓一揆」です。参加した民衆はなんと5万人。当時の鳥取藩の総人口が30万人であることを考えると、実に藩の民衆の6分の1が蜂起したことになります。元々飢饉で苦しんでいたところに長雨が続き、農民たちは年貢を納めることが難しくなりました。
年貢滞納により入牢者も増え、民衆の不満が高まったころ、松田勘右衛門という農民が指導者となり役人に年貢の減免を要求する運動を開始しました。鳥取藩は一揆勢の要求を完全に受理することはありませんでしたが、一定の配慮を行い、かつ当時の藩政を指導していた役人を追放しました。
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