今回は、日本社会党について学んでいこう。

長らく社会党は、自民党に対抗する第2の政党といえる存在感を示し続けていた。しかし、現在では後継政党である社民党が、存続の危機を迎えているといえるぞ。なぜそのような状況に陥ってしまったのでしょうか。

日本社会党が衰退した原因を、党の歴史とともに、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

日本社会党の結成から55年体制へ

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まずは日本社会党の結成から55年体制の確立までを、簡単に振り返ってみましょう。

結党して2年で社会党が政権の座につく

1945(昭和20)終戦直後に日本社会党(社会党)は結成されました。戦時中に非共産党系の社会主義思想の勢力が、大同団結した形で結党したものです。1947(昭和22)年の日本国憲法下で初めて実施された総選挙で社会党が第1党になり社会党の委員長だった片山哲が総理大臣となりました

しかし、社会党は少数与党でした。そのため、片山内閣は政権運営に苦慮しその結果1年もたずに総辞職となりますその後に成立した芦田均内閣でも社会党は政権与党となりましたが昭和電工事件などが大きなダメージとなりました。そのために芦田内閣もわずか半年余りしかもたず、第2次吉田茂内閣が後を引き継ぐことになります。

党内対立と55年体制の確立

日本社会党は、元来さまざまな勢力が団結して生まれたものです。そのため、結党当初から党内で対立が起こりそれは幾度も繰り返されました。特に、社会民主主義を規範とする右派とマルクス主義に忠実な左派との対立が顕著でした。2つの派閥は1950年(昭和25)に短期間だけ分裂した後、1951(昭和26)年に再び分裂します。

1955(昭和30)左右両派は党大会を開催して再び統一を果たしました。同じ年に自由党と日本民主党が合併して自由民主党が結成されると、自民党と社会党で議席の大半を占めるようになりますそのような状態は55年体制と呼ばれ以後40年近くに渡り続くこととなったのです

万年野党化

55年体制となってから、社会党は自民党に次ぐ勢力として存在感を放っていました。しかし、55年体制の三十数年間は社会党は長らく野党第一党に甘んじていたのも事実です。衆議院で常に100議席前後を確保していましたが、政権の座には遠く及びませんでした。

1986(昭和61)社会党委員長に土井たか子が就任するとマドンナ旋風(おたかさんブーム)が起こります1989(平成元)年の参議院選挙では社会党から出馬した多くの女性候補者が当選するなどで社会党の獲得議席数が自民党を上回りました。しかし、翌年の衆議院総選挙で社会党は健闘するも、自民党の圧勝で政権交代には至っていません。

\次のページで「非自民連立政権への参加と離脱」を解説!/

非自民連立政権への参加と離脱

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自民党と社会党が中心となった55年体制は、1993年に崩壊します。いったい何が起きたのでしょうか。

細川内閣に社会党も参加

東京佐川急便事件が発覚すると、極度の政治不信を招くようになります。自民党から多くの離反者が生まれ当時の宮澤内閣に対する不信任決議案が可決されました。その後、1993(平成5)年に行われた衆議院総選挙で自民党は過半数を確保できませんでした。それにより、55年体制が終わりを告げたのです。

1993年の総選挙で新生党・日本新党・新党さきがけが躍進し新党ブームが起きました。しかし、社会党は議席をほぼ半減させる惨敗でしたそれでも社会党は野党第一党を維持して8会派による非自民連立政権に参加します。そのような過程を経て、細川護熙内閣は誕生しました。

羽田内閣には参加せず

1993(平成5)年に成立した細川護熙内閣へは、政治改革を求める声が多く寄せられました。その声に応えて、公職選挙法や政治資金規正法などの改正が細川内閣で実現しています。しかし、細川首相が佐川急便グループからの資金提供問題を追及されると、状況は一変。その結果、内閣成立からわずか8ヶ月で細川内閣は総辞職しました

細川内閣総辞職後の首班指名選挙でも8会派の中から羽田孜が選ばれました。しかし、社会党を除く統一会派を結成しようとしたことに社会党が反発。社会党は羽田内閣からすぐに離脱しました。そのことも影響して、羽田内閣は2ヶ月余りで退陣することとなったのです。

村山富市内閣の誕生

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長らく総理大臣を輩出できなかった社会党から、約半世紀ぶりに総理大臣となったのが村山富市です。ここでは、村山内閣について詳しく見てみましょう。

自社さ連立政権

羽田孜内閣が総辞職すると、政権奪還を狙う自民党は大胆な方針転換をします。それは、長年与党と野党として対立してきた社会党と手を組むことです。自民党と社会党それに新党さきがけを加えた3党で連立政権樹立を画策しましたそのために擁立したのが当時の社会党委員長だった村山富市でした

首班指名選挙で村山富市が選ばれ片山哲以来47年ぶりに社会党所属の総理大臣が誕生しました。いわゆる「自社さ連立政権」の成立です。村山総理は国会で日米安保条約容認・自衛隊合憲・原発肯定などを表明。それまでの社会党の基本政策を大きく転換させる答弁を行いました。

阪神淡路大震災

村山総理の在職中には日本を揺るがす2つの大きな出来事がありました1つは1995年1月に発生した阪神淡路大震災です。しかし、村山内閣は震災直後の自衛隊派遣で遅れを取りました。そのため、自衛隊の災害派遣要請は市町村長も行えるようになるなど、のちに改められたのです。

阪神淡路大震災からわずか2ヶ月後に地下鉄サリン事件が発生しました。震災での不手際を教訓とした村山内閣は、事件発生直後から迅速に対応。首相官邸主導の危機管理体制が生まれるきっかけとなっています。6月にも函館ハイジャック事件で警察機動隊が強行突破で事件の収拾を図るなど、村山内閣では対応に苦慮する出来事が続きました。

村山談話

村山内閣は連立した自民党に配慮したことで、従来の社会党からの政策転換が多く見られましたが、中には自民党政権ではありえなかったことも行われています。それが村山談話です。「戦後50周年の終戦記念日にあたって」と題した声明を村山内閣は閣議決定しました

村山談話の最大の特徴は太平洋戦争で日本がアジア諸国に対して行った侵略や植民地支配を反省して多大な損害や苦痛を与えたことを政府の公式見解として謝罪したことです。一部では村山談話を批判する人もいますが、村山内閣以降の政権はいずれも村山談話を踏襲していると表明しています

日本社会党の消滅

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社会党から村山総理が生まれましたが、皮肉にもそこから社会党の歴史はすぐに終わりを告げます。果たして何が起きたのでしょうか。

突然の退陣

1996(平成8)年1月5日年明け早々というタイミングで村山総理は突然辞意を表明しました。総理就任からおよそ1年半後のことでした。「人心を一新させたい」などの理由を述べましたが、新年度の予算審議を目前とする時期の表明だったため批判的な意見が多く出ました

総理辞任後の村山は、社会党委員長としての職務に専念します。その一方で、自民党・社会党・新党さきがけの3党協議で、連立の維持に合意。自民党総裁の橋本龍太郎を後継として引き続き自社さ連立政権となる橋本内閣を成立させました。その後、第2次橋本内閣成立時には新党さきがけとともに社会党は閣外協力に転じています

社会民主党に改称

1996(平成8)年1月の定期党大会で日本社会党は社会民主党(社民党)に党名を変更しました。社会民主主義政党を標榜して、それまでの日本社会党から人心を一新させる目的があったと考えられます。委員長というポストも党首という名前に変更され、初代党首には総理大臣を辞任したばかりの村山富市が就任しました

2020年代に入っても社会民主党は活動してますが日本社会党時代の勢いはないと言わざるをえません社民党からの離党者が相次ぎ党の分裂を繰り返したため国会での議席数は大幅に減少しました。2022(令和4)年現在、社民党に所属する国会議員は、衆議院と参議院にそれぞれ1名ずついるのみです。

\次のページで「日本社会党が衰退した原因は?」を解説!/

日本社会党が衰退した原因は?

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最後に、日本社会党が衰退した原因を見てみましょう。

社会主義思想の行き詰まり

19世紀にマルクスとエンゲルスにより確立された社会主義思想は世界中に広まり社会主義を標榜する国が数多く生まれました。しかし、冷戦が終結すると、ソビエト連邦などの社会主義国が次々と消滅。今では数えるほどしか社会主義国はありません

55年体制の時代には多くの社会主義国家が存在していたため、日本社会党の存在意義はあったといえるでしょう。しかし、社会主義国家が少なくなった現在に日本社会党が存在していたとしても55年体制の時代と同等の支持は得られないはずです。日本社会党の後継政党といえる社会民主党に閉塞感を覚えるのも必然と考えられます。

方針転換の失敗

社会党が方針転換して時代に迎合するチャンスはありました。それは、自社さ連立政権を成立させた時です。村山内閣では自衛隊や原子力発電所を肯定して自民党や新党さきがけに配慮した格好となりました。それまでの社会党では考えられなかった方針転換です。

しかし、連立政権から離脱した社会党は、社民党に変わる決断を下しました。結果として、それが衰退の原因になったといえるでしょう。社会民主主義を掲げても今の時代では支持されにくくかといって時代に迎合し過ぎても従来の支持者を失うおそれがありました。政権の座についたことで、党としての寿命を縮めたといっても過言ではありません。

社会党は方針転換に失敗して衰退した

長らく野党だった社会党は、自社さ連立政権で党委員長の村山富市が総理大臣となります。しかし、自民党や新党さきがけに配慮するため、従来の社会党とは大きく方針を転換させました。そのことが原因の1つとなり、次々と社会党から議員が離脱したのです。今では社会党の後継である社民党が少数ながら議席を確保していますが、現代の日本で社会民主主義が受け入れられるのは難しく、社民党が苦戦するのは仕方がないでしょう。

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現代社会

なぜ日本社会党は衰退した?原因と日本社会党の歴史を行政書士試験合格ライターが簡単にわかりやすく解説

今回は、日本社会党について学んでいこう。

長らく社会党は、自民党に対抗する第2の政党といえる存在感を示し続けていた。しかし、現在では後継政党である社民党が、存続の危機を迎えているといえるぞ。なぜそのような状況に陥ってしまったのでしょうか。

日本社会党が衰退した原因を、党の歴史とともに、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

日本社会党の結成から55年体制へ

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まずは日本社会党の結成から55年体制の確立までを、簡単に振り返ってみましょう。

結党して2年で社会党が政権の座につく

1945(昭和20)終戦直後に日本社会党(社会党)は結成されました。戦時中に非共産党系の社会主義思想の勢力が、大同団結した形で結党したものです。1947(昭和22)年の日本国憲法下で初めて実施された総選挙で社会党が第1党になり社会党の委員長だった片山哲が総理大臣となりました

しかし、社会党は少数与党でした。そのため、片山内閣は政権運営に苦慮しその結果1年もたずに総辞職となりますその後に成立した芦田均内閣でも社会党は政権与党となりましたが昭和電工事件などが大きなダメージとなりました。そのために芦田内閣もわずか半年余りしかもたず、第2次吉田茂内閣が後を引き継ぐことになります。

党内対立と55年体制の確立

日本社会党は、元来さまざまな勢力が団結して生まれたものです。そのため、結党当初から党内で対立が起こりそれは幾度も繰り返されました。特に、社会民主主義を規範とする右派とマルクス主義に忠実な左派との対立が顕著でした。2つの派閥は1950年(昭和25)に短期間だけ分裂した後、1951(昭和26)年に再び分裂します。

1955(昭和30)左右両派は党大会を開催して再び統一を果たしました。同じ年に自由党と日本民主党が合併して自由民主党が結成されると、自民党と社会党で議席の大半を占めるようになりますそのような状態は55年体制と呼ばれ以後40年近くに渡り続くこととなったのです

万年野党化

55年体制となってから、社会党は自民党に次ぐ勢力として存在感を放っていました。しかし、55年体制の三十数年間は社会党は長らく野党第一党に甘んじていたのも事実です。衆議院で常に100議席前後を確保していましたが、政権の座には遠く及びませんでした。

1986(昭和61)社会党委員長に土井たか子が就任するとマドンナ旋風(おたかさんブーム)が起こります1989(平成元)年の参議院選挙では社会党から出馬した多くの女性候補者が当選するなどで社会党の獲得議席数が自民党を上回りました。しかし、翌年の衆議院総選挙で社会党は健闘するも、自民党の圧勝で政権交代には至っていません。

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