真言宗って知っているか?身近に真言宗のお寺がある人もいるでしょう。真言宗は平安時代、庶民のあいだで爆発的に大ヒット。一大ムーブメントとなった仏教の宗派のひとつです。

どうして真言宗は庶民の支持を得られたのでしょうか。始祖の空海の戦略なども含めて、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの文化と歴史を専門とする元大学教員。平安時代にも興味があり、気になることがあったら調べている。今回は平安時代に大流行した真言宗について調べてみた。

真言宗とはどんな宗教?

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真言宗とは、9世紀の初めに空海が開いた仏教の宗派。個人の救済だけでなく他人の救済に励むことの重要さを説いた大乗仏教のひとつです。教義の基になっているのが密教。即身成仏を信仰の究極の目的としました。

庶民を惹きつけた促身成仏の教え

即身成仏とは真言宗の教えの基本。仏と同じように行動して心を清く保つことで、誰でもすぐに仏になれるという教えです。しかしながら具体的にどう行動すればいいのか貴族たちも庶民も分からず、謎に包まれていました。

基本的な儀式は僧による加持祈祷。誰にも理解できない呪文を唱える神秘的で厳かな儀式です。それをするだけで現世利益があり、人は救われると考えられました。真言宗は現実世界に目に見える利益があるという教えなので、貴族のみならず一般庶民の間にも広がりました。

呪文を唱えるだけで救われるという教えは字の読めない庶民にとっても分かりやすいもの。難しい教義を覚える必要がないため、教育を受けていない者でも簡単に受け入れられました。そんな手軽さが密教つまり真言宗が大ヒットした理由と言えるでしょう。

インドの仏教をとりこんだ密教

密教は仏教のなかにバラモン教やインドの古い民間信仰をとりこんだもの。呪術性の高い信仰形態です。これまで日本で信じられていた一般仏教とは異なり神秘的で理解不能。それゆえ密教と呼ばれたのです。密教は奈良時代後期にはすでに日本に流入。それを真言宗として開いたのが空海でした。

「真言」というのは「まじないの言葉」という意味です。それまでの仏教は哲学のように難しい理論的な学問でした。一般庶民はとても近づくことが出来ないもの。それに対して密教の教えは理屈は分からなくてOK。まじないの言葉を唱えさえすれば、行動を清らかにしてさえいれば仏様になれるという、シンプルな教えなのです。

真言宗のはどんな特徴がある?

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真言宗には他の宗派には見られない大きな特徴があります。それが呪文を唱えるだけで救われる、そして信仰した結果が現世で実る、現世利益という考え方。それが当時の人々を惹きつけました。始祖の空海はビジネスセンスあふれるアイデアマン。秦氏とコラボして伏見稲荷を現在の場所に移し、テーマパーク兼アミューズメントエリアとしました。

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真言宗は暗記力アップとして人気

真言宗の特徴のひとつが供養するとき「護摩」を行うこと。「護摩」とは「息災・増益・降伏・敬愛などを祈願すること」を意味する古代インドのサンスクリット語です。本尊である不動明王の前に火を焚いた炉を置いて、ヌルデなどの護摩木を燃やして煙と匂いを充満させ、それで悪行を消滅させました。加持祈祷、火、煙、呪文はそれぞれに意味があり、欠かせないものでした。

奈良時代から平安時代にかけて僧になるための試験は暗記物のみ。大量の仏典を暗記しなければならならず、記憶力は僧たちに取って切実な問題でした。真言宗は「呪文を暗記するから記憶力が良くなる」とアピール。試験合格に向けて記憶力を増進するのに役立つと、僧になることを目指す人々に宣伝しました。「真言を唱えて記憶力を増そう」というキャッチフレーズがヒットにつながったのです。

日本古来の信仰も取り込んでいる

博学であり文人でもある空海は日本古来の神々に関する知識も豊富。渡来人の秦氏に由来する伏見稲荷を816年に移動。神社を稲荷山三箇峰から現在の場所へ移しました。夢のお告げがあったと語られていますがその真意は不明。日本古来の信仰を取り込むと同時に、朝廷に強い影響と財を持つ秦氏とのつながりを深めたかったのかもしれません。

平安貴族たちは我も我もと伏見稲荷へ詣でるように。伏見稲荷の知名度は瞬く間に高まりました。周辺の商いも盛んになったため、秦氏にとっても朝廷にとっても空海自身にとっても、いいこと尽くしだったのではないでしょうか。

真言宗の寺の中には、境内に小さな神社があり、伏見稲荷を祀っている所がありました。しかしながら明治時代、廃仏毀釈によりたくさんの仏像が破壊されました。「釈迦の教えである仏教を捨てる」ことが政府により命じられたからです。その時に寺のなかにある神社や、そのなかにある境内も壊され、ほとんどが消滅しました。

アイデアマン「空海」とはどんな人物?

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空海の別名は弘法大師。宝亀5年(774年)に今の香川県である讃岐国屏風浦にて生まれました。学者の多い家柄の生まれだった空海は、少年時代は真魚(まうお)と呼ばれ、神童と讃えられていました。延暦23年、遣唐使とともに唐に渡り密教を伝授され、日本で真言宗を開きました。

修験者の修行にのめりこんだ青春時代

真魚は15歳のとき、東宮学士の伯父につれられて長岡京へやってきました。長岡京とは平安京を建設する前にあった都。現在の乙訓郡向町の辺りに広がっていました。一時的に存在していたに過ぎない都ですが、多くの知識人が集まり学問を競い合っていました。若き日の空海は学びを求めてそこにやってきたのです。

18歳で大学の明経道という試験に合格。しかし在学中、ひとりの行者から神秘的な修法である虚空蔵求問持法(こくうぞうぐもんじほう)のことを聞き、大学を去ることを決意。行者とは、仏道を修業する修験者つまりは山伏のこと。寺には属せず山のなかで修業していました。空海はこの行者についていき、山林遍歴をするようになりました。

虚空蔵求問持法というのは、虚空蔵菩薩を本尊にまつり、陀羅尼(真言)をとなえる荒行のこと。記憶力を高めるため決まった期間に虚空蔵菩薩の真言を百万遍唱えるという方法です。

空海は、このような古来から続く荒行に心惹かれるものの、それは本当の仏の教えではないと考えるようになりました。そこで空海が行きついたのが「経」。お釈迦さまである釈迦牟尼の説いた教えのことです。

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遣唐使に参加して仏教の素養を深める

空海は自分の研究を深めるために、延暦23年7月6日に遣唐使船に乗って中国に渡りました。同じ遣唐使グループには、当時すでに活躍していた最澄も乗船。空海が向かった長安は、玄宗皇帝と楊貴妃のスキャンダルがきっかけとなり反乱が起こり、すっかりさびれていました。とはいえ当時の世界一の大都市としての様相は十分に残っていました。

三蔵法師たちの努力によって真言密教は長安の人々を強く捉えていました。空海の師匠は恵果という僧。しかし恵果は亡くなってしまいます。そこで空海は師匠の葬儀を済ませて帰国。入唐してわずか2年後のことでした。

唐からの帰国後に真言宗を開く

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遣唐使にメンバーであった最澄も、空海と同じく密教を習得。密教の呪力により一足早く世に知られるようになります。その理由が、桓武天皇が危篤状態のときに天皇の病を治したこと。天皇は一時的に快方しただけでしたが、ご褒美として天台宗の開祖を許されました。

闘う最澄と平和主義の空海

最澄が選んだのは旧仏教界と激しい戦い。しかしながら論争が終焉しないうちに、最澄は比叡山中堂院で亡くなります。最澄の理論は死後に認められ、天台宗は旧仏教から独立しました。天台宗は皇室や貴族のために加持祈祷を行うようになり、民衆から離れてゆきました。

我が道を歩く空海は、最澄たちの大論争については静観の姿勢を取っていました。天台宗とは対照的に真言宗は庶民に浸透していきます。空海は高野山で修業して金剛峰寺を建立。高野山は今でも真言宗最大の総本山であり、日本仏教の聖地として親しみある存在となっています。

空海と最澄のキャラの違い

最澄は自分が信じる宗派の理論が絶対の頑固タイプ。旧仏教の教えを全否定するため、敵も多くいました。空海は臨機応変に妥協できるタイプ。旧仏教の教えの違いも包み込むことができました。さらには日本古来の神道も取り入れていく柔軟性がありました。

空海は平安京にたびたび上り、文字の巧みさを武器に嵯峨天皇や貴族に接近。雨ごいや厄除のまじないにも熱心で、民衆の人気も集めました。旧仏教徒と争うことはなし。むしろ妥協して同化、ついには国家鎮護の祈祷を行うまでになりました。

最澄は天皇の病状を一時的に回復させたことにより、空海より先に名を知られるようになりました。最澄よりもあと、天皇の死後に帰国した空海は、最澄と手紙を交わしたり書物を交換したり、仲良く付き合っていました。しかしながら、やがて仲たがいして袂を分かちます。一切の妥協を許さない最澄と八方美人で平和主義を貫く空海は、意見が合わないと思うことも多かったのでしょう。みなさんはどっち派ですか?

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事業を通じて真言宗を広める空海

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空海が真言宗を広めるために利用したのが教育の力。たくさんの人に真言の教えを知ってもらおうと学校を設立しました。さらには天皇にも接近。権力の近くにいることで安全に真言宗の教えを広めていきました。

事業家として大成功した空海

空海が建てた学校というのは綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)。空海は宗教人ではありますが、同時に社会性もある人物でした。また能書家という一面もあり、嵯峨天皇に重んじられました。その結果、政治力も獲得。このような社会性と政治性も真言宗が広まった大きな要因と言えるでしょう。

古代の人は偉人や尊敬すべき人を「タイシ」と呼んでいました。空海も同様。「弘法大師」と呼ばれています。空海に関しては数々の伝説も作られました。ほとんどは彼の死後に創作されたもの。宮中の神泉苑で雨ごいの祈祷を行なった時に、三日間大雨が降ったという話は有名。しかしながらこれはもちろん伝説です。

空海の伝説の中で、もっとも広く普及しているのは「弘法清水」の逸話。ある村の女が泉のほとりで大根を洗っていたら乞食坊主がやってきて「大根一本めぐんでくれ」と言いました。女が断ると坊主は持っていた錫杖で泉の辺りの土を叩きます。すると泉の水が止まり、この村は水を確保するのに非常に苦労するようになりました。一方、乞食坊主に水を飲ませてやった村は、乞食の錫杖の力により泉がこんこんと湧き出るように。水で苦労することはなくなりました。乞食はもちろん空海。現世で善行を積むことの大切さを学ぶために創作させたのでしょう。

「弘法清水」の元ネタは村の伝説

この伝説は、元々古くから村に伝わっていた「無名のタイシ伝説」が元ネタ。無名のタイシが「弘法大師」と結びつけられました。空海の開いた真言宗が、当時どれほど民衆の支持を受けたかは不明。しかしながら、村の伝説が空海の伝説につながっていることを考えると、大衆に愛される存在であったことは間違いないでしょう。

ただ、密教の教義をしっかり理解している僧は阿闍梨と呼ばれ、別格とされていました。阿闍梨は大衆とは一定の距離を持ち、接触することはほとんどありませんでした。阿闍梨がつながりを持ったのは天皇や貴族などの権威。大衆には大衆の教え、権威には権威の教えとすみわけをすることで真言宗は発展していったのでしょう。

お遍路さん文化は真言宗の教えの名残

空海の足跡として「四国88カ所霊場めぐり」という習慣が今でも残っています。空海にゆかりのある四国の寺院を巡礼する旅。「遍路」とも呼ばれています。お遍路さんと言えば「あ、聞いたことがある」という人も多いのではないでしょうか。真言宗は今でもとても身近な宗派ですが、本来の宗教はとてもハードルが高いもの。宗教のハードルを下げることに成功し、密教ブームを作り出した空海は、ビジネスセンスも抜群の人だったと言えるでしょう。

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平安時代日本史

平安時代に庶民のあいだで大流行した「真言宗」とは?始祖の空海の人生と共に元大学教員が簡単にわかりやすく解説

事業を通じて真言宗を広める空海

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空海が真言宗を広めるために利用したのが教育の力。たくさんの人に真言の教えを知ってもらおうと学校を設立しました。さらには天皇にも接近。権力の近くにいることで安全に真言宗の教えを広めていきました。

事業家として大成功した空海

空海が建てた学校というのは綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)。空海は宗教人ではありますが、同時に社会性もある人物でした。また能書家という一面もあり、嵯峨天皇に重んじられました。その結果、政治力も獲得。このような社会性と政治性も真言宗が広まった大きな要因と言えるでしょう。

古代の人は偉人や尊敬すべき人を「タイシ」と呼んでいました。空海も同様。「弘法大師」と呼ばれています。空海に関しては数々の伝説も作られました。ほとんどは彼の死後に創作されたもの。宮中の神泉苑で雨ごいの祈祷を行なった時に、三日間大雨が降ったという話は有名。しかしながらこれはもちろん伝説です。

空海の伝説の中で、もっとも広く普及しているのは「弘法清水」の逸話。ある村の女が泉のほとりで大根を洗っていたら乞食坊主がやってきて「大根一本めぐんでくれ」と言いました。女が断ると坊主は持っていた錫杖で泉の辺りの土を叩きます。すると泉の水が止まり、この村は水を確保するのに非常に苦労するようになりました。一方、乞食坊主に水を飲ませてやった村は、乞食の錫杖の力により泉がこんこんと湧き出るように。水で苦労することはなくなりました。乞食はもちろん空海。現世で善行を積むことの大切さを学ぶために創作させたのでしょう。

「弘法清水」の元ネタは村の伝説

この伝説は、元々古くから村に伝わっていた「無名のタイシ伝説」が元ネタ。無名のタイシが「弘法大師」と結びつけられました。空海の開いた真言宗が、当時どれほど民衆の支持を受けたかは不明。しかしながら、村の伝説が空海の伝説につながっていることを考えると、大衆に愛される存在であったことは間違いないでしょう。

ただ、密教の教義をしっかり理解している僧は阿闍梨と呼ばれ、別格とされていました。阿闍梨は大衆とは一定の距離を持ち、接触することはほとんどありませんでした。阿闍梨がつながりを持ったのは天皇や貴族などの権威。大衆には大衆の教え、権威には権威の教えとすみわけをすることで真言宗は発展していったのでしょう。

お遍路さん文化は真言宗の教えの名残

空海の足跡として「四国88カ所霊場めぐり」という習慣が今でも残っています。空海にゆかりのある四国の寺院を巡礼する旅。「遍路」とも呼ばれています。お遍路さんと言えば「あ、聞いたことがある」という人も多いのではないでしょうか。真言宗は今でもとても身近な宗派ですが、本来の宗教はとてもハードルが高いもの。宗教のハードルを下げることに成功し、密教ブームを作り出した空海は、ビジネスセンスも抜群の人だったと言えるでしょう。

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