
幣原喜重郎による「幣原外交」は「軟弱外交」だったのか?その内容を幣原喜重郎の生涯とともに歴史好きライターがわかりやすく解説
戦後2人目の総理大臣として政界復帰
第2次若槻禮次郎の総辞職以降、政界の中心から遠ざかっていた幣原喜重郎でしたが、終戦直後になり再び脚光を浴びることになります。東久邇宮稔彦王内閣が2ヶ月足らずで倒れ、その後釜に据えられたのが幣原だったのです。幣原の豊富な外交経験が買われたのはもちろん、親英米派だったのが大きな理由でした。
幣原はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の命令に応え、日本軍の解体や公職追放などに着手しました。新しい憲法の制定作業も、幣原内閣による大きな仕事でした。しかし、1946年に行われた戦後初の総選挙で日本自由党が勝利。幣原内閣が総辞職して、第1次吉田茂内閣が成立しました。
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衆議院議長のまま逝去
第1次吉田茂内閣が成立すると、幣原喜重郎も入閣。無任所の国務大臣となったのちに、復員庁の総裁に就任しました。その後、日本進歩党の総裁になった後、日本民主党の結成に参加します。さらに、民主自由党への参加を経て、1949(昭和24)年に幣原喜重郎は衆議院議長となりました。
幣原の衆議院議長就任は異例でした。なぜなら、総理経験者が衆議院議長となったのは、後にも先にも幣原ただ1人だったからです。しかし、1951(昭和26)年に幣原は心筋梗塞のため亡くなりました。幣原が議長在任中のまま亡くなったため、葬儀は衆議院葬として行われています。
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「幣原外交」は「軟弱外交」と批判されたが海外から高く評価された
幣原喜重郎が外務大臣だった時に展開していた外交を「幣原外交」と言います。「幣原外交」とは、武力を用いずに諸外国と協調するものです。海外から「幣原外交」は高く評価されましたが、軍などが「幣原外交」を「軟弱外交」などと批判して、国内からは必ずしも「幣原外交」が支持されていませんでした。しかし、その後の日本の強硬路線が悲惨な結末を迎えたことを省みれば、「幣原外交」が間違いではなかったといえるでしょう。