
幣原喜重郎による「幣原外交」は「軟弱外交」だったのか?その内容を幣原喜重郎の生涯とともに歴史好きライターがわかりやすく解説
ロンドン海軍軍縮条約
1929(昭和4)年の張作霖爆殺事件で田中義一が総理を辞職すると、濱口雄幸がその後継となりました。濱口雄幸内閣で外務大臣となったのが、前外務大臣にして濱口の旧友である幣原喜重郎です。濱口内閣でも、幣原は協調路線である「幣原外交」を推し進めます。日華関税協定の締結も「幣原外交」によるものでした。
1930(昭和5)年、ロンドン海軍軍縮会議で、補助艦の制限に関する討議が行われます。日本は若槻禮次郎元総理を首席全権として、「幣原外交」の路線で会議に参加しました。その結果、イギリス・フランス・イタリア・アメリカ・日本の5カ国でロンドン海軍軍縮条約が締結されたのです。
臨時首相代理
濱口雄幸内閣の「幣原外交」によりロンドン海軍軍縮条約が締結されましたが、またしても軍部からは「軟弱外交」と非難されます。濱口内閣が海軍の意に反して軍縮につながる条約を締結したのは、統帥権の独立を犯したものと批判したからです。さらに、野党や枢密院などからも条約締結が批判されました。
1930(昭和5)年、濱口総理は視察などのために東京駅を訪れた際に、暴漢から銃撃されます。男は濱口内閣の政策に不満を持っていたのです。濱口総理は一命を取り留めましたが、総理の職務を遂行できなくなったため、幣原喜重郎が職務を代行しました。その後、濱口は回復が思わしくなかったため、濱口内閣は総辞職することになります。
満州事変の処理
幣原喜重郎が濱口雄幸に代わり総理代理を務めたのは、憲政史上最長の116日間にも及びました。濱口雄幸内閣の後に成立したのが第2次若槻禮次郎内閣です。濱口内閣で外務大臣に就任した幣原は、第2次若槻内閣でも外務大臣となります。「幣原外交」も継続されました。
しかし、その頃には大陸の情勢が年を重ねるごとに不穏になるばかりでした。その最中に起きたのが、1931(昭和6)年の満州事変です。「幣原外交」では不拡大方針を取り、中国と直接交渉することで事態の収集を図りましたが、軍部が反発。そのことがきっかけの1つとなって若槻内閣が崩壊し、幣原も外務大臣を辞職しました。
総理大臣となった晩年の幣原喜重郎

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外務大臣を辞職して以降は表舞台から遠ざかっていた幣原喜重郎でしたが、終戦直後に再び活躍の場が与えられます。最後に、晩年の幣原喜重郎の活躍を見ていきましょう。
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