今回は、幣原喜重郎について学んでいこう。

外務大臣就任時の幣原による協調路線の外交は、「幣原外交」として諸外国から高く評価されていたぞ。しかし、国内では「幣原外交」が「軟弱外交」として非難されることが多かった。なぜそんなに評価が分かれたのでしょうか。

「幣原外交」の詳しい内容を、幣原喜重郎の生涯とともに日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

政治家になる前の幣原喜重郎

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まずは幣原喜重郎が政治家になる前を見ていくことにしましょう。

濱口雄幸と同級生

幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)1872(明治5)年に現在の大阪府門真市で生まれました。実家は豪農だったとのことです。兄の幣原坦(しではらたいら)は教育者となり後に台北帝国大学(現在の国立台湾大学)の初代総長に就任しました

兄に劣らず聡明な喜重郎は旧制第三高等中学校から東京帝国大学法科大学へ進みます旧制三高と東大の同級生には後に総理大臣となる濱口雄幸がいました。2人は一二を争うほど成績が優秀でした。よって、2人が政治の世界で手を組むことになるのは自然なことだったといえます。

加藤高明の義弟になる

東大を卒業した幣原喜重郎は、農商務省(現在の農林水産省と経済産業省を合わせたような省)に入省した後に、外交官試験に合格して外務省に転入します。外交官となった幣原は、三菱財閥の創始者である岩崎彌太郎の四女と結婚長女と結婚した加藤高明(のちの総理大臣)とは義兄弟となりました

朝鮮半島やイギリスなどに赴任した後、幣原は外務次官や駐米大使などを務めます。1922(大正11)にワシントン会議が開催されると幣原が日本の全権委員となりました。日本はアメリカ・イギリス・フランス・イタリアとワシントン海軍軍縮条約を締結。参加5カ国の主力艦保有率を定めました。

幣原外交の始まり

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幣原喜重郎は外交官として辣腕を振るった後、政治家として「幣原外交」を展開していきます。果たして、「幣原外交」とはどのようなものだったのでしょうか。

\次のページで「第一次世界大戦後の世界情勢」を解説!/

第一次世界大戦後の世界情勢

第一次世界大戦はドイツやオーストリアを中心とした同盟国とイギリスやフランスなどによる協商国との間で起きました日本は日英同盟を結んでいたため協商国側に加わって参戦します。途中でアメリカが協商国に加わると、戦況が一変。協商国が勝利を収めました

第一次世界大戦により、ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国・オスマン帝国、ロシア帝国が崩壊。パリ講和会議が開かれ1919(大正8)年にヴェルサイユ条約が締結されました。その後、世界平和を維持するための国際組織として、1920(大正9)年に国際連盟が設立されます。

ヴェルサイユ・ワシントン体制を尊重

「幣原外交」は外交官時代からその片鱗が見えていたといえます。ワシントン会議では、当初は日英同盟にアメリカを加える案が議論されていました。しかし、軍事色を薄めた「幣原試案」を叩き台とした結果日英同盟は破棄代わりに日英米仏による四国条約が締結されました

1924(大正13)幣原喜重郎の義兄である加藤高明が総理大臣になると幣原は加藤内閣の外務大臣となりました幣原は外務大臣の就任演説においてヴェルサイユ・ワシントン体制を尊重すると宣言します。ヴェルサイユ・ワシントン体制とは、第一次世界大戦後に締結された、ヴェルサイユ条約とワシントン条約を基礎とする国際秩序の体制です。

中国やソ連との関係改善

幣原外交では列強国と協調していくという意向が示されていました。その一方で、中国には内政不干渉の方針を貫きあくまでも条約においての権益を拡大することに努めます。第一次奉直戦争で中国では奉天派と直隷派が対立しましたが、幣原は中立する姿勢を崩しませんでした。

同じ頃、日本はシベリア出兵によりソ連と対立していました。しかし、幣原外交を基本路線としてソ連と多くの交渉を重ねた結果1925(大正14)年に日ソ基本条約が結ばれたのです日本はソ連との国交を樹立しポーツマス条約で得ていた権益を回復させました

幣原外交は「軟弱外交」か?

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協調外交を重視していた「幣原外交」でしたが、国内からは「軟弱外交」と批判されるようになります。いったい誰がそのような批判をしたのでしょうか。

軍部との対立

1927(昭和2)年の南京事件により、アメリカとイギリスは北伐を続けていた蒋介石に最後通牒を突きつけようとします。しかし、幣原喜重郎は英米の大使を説得中国への派兵要請を拒絶しました。幣原は蒋介石を援助することにより、自ら中国の治安維持に当たらせようとしたのです。

幣原は中国に対して内政不干渉の方針を貫こうとしました。しかし、そのような外交姿勢を軍や枢密院が認めませんでした幣原の外交姿勢を「軟弱外交」として公然と非難したのです。閣内からも、幣原が強硬姿勢を取らなかったことを批判する者が現れました。

「幣原外交」から「田中外交」へ

加藤高明が総理大臣在職中に病死すると、臨時で代理を務めた若槻禮次郎がそのまま総理となります。幣原喜重郎は第1次若槻内閣でも外務大臣となりました。しかし、若槻は枢密院と対立したことが原因となり総理を辞任幣原も外務大臣の座から降りました

第1次若槻内閣が総辞職した後に総理となったのは立憲政友会総裁の田中義一でした。立憲政友会は若槻の憲政会と対立していたこともあり、田中は幣原外交を批判していました。田中義一内閣が成立すると田中が外務大臣を兼任してそれまでとは一転して強硬的な積極外交である「田中外交」を展開しました

\次のページで「幣原外交の再登場」を解説!/

幣原外交の再登場

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一度は断念せざるをえなかった「幣原外交」でしたが、再び「幣原外交」は展開されます。その様子を見てみましょう。

ロンドン海軍軍縮条約

1929(昭和4)年の張作霖爆殺事件で田中義一が総理を辞職すると濱口雄幸がその後継となりました濱口雄幸内閣で外務大臣となったのが前外務大臣にして濱口の旧友である幣原喜重郎です濱口内閣でも幣原は協調路線である「幣原外交」を推し進めます。日華関税協定の締結も「幣原外交」によるものでした。

1930(昭和5)年、ロンドン海軍軍縮会議で、補助艦の制限に関する討議が行われます。日本は若槻禮次郎元総理を首席全権として「幣原外交」の路線で会議に参加しました。その結果、イギリス・フランス・イタリア・アメリカ・日本の5カ国でロンドン海軍軍縮条約が締結されたのです

臨時首相代理

濱口雄幸内閣の「幣原外交」によりロンドン海軍軍縮条約が締結されましたがまたしても軍部からは「軟弱外交」と非難されます。濱口内閣が海軍の意に反して軍縮につながる条約を締結したのは、統帥権の独立を犯したものと批判したからです。さらに、野党や枢密院などからも条約締結が批判されました。

1930(昭和5)濱口総理は視察などのために東京駅を訪れた際に暴漢から銃撃されます。男は濱口内閣の政策に不満を持っていたのです。濱口総理は一命を取り留めましたが総理の職務を遂行できなくなったため幣原喜重郎が職務を代行しました。その後、濱口は回復が思わしくなかったため、濱口内閣は総辞職することになります。

満州事変の処理

幣原喜重郎が濱口雄幸に代わり総理代理を務めたのは憲政史上最長の116日間にも及びました。濱口雄幸内閣の後に成立したのが第2次若槻禮次郎内閣です。濱口内閣で外務大臣に就任した幣原は第2次若槻内閣でも外務大臣となります「幣原外交」も継続されました

しかし、その頃には大陸の情勢が年を重ねるごとに不穏になるばかりでした。その最中に起きたのが、1931(昭和6)年の満州事変です。「幣原外交」では不拡大方針を取り中国と直接交渉することで事態の収集を図りましたが軍部が反発そのことがきっかけの1つとなって若槻内閣が崩壊し幣原も外務大臣を辞職しました

総理大臣となった晩年の幣原喜重郎

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外務大臣を辞職して以降は表舞台から遠ざかっていた幣原喜重郎でしたが、終戦直後に再び活躍の場が与えられます。最後に、晩年の幣原喜重郎の活躍を見ていきましょう。

\次のページで「戦後2人目の総理大臣として政界復帰」を解説!/

戦後2人目の総理大臣として政界復帰

第2次若槻禮次郎の総辞職以降、政界の中心から遠ざかっていた幣原喜重郎でしたが、終戦直後になり再び脚光を浴びることになります。東久邇宮稔彦王内閣が2ヶ月足らずで倒れその後釜に据えられたのが幣原だったのです。幣原の豊富な外交経験が買われたのはもちろん、親英米派だったのが大きな理由でした。

幣原はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の命令に応え日本軍の解体や公職追放などに着手しました新しい憲法の制定作業も幣原内閣による大きな仕事でした。しかし、1946年に行われた戦後初の総選挙で日本自由党が勝利。幣原内閣が総辞職して、第1次吉田茂内閣が成立しました。

衆議院議長のまま逝去

第1次吉田茂内閣が成立すると幣原喜重郎も入閣無任所の国務大臣となったのちに復員庁の総裁に就任しました。その後、日本進歩党の総裁になった後、日本民主党の結成に参加します。さらに、民主自由党への参加を経て、1949(昭和24)年に幣原喜重郎は衆議院議長となりました

幣原の衆議院議長就任は異例でした。なぜなら、総理経験者が衆議院議長となったのは、後にも先にも幣原ただ1人だったからです。しかし、1951(昭和26)年に幣原は心筋梗塞のため亡くなりました。幣原が議長在任中のまま亡くなったため、葬儀は衆議院葬として行われています

「幣原外交」は「軟弱外交」と批判されたが海外から高く評価された

幣原喜重郎が外務大臣だった時に展開していた外交を「幣原外交」と言います。「幣原外交」とは、武力を用いずに諸外国と協調するものです。海外から「幣原外交」は高く評価されましたが、軍などが「幣原外交」を「軟弱外交」などと批判して、国内からは必ずしも「幣原外交」が支持されていませんでした。しかし、その後の日本の強硬路線が悲惨な結末を迎えたことを省みれば、「幣原外交」が間違いではなかったといえるでしょう。

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現代社会

幣原喜重郎による「幣原外交」は「軟弱外交」だったのか?その内容を幣原喜重郎の生涯とともに歴史好きライターがわかりやすく解説

今回は、幣原喜重郎について学んでいこう。

外務大臣就任時の幣原による協調路線の外交は、「幣原外交」として諸外国から高く評価されていたぞ。しかし、国内では「幣原外交」が「軟弱外交」として非難されることが多かった。なぜそんなに評価が分かれたのでしょうか。

「幣原外交」の詳しい内容を、幣原喜重郎の生涯とともに日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

政治家になる前の幣原喜重郎

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まずは幣原喜重郎が政治家になる前を見ていくことにしましょう。

濱口雄幸と同級生

幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)1872(明治5)年に現在の大阪府門真市で生まれました。実家は豪農だったとのことです。兄の幣原坦(しではらたいら)は教育者となり後に台北帝国大学(現在の国立台湾大学)の初代総長に就任しました

兄に劣らず聡明な喜重郎は旧制第三高等中学校から東京帝国大学法科大学へ進みます旧制三高と東大の同級生には後に総理大臣となる濱口雄幸がいました。2人は一二を争うほど成績が優秀でした。よって、2人が政治の世界で手を組むことになるのは自然なことだったといえます。

加藤高明の義弟になる

東大を卒業した幣原喜重郎は、農商務省(現在の農林水産省と経済産業省を合わせたような省)に入省した後に、外交官試験に合格して外務省に転入します。外交官となった幣原は、三菱財閥の創始者である岩崎彌太郎の四女と結婚長女と結婚した加藤高明(のちの総理大臣)とは義兄弟となりました

朝鮮半島やイギリスなどに赴任した後、幣原は外務次官や駐米大使などを務めます。1922(大正11)にワシントン会議が開催されると幣原が日本の全権委員となりました。日本はアメリカ・イギリス・フランス・イタリアとワシントン海軍軍縮条約を締結。参加5カ国の主力艦保有率を定めました。

幣原外交の始まり

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幣原喜重郎は外交官として辣腕を振るった後、政治家として「幣原外交」を展開していきます。果たして、「幣原外交」とはどのようなものだったのでしょうか。

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