奈良時代日本史

簡単でわかりやすい!「聖武天皇」は災難続き?大仏を建立し、仏教に救いを求めた天皇を歴史オタクが詳しく解説

よぉ、桜木健二だ。昔の日本で政治を動かしていたのは天皇だが、奈良時代に入ると貴族のなかでも藤原家が権力を握るようになる。だが、権力の集中は周りにとっても面白いもんじゃないから、権力争いが起こった。しかも、タイミングの悪いことに伝染病や災害が続いてしまう。時の天皇だった「聖武天皇」はこの災厄をどうやって退けたんだろうな?
今回は「聖武天皇」について、歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。今回は藤原家が隆盛のはじまりとなった「聖武天皇」について詳しくまとめた。

1.「聖武天皇」異例の即位と異例の皇后に渦巻く政治不安

image by PIXTA / 1466177

古代の日本を治めてきた「天皇」。天皇は代々皇族の父と母から生まれた皇子が即位するものでした。しかし、今回のテーマとなる「聖武天皇」の母は藤原家出身の夫人・藤原宮子で、皇族ではありません。母が皇族出身でないのと、聖武天皇が病弱であったため、即位は延期を重ねられ、その間に中継ぎの天皇として元正天皇が即位するほどだったのです。

ようやく、即位がかなったのは24歳の時。けれど、やはり上記の理由で聖武天皇の政治基盤は決して安定したものではありませんでした。

娘を皇后に!藤原家の基礎を築いた祖父「藤原不比等」の野望

聖武天皇の祖父「藤原不比等」は、飛鳥時代の末に活躍した「中臣鎌足」の息子であり、藤原氏の隆盛への道を切り開いた重要人物です。前述通り、聖武天皇は藤原不比等の娘・藤原宮子を母に、さらに妻のひとりに藤原不比等の娘・藤原光明子を迎えます。

このとき、藤原不比等は娘の藤原光明子を数いる天皇の夫人のひとりではなく、聖武天皇の皇后にしようと考えました。しかし、当時の皇后は夫の天皇亡きあとに即位することがあるため、皇族の血を引く特別な女性でなければなりません。なので、藤原光明子はもちろん皇族ではありませんから、皇后になる資格はなかったのです。

にもかかわらず、藤原不比等は自ら築いた権力をもって藤原光明子の立后を果たそうとしました。それに猛反対したのが、藤原不比等に次ぐ権力者の「長屋王」でした。

火花散る!藤原家と対立した皇族の中の皇族「長屋王」

長屋王は天智天皇の長男を父に持ち、母もまた天武天皇の娘という皇族の中でも特別な存在でした。そのうえ、若い聖武天皇に代わって政治を行う有力者でもあります。皇族の代表のような人物ですね。そんな立場だからこそ、前例のない非皇族の皇后が誕生することに猛反対したのでしょう。

そんな対立のなか、藤原不比等は病気で亡くなってしまい、代わりに四人の息子たちが表に立ちました。兄弟は藤原不比等の生前からそれぞれ別の家を継いでおり「藤原四家」の祖となっています。この四家こそが藤原南家、北家、式家、京家です。

\次のページで「呪いで皇子が亡くなった!?「長屋王の変」」を解説!/

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