今回は、加藤高明について学んでいこう。

加藤高明といえば、普通選挙法と治安維持法という、2つの対照的な法律が成立した時の総理大臣です。なぜ2つの法律を、同時期に成立させる必要があったのでしょうか。

加藤高明内閣が成立させた普通選挙法と治安維持法の内容や、2つの法律を同時期に成立させた理由などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

政界入りするまでの加藤高明

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最初に、加藤高明が政界入りするまでの様子を見てみましょう。

愛知県で生まれる

加藤高明は1860(安政7)年に現在の愛知県愛西市で生まれました。愛知県名古屋市の鶴舞公園に普選記念壇という野外ステージがありますが、日本で普通選挙が行われたことを記念して作られました。初めて普通選挙が行われた時に政権を担当していたのが、愛知県出身の加藤高明だったのです。

加藤の父は尾張藩の下級藩士だった服部重文で、加藤の幼名は「総吉」でした。つまり、加藤高明が生まれた当時の名前は服部総吉だったのです。その後、総吉少年は加藤家の養子となります。加藤家の養子となった総吉少年は後に名前を高明に改名しました

東大法学部から三菱の副支配人に

加藤高明は東京大学法学部を首席で卒業します。しかし、すぐに政界には進まず、当時の三大財閥の1つだった三菱に入社しました。入社後すぐにイギリスへ留学し、帰国すると副支配人として迎えられます。さらに、三菱の創業者である岩崎彌太郎の長女と結婚しました。

1887(明治20)年に加藤は外務省へ出向当時外務大臣を務めていた大隈重信の秘書となりました。さらに、駐英大使などを歴任し、その後東京日日新聞(現在の毎日新聞)の社長にもなっています。そして、1900(明治33)年に第4次伊藤博文内閣が成立すると加藤は外務大臣に抜擢されました

加藤高明内閣の成立

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三菱から外交官を経て外務大臣に抜擢された加藤高明。そこから、どのようにして総理大臣にまで昇り詰めたのでしょうか。

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対華21ヶ条要求

第4次伊藤博文内閣で初入閣した加藤高明は第1次西園寺公望内閣と第3次桂太郎内閣でも入閣ともに外務大臣となります。その間に衆議院議員選挙で2回当選して、後に貴族院の勅選議員となりました。勅選議員は任期が終身だったため、勅任以降の加藤はずっと貴族院議員であり続けます。

その後、加藤は立憲同志会の結成に参加すると1913(大正2)年に加藤が党首に就任しました1914(大正3)年に加藤は第2次大隈重信内閣の外務大臣となり、第一次世界大戦に参戦した日本の外交を担いました。1915(大正4)年に日本が中国に対して行った対華21ヶ条要求は加藤が中心となって実行を主張したものでした

苦節十年

加藤高明は第2次大隈重信内閣で外務大臣として辣腕を振るいましたが元老と対立したため1915(大正4)年に辞任します。その後、加藤が党首だった立憲同志会は中正会などと合併。憲政会へと改組され加藤が初代の総裁となりました。結党当初の憲政会は、衆議院で第1党でした。

しかし、憲政会は総選挙で苦戦して、結党時の議席数を保てなくなります。それ以降、加藤は苦節十年と呼ばれる時期が続き政権から遠ざかりました。1922(大正11)年に高橋是清内閣が総辞職した際に、後継候補として加藤友三郎と加藤高明の名前が上がり、「加藤にあらずんば加藤」と喧伝されます。しかし、総理となったのは加藤友三郎でした。

第二次護憲運動

高橋是清内閣の後は、加藤友三郎・山本権兵衛と、2代続けて海軍出身者が総理となりました。その次の清浦奎吾は枢密院議長からの転身で、貴族院を基盤とする超然内閣を組織します。そのことに、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部からなる護憲三派が反発。政党政治を取り戻すべく、第二次護憲運動を起こしました

清浦内閣成立から4か月後、1924(大正13)年に行われた衆議院総選挙で護憲三派が圧勝憲政会が選挙で第1党となり総裁の加藤高明が新たに総理となったのです。加藤高明内閣では、後述する普通選挙法や治安維持法を制定した他にも、日ソ基本条約の締結や宇垣軍縮(陸軍2個師団の削減)などが行われました

1925年制定の普通選挙法とは

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加藤高明内閣が成立させた2つの重要法案といえば、普通選挙法と治安維持法です。まずは普通選挙法について詳しく見てみましょう。

衆議院議員選挙法を改正

第二次護憲運動を起こした護憲三派にとって普通選挙法の制定は選挙公約でもありました。総選挙で勝利した護憲三派の加藤高明憲政会総裁が総理大臣に就任すると、すぐに加藤内閣が法案の作成に着手します。しかし、法案の成立までには数か月かかりました。

「加藤高明内閣が普通選挙法を成立させた」という覚え方をした人が多いでしょう。正確には1900(明治33)年制定の衆議院議員選挙法を加藤高明内閣が大幅に改正したという表現となります。護憲三派の選挙公約である普通選挙の実現は、そのような手続きを経て実行されました。

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納税要件の撤廃

1889(明治22)年に衆議院議員選挙法が成立した時は直接国税を15円以上納めた25歳以上の男子にしか選挙権がありませんでした。1900(明治33)年と1919(大正8)年に選挙資格は緩和されましたが、それぞれ10円と3円に納税額が引き下げられた以外に特段の変更はありません

1925(大正14)年の衆議院議員選挙法改正でようやく納税資格が撤廃されました。選挙制度が成立してから、すべての成人男子に選挙権が与えられるまで30年以上かかったことになります。普通選挙法が成立したことで有権者の数はおよそ4倍にまで増えました

婦人参政権は認められなかった

普通選挙法の制定で25歳以上の男子すべてに選挙権が与えられた以外にも、ごく一部のものだけが対象でしたが不在者投票制度が導入されました。さらに、普通選挙法の制定は市制や町村制などにも影響を及ぼし地方自治体の議員選挙でも男子の普通選挙が行われるようになります

ですが、女子の選挙権は相変わらず認められませんでした。そのため、平塚らいてうや市川房枝らが中心となり婦人参政権の獲得を目指す運動が盛んになります。しかし、女子にも選挙権が与えられたのは終戦後である1945(昭和20)年のこと。普通選挙法が成立してから20年も経った後でした。

普通選挙法と同時期に成立した治安維持法とは

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では、治安維持法とはどのような法律だったのでしょうか。

国体変革や共産主義を取り締まるための法律

加藤高明内閣が成立する以前から治安維持法に相当する法律の制定が急がれていました1918(大正7)年の米騒動に代表される社会運動やソヴィエト政権誕生をきっかけとする共産主義運動を取り締まりたいという思惑があったからです。そのための法案が、1925(大正14)年の加藤内閣により成立しました。

治安維持法で取締の対象にしたのは、「国体を変革または私有財産制度を否認する者でした。つまり、天皇制を否定したり共産主義を支持したりする者を取り締まると定めたのです。1925年に日ソ基本条約を結んだのをきっかけに、日本で共産主義が浸透する事態を予防するという意味合いもありました。

治安維持法は戦時中に悪用された

1925(大正14)年に成立した治安維持法は1928(昭和3)年に一部を改正。結社に入らずとも結社の目的遂行のためにする行為までもが禁止され、最高刑を死刑とすることなどが加えられました。さらに、1941(昭和16)年になると治安維持法は大幅に改正されます

1941年の治安維持法改正で条文は大幅に増え予防拘禁制度など特別な手続きが導入されました。その結果、治安維持法は戦時中に反戦・反政府活動を弾圧する目的で濫用されたのです。治安維持法による逮捕者は数十万人にも上り、特別高等警察(特高)の横暴で多くの死者が出たと伝えられます。

\次のページで「なぜ普通選挙法と治安維持法の成立は同時期なのか」を解説!/

なぜ普通選挙法と治安維持法の成立は同時期なのか

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最後に、普通選挙法と治安維持法が同時期に成立した理由について見ていくことにしましょう。

「アメとムチ」の関係を想定

加藤高明内閣においては2つの法律をアメとムチの関係を想定して作ったとされます。普通選挙法が「アメ」、治安維持法が「ムチ」です。普通選挙法で選挙権の範囲を拡大させた代わりに治安維持法で結社などの取り締まりを強化させました

加藤が政党を率いている以上は、政党の支持者獲得のために選挙要件を緩和させるのは自然なことでしょう。選挙要件の緩和は多くの市民が政治参加するきっかけにもなります。すると、社会運動に参加する市民が増える可能性を否定できません。政府は反対意見を述べる者を歓迎しないので取り締まるための法律が必要になるというわけです

枢密院との交換条件という説

治安維持法の制定は普通選挙法を成立させるための枢密院との交換条件だったとする説があります枢密院は本来天皇の諮問機関でしたが次第に歴代の内閣と対立するようになりました。1927(昭和2)年には、台湾銀行救済緊急勅令を枢密院が否決したため、第1次若槻禮次郎内閣が総辞職に追い込まれたこともあります。

第3の議会同然でもあった枢密院の意向を加藤高明内閣が無視することはできませんでした。そのため、普通選挙法を成立されるための交換条件として、枢密院が治安維持法の制定を持ち出したという説もあるのです。しかし、そのような事実があったかどうかは定かではありません。

加藤高明内閣による2つの法律は「アメとムチ」に例えられる

加藤高明内閣は、普通選挙法と治安維持法という2つの重要法案を同時期に成立させました。2つの法律は対照的で、普通選挙法で成年男子の選挙権を拡大させましたが、治安維持法で共産主義運動を取り締まったのです。加藤内閣には、2つの法律を「アメとムチ」のように使い分ける意図があったと考えられます。しかし、治安維持法は後に大きく改正され、思想弾圧のために濫用されました。

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なぜ加藤高明内閣は同時期に普通選挙法と治安維持法を成立させた?2つの法律の内容や加藤高明の人物像などを歴史好きライターが簡単にわかりやすく解説

今回は、加藤高明について学んでいこう。

加藤高明といえば、普通選挙法と治安維持法という、2つの対照的な法律が成立した時の総理大臣です。なぜ2つの法律を、同時期に成立させる必要があったのでしょうか。

加藤高明内閣が成立させた普通選挙法と治安維持法の内容や、2つの法律を同時期に成立させた理由などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

政界入りするまでの加藤高明

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最初に、加藤高明が政界入りするまでの様子を見てみましょう。

愛知県で生まれる

加藤高明は1860(安政7)年に現在の愛知県愛西市で生まれました。愛知県名古屋市の鶴舞公園に普選記念壇という野外ステージがありますが、日本で普通選挙が行われたことを記念して作られました。初めて普通選挙が行われた時に政権を担当していたのが、愛知県出身の加藤高明だったのです。

加藤の父は尾張藩の下級藩士だった服部重文で、加藤の幼名は「総吉」でした。つまり、加藤高明が生まれた当時の名前は服部総吉だったのです。その後、総吉少年は加藤家の養子となります。加藤家の養子となった総吉少年は後に名前を高明に改名しました

東大法学部から三菱の副支配人に

加藤高明は東京大学法学部を首席で卒業します。しかし、すぐに政界には進まず、当時の三大財閥の1つだった三菱に入社しました。入社後すぐにイギリスへ留学し、帰国すると副支配人として迎えられます。さらに、三菱の創業者である岩崎彌太郎の長女と結婚しました。

1887(明治20)年に加藤は外務省へ出向当時外務大臣を務めていた大隈重信の秘書となりました。さらに、駐英大使などを歴任し、その後東京日日新聞(現在の毎日新聞)の社長にもなっています。そして、1900(明治33)年に第4次伊藤博文内閣が成立すると加藤は外務大臣に抜擢されました

加藤高明内閣の成立

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三菱から外交官を経て外務大臣に抜擢された加藤高明。そこから、どのようにして総理大臣にまで昇り詰めたのでしょうか。

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