「纏足(てんそく)」って知っているか?昔の中国で行われていた風習で、女性の足を布でまいて無理やり小さくするんです。ちょっと小さくするなんてものじゃない。歩くのもままならないほど小さくする。そして装飾がほどこされた靴を履く。

昔の中国ではどうして女性の足を小さくしたのでしょうか?その理由や小さくする方法、当時の中国で女性の置かれていた立場などを、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの文化や歴史を専門とする元大学教員。女性の文化史にも興味があり、気になることがあったらいろいろ調べている。高校のときに教科書で読んで衝撃を受けた纏足。改めて調べてみることにした。

纏足とはどんな風習?

Female compressed foot, and natural foot.jpg
約翰·湯姆森 - Beinecke Rare Book & Manuscript Library,公有领域,链接

纏足は、かつて中国で行われていた風習のひとつ。女の子の足を布などで縛って発達を抑え、小さな足にするというものです。世界で類を見ない風習のため「奇習」と言われることも多々ありました。女性の人権を侵害していると現代では批判されることも多いのですが、実態は謎につつまれています。

纏足のはじまりはいつ?

纏足の風習がいつ始まったのかは明確には分かりません。商説、 春秋説、戦国説、秦説、晋説、 六朝説、 隋朝煬帝説、 唐説、 五代南唐説などがありますが、10世紀の終わりころには存在していたというのが定説。最初は中国の一部の地域で行われていて、徐々に広がったとされました。

とくに纏足が流行ったのは華北。南部の水稲農家や騎馬民族のあいだでは受け入れられませんでした。また、同じ北部でも女真族にも纏足の習慣は根付きませんでした。女真族が清朝を打ち立てたときに纏足禁止令を出しましたが効果はなし。女真族の女性たちは纏足で歩く女性を見て「自分もやってみたい」と思うほどでした。

商説によると、般の王が寵愛していた后が布のようなもので足を包んでおり、みんながそれを真似て広まったとされています。戦国説の根拠は『史記』。纏足することで足の指先だけ着地しているように見え、それが美しいと見なされたというものです。また、先がとがっている靴をより美しく見せるために足そのものを変形させた、足が小さいことが皇帝に選ばれる基準であったなど、起源をあがるときりがありません。

近代になると海外も目を意識して禁止

辛亥革命により清朝が崩壊すると纏足は徐々に廃れ始めます。1912年に孫文が中華民国の臨時大総統になると、海外の目を気にして纏足が禁止されました。女性の足を無理やり小さくする行為は「野蛮」と見なされたからです。南京国民政府主席となった蒋介石も同じく纏足を否定。中華人民共和国が建国されたあとは、時代遅れのものとして纏足は完全に禁止されました。

海外諸国にとって、纏足、辮髪、アヘンの3つが中国の野蛮の象徴として定着。それを嫌っての纏足禁止令でした。しかしながら、禁止される時期に小さい子供だった女性のなかには纏足という人も。最近では「最後の纏足女性」として中国のメディアなどでも取り上げられています。とはいえ、過去の風習として風化しつつあるのが現状でしょう。

\次のページで「纏足にする方法とは?」を解説!/

纏足にする方法とは?

image by PIXTA / 61484721

纏足は女の子限定。3歳から4歳ごろ、綿の長い布で足首から先をグルグル巻きにして意図的に発達を押さえました。つまり纏足の女性の足は3歳、4歳ごろで止まっていると言えます。纏足を施術しているあいだ、女の子は痛みや熱で苦しみました。歩くことが不自由になってまで、どうして中国では纏足が推奨されたのでしょうか。

纏足の施術中はアヘンで我慢

纏足の施術中、女性は痛みと高熱で苦しみます。そこで涼しい秋に施術が開始されました。親指以外の8本の指を内側に折り曲げ、足の甲の骨の一部を石などで打ち砕くこともあったようです。その痛みは相当なもので、小さな女の子は一晩中うめいたり気をうしなったりすることもありました。

そこで麻酔の代わりにアヘンを吸わせ、暴れたり逃げたりしないようにベッドに固定されました。最終形態はハイヒールのように不自然に歪曲した足。いちばん理想とされるのは10センチ程度とされました。厳しい施術の期間は約2年間。その後も、3日に1度のペースで消毒することを生涯に渡って強いられました。

敗血症で命を落とすことも

纏足の施術は医師などが行うわけではありません。家族で施術をするため失敗することもありました。細菌に感染したことでショック死する、足が腐って壊疽(えそ)するなどして、最終的に命を落とすことも少なくありません。また、施術の影響で障害に苦しむことも。足の感覚が麻痺する、筋肉が痩せて歩けなくなる女性もいました。

足が小さく筋萎縮も進むので、手すりなどにつかまらないと歩けなくなることも。大地震が起こったとき、小さい足では逃げられないので、纏足の女性の犠牲者が多かったという記録もあります。纏足女性は、さまざまな意味で命を落とすリスクにさらされていました。それでも当時の女性は、とくに高尚な身分であるほど積極的に自らの足を小さくしていきました

纏足から分かる女性の立場

Chaussure chinoise Saverne 02 05 2012 1.jpg
By Vassil - Own work, CC0, Link

かつての中国ではどうして女性の足を無理やり小さくする風習が根付いていたのでしょうか。教科書では「逃げるのを防ぐため」と簡単に説明されることも多いのですが、実はほかにも深い理由があります。そこでいくつかの説をご紹介しましょう。

女性としての魅力を高めるため

女性の小さくおり曲がった足は「金蓮」と呼ばれ、刺繍を施された靴により装飾されました。纏足であることが結婚の条件となることも。かつての中国では女性は男性の庇護の元でしか生きられませんでした。そのため親は将来のために娘の足を纏足にしました。

どうして小さな足が好まれたのかというと、それにも諸説あります。ひとつに、足が小さいと力を入れて歩かねばならず、女性器の締まりがよくなるという迷信があったから。また、小さい足に性的魅力を感じる足フェチが纏足を定着させたという見方もあります。

\次のページで「農村で重労働をさせるため」を解説!/

農村で重労働をさせるため

もともと纏足は貴族など上流階級のあいだで広まりました。それが農民など貧困層のもとで広がったのは別の理由があります。纏足となることで上流階級の見た目になれると思ったこと。富裕層に嫁入りさせる足掛かりとして娘の足を小さくしたのです。

そのほか、足を小さく折り曲げることで、糸をつむぐなどの重労働に長時間携わせられるという考えもありました。足が小さいと、出かけたり遊んだりできないので、働かせ続けられるという認識があったのです。

女性は纏足をより美しく見せるため金蓮靴を履きました。その靴底は1センチから2センチほどの高さ。木や白い布により覆われました。ハイヒールのようなものや弓形のデザインが好まれました。「三寸鞍・底弩七分」という方法により、靴をより小さく見せるために工夫されました。身分の高い女性になると絹を使って高級感あふれるデザインが施されたようです。

中国における纏足禁止運動

image by PIXTA / 95721185

もともと中国では、宋の時代などに纏足に反対し、それを受け入れない部族もいました。清の末期になると中国国内でも纏足の弊害が本格的に主張されるようになりました。そこで纏足は自然に反すると反対する運動が起こり始めます。

清朝以降、反纏足の気風が生まれる

清朝を打ち立てたのは女真族。もともと纏足を受け入れていない民族でした。そのため清朝の時代に何度も纏足禁止令を出します。しかしながら中国全土で纏足がなくなるには至りませんでした。纏足は問題のある行為という認識が庶民レベルで浸透していなかったことがその理由です。

纏足が問題ある風習であることに気づいたのは西洋人と接触する機会が増えてから。とくに問題視したのはキリスト教の宣教師。中国人の信者に対して、礼拝の機会を逃している、女性の身分や魂に影響を与えると、その弊害を解きました。

西洋に恥をさらすという認識が根付き始める

中国では、アメリカの女性の生活スタイルを知る機会も増えます。自立した精神、恋愛や結婚の自由、男女の平等などの考え方が浸透。その結果、纏足が結婚の条件となる、無理やり纏足にさせられることが、時代遅れの誤った行為であると考える中国人も増えていきました。

中国のキリスト教信者を中心に纏足しなくても結婚できるようにして欲しいという訴えが起こり始めます。西洋に恥をさらす行為であるという感覚も生まれました。中国人女性が中心となって反纏足を訴える団体も設立。纏足にとどまらず女性の人権を守る運動に発展していきました。

\次のページで「中国における纏足禁止運動の本格化」を解説!/

中国における纏足禁止運動の本格化

image by PIXTA / 46247542

1990年代になると中国では、女性の地位向上の観点から纏足のみならず過去の慣習を廃止する運動が本格化。各省では一転して、反纏足キャンペーンが広がりを見せます。小学校の教科書に纏足は間違った慣習である旨の文章が掲載されることもありました。

政府が反纏足に着手

これらは「反纏足運動」あるいは「放足運動」と呼ばれ、各県では放足の実施度が点数化され、評価の対象となります。革命文学結社による同人誌の月刊『覚民』で、纏足、女子教育、結婚制度を問題化する運動が展開されたことも影響を与えました。

政府が纏足の慣習を断ち切ろうとしたのは中国の近代化を達成するため。纏足は女性の健康を損なう一面もあり、列強諸国に対抗できる強い国家をつくるうえでも弊害とされました。列強諸国によるアジア分割の流れが纏足を収束に向かわせたとも言えるでしょう。

男性主導で進められた反纏足運動

キリスト教における反纏足運動は女性が主導する一面がありました。一方、政府による反纏足・放足運動は男性主導。纏足の女性の立場を考慮しきれていませんでした。結果、纏足であるがゆえに罰金を科せられるなど、女性を苦しめることもあったようです。

纏足に反対する各種団体が生まれたことで、纏足の女性が生きづらくなり自殺率があがったという見方も。纏足であることで結婚が難しくなるのではと、女性を不安にさせることもありました。行き過ぎた取り締まりは「魔女狩り」のようであり、それも問題になりました。

政府が反纏足に転じたもうひとつの理由として産業化もあげられるでしょう。産業化を進めるためには女子労働の確保が欠かせません。歩くこともままならない纏足は、労働力の確保という点からも足かせになったのです。

現在も中国には纏足女性が生存

纏足は後ろめたい風習となったこともあり、纏足の女性はひっそりを暮らしていました。そのため、現在どれくらいの纏足女性がいるのかは、はっきりとは分かりません。とはいえ、纏足であることやどんな生活を送っていたのかなど、取材などで明らかにする女性もいます。そこから分かるのは苦難の人生。中国では、過去のこととして風化させるべきではないという意見も根強くあります。その実態を理解することが、中国の歴史を知るうえで大切になるでしょう。

" /> 中国の奇妙な風習「纏足」とは?足を小さくする方法や理由、女性が置かれていた立場を元大学教員が分かりやすく解説 – Study-Z
アジアの歴史世界史中華人民共和国中華民国

中国の奇妙な風習「纏足」とは?足を小さくする方法や理由、女性が置かれていた立場を元大学教員が分かりやすく解説

「纏足(てんそく)」って知っているか?昔の中国で行われていた風習で、女性の足を布でまいて無理やり小さくするんです。ちょっと小さくするなんてものじゃない。歩くのもままならないほど小さくする。そして装飾がほどこされた靴を履く。

昔の中国ではどうして女性の足を小さくしたのでしょうか?その理由や小さくする方法、当時の中国で女性の置かれていた立場などを、世界史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの文化や歴史を専門とする元大学教員。女性の文化史にも興味があり、気になることがあったらいろいろ調べている。高校のときに教科書で読んで衝撃を受けた纏足。改めて調べてみることにした。

纏足とはどんな風習?

纏足は、かつて中国で行われていた風習のひとつ。女の子の足を布などで縛って発達を抑え、小さな足にするというものです。世界で類を見ない風習のため「奇習」と言われることも多々ありました。女性の人権を侵害していると現代では批判されることも多いのですが、実態は謎につつまれています。

纏足のはじまりはいつ?

纏足の風習がいつ始まったのかは明確には分かりません。商説、 春秋説、戦国説、秦説、晋説、 六朝説、 隋朝煬帝説、 唐説、 五代南唐説などがありますが、10世紀の終わりころには存在していたというのが定説。最初は中国の一部の地域で行われていて、徐々に広がったとされました。

とくに纏足が流行ったのは華北。南部の水稲農家や騎馬民族のあいだでは受け入れられませんでした。また、同じ北部でも女真族にも纏足の習慣は根付きませんでした。女真族が清朝を打ち立てたときに纏足禁止令を出しましたが効果はなし。女真族の女性たちは纏足で歩く女性を見て「自分もやってみたい」と思うほどでした。

商説によると、般の王が寵愛していた后が布のようなもので足を包んでおり、みんながそれを真似て広まったとされています。戦国説の根拠は『史記』。纏足することで足の指先だけ着地しているように見え、それが美しいと見なされたというものです。また、先がとがっている靴をより美しく見せるために足そのものを変形させた、足が小さいことが皇帝に選ばれる基準であったなど、起源をあがるときりがありません。

近代になると海外も目を意識して禁止

辛亥革命により清朝が崩壊すると纏足は徐々に廃れ始めます。1912年に孫文が中華民国の臨時大総統になると、海外の目を気にして纏足が禁止されました。女性の足を無理やり小さくする行為は「野蛮」と見なされたからです。南京国民政府主席となった蒋介石も同じく纏足を否定。中華人民共和国が建国されたあとは、時代遅れのものとして纏足は完全に禁止されました。

海外諸国にとって、纏足、辮髪、アヘンの3つが中国の野蛮の象徴として定着。それを嫌っての纏足禁止令でした。しかしながら、禁止される時期に小さい子供だった女性のなかには纏足という人も。最近では「最後の纏足女性」として中国のメディアなどでも取り上げられています。とはいえ、過去の風習として風化しつつあるのが現状でしょう。

\次のページで「纏足にする方法とは?」を解説!/

次のページを読む
1 2 3 4
Share: