元号をめぐる誤報「光文事件」はなぜ起きた?事件の経緯や現在の改元制度などを歴史好きライターが簡単にわかりやすく解説
登極令に基づく改元
1889(明治22)年に大日本帝国憲法が公布されると、同じ年に旧皇室典範が制定されます。旧皇室典範では、皇位の継承順位などが定められました。しかし、元号などについての定めはありませんでした。1909(明治42)年公布の登極令で、改元について規定されています。
登極令では、即位の礼や大嘗祭などについて細かく規定されました。元号についても、一世一元の制や詔書で新しい年号を公布する旨などが定められています。明治天皇が崩御して嘉仁親王(のちの大正天皇)が即位した際も、登極令に基づき年号が「明治」から「大正」に改められました。
「大正」への改元がスクープされる
実は、年号が「明治」から「大正」に変わることは事前にスクープされています。1911(明治44)年8月に、大阪朝日新聞が号外を出しました。その内容が、新元号は「大正」で読み方は「タイショウ」であるというものだったのです。スクープしたのは、まだ新人記者だった緒方竹虎でした。
緒方は、当時の大物政治家だった三浦梧楼から、新元号が「大正」となることを聞き出すことができました。緒方は学生時代から三浦の自宅に出入りしていたため、三浦から信頼を得ていたのです。のちに緒方は朝日新聞社の副社長にまで出世。さらには国会議員となり、第4次吉田茂内閣では副総理となりました。
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大正天皇の崩御
大正天皇は生来から病気がちでした。即位してからも体調がすぐれない日は多く、1921(大正10)年からは長男の裕仁親王を摂政にして公務を代行させていました。それ以降の大正天皇は、病気療養に専念する日々が続きます。公式の場に姿を現すことがほぼなくなりました。
1926(大正15)年になると、大正天皇の体調が悪化します。当時の宮内省は、数日おきに天皇の病状を公表するようになりました。そして、同年の12月25日に天皇が崩御すると、裕仁親王が皇位を継承したのです。登極令に則り、その日のうちに改元などの作業が進められました。
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「光文」ではなく「昭和」
大正天皇の崩御は1926(大正15)年12月25日午前1時のことでした。すると、東京日日新聞(現在の毎日新聞)が号外で「元号は『光文』」と報じたのです。東京日日新聞は朝刊でも新しい元号が「光文」であると報道。他のいくつかの新聞も追随して、新しい元号は「光文」になると伝えました。
ところが、午前11時頃に宮内省が発表した新元号は「昭和」でした。いくつかの新聞は「新しい元号は『昭和』」である旨を号外で報じることに成功しています。しかし、東京日日新聞などが新元号を「光文」と伝えたため、スクープしたはずが一転して誤報となったのです。その一連の騒動を「光文事件」と呼んでいます。
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なぜ光文事件は起きたのか
「大正」に代わる元号の作成は、当時は宮内省を中心として行われました。宮内省が候補として提出した案は「昭和」「神化」「元化」などであり、その中に「光文」は含まれていませんでした。実は、内閣が提出した案に「光文」が含まれていて、数紙がそれを新しい元号だと誤認したのです。
さらに、「大正」のスクープ成功があったことも光文事件が起きた原因となったでしょう。「大正」が選定された時と同様にスクープを得たいがために、十分な事実確認をせぬまま誤ったことを報じたと考えられます。東京日日新聞は、編集主幹を役職から外すことで誤報の責任を取りました。
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