今回は、「光文事件」について学んでいこう。

元号は「大正」の後が「昭和」なのは常識でしょう。ですが、大正から改元されようとするタイミングで、誤って次の元号を「光文」と報道した「光文事件」が起きてしまった。なぜそのような事態が起こったのでしょうか。

光文事件が起きた原因や現在の改元制度などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

明治時代までの日本の元号

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まずは、明治時代までの元号について、簡単に振り返っていくことにしましょう。

事あるごとに改元されていた

日本において最初の元号は西暦645年の大化とされます。それ以降、江戸時代までは一代の天皇の間に何度も改元されることがありました。現在のように、一代の天皇が1つだけ元号を使っていたわけではありません。事あるごとに元号を変えていたのです

天皇の即位以外で多かった改元の理由は天災や疫病の発生でした。当時は改元することで悪い事が収まると信じられていたのです。変わった改元理由では、慶事の前兆とされる雲が現れたので「慶雲」になったことがありました。朝廷に銅が献上されたので「和銅」、キジが献上されて「白雉」、亀が献上されて「霊亀」「神亀」「宝亀」となったこともあります。

一世一元の制で「明治」になる

近代になり、日本では元号の扱いが変わります。1868年9月(新暦の10月)明治政府は明治改元の詔(または一世一元の詔)を出し慶応4年を明治元年に改めました。当時のルールでは、1868年1月1日は慶応4年の元日であるとともに、明治元年の元日になります。

明治改元の詔では一世一元の制が定められました。それは、天皇一代につき元号は1つだけとするものです。よって、中世のように数年おきに元号が代わることはなくなりました。そのため、明治以降の元号は、130年余りの長さにおいても「明治」「大正」「昭和」「平成」「令和」の5つしか使われていません。

明治から大正への改元

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では、明治から大正にかけてはどのように改元されたのでしょうか。

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登極令に基づく改元

1889(明治22)年に大日本帝国憲法が公布されると、同じ年に旧皇室典範が制定されます。旧皇室典範では、皇位の継承順位などが定められました。しかし、元号などについての定めはありませんでした。1909(明治42)年公布の登極令で改元について規定されています

登極令では、即位の礼や大嘗祭などについて細かく規定されました。元号についても一世一元の制や詔書で新しい年号を公布する旨などが定められています。明治天皇が崩御して嘉仁親王(のちの大正天皇)が即位した際も、登極令に基づき年号が明治から大正に改められました

「大正」への改元がスクープされる

実は、年号が明治から大正に変わることは事前にスクープされています1911(明治44)年8月に大阪朝日新聞が号外を出しました。その内容が、新元号は「大正」で読み方は「タイショウ」であるというものだったのです。スクープしたのは、まだ新人記者だった緒方竹虎でした。

緒方は、当時の大物政治家だった三浦梧楼から、新元号が大正となることを聞き出すことができました。緒方は学生時代から三浦の自宅に出入りしていたため、三浦から信頼を得ていたのです。のちに緒方は朝日新聞社の副社長にまで出世。さらには国会議員となり、第4次吉田茂内閣では副総理となりました。

光文事件の発生

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大正から昭和への改元で起きたのが「光文事件」です。事件の経緯を見てみましょう。

大正天皇の崩御

大正天皇は生来から病気がちでした。即位してからも体調がすぐれない日は多く、1921(大正10)年からは長男の裕仁親王を摂政にして公務を代行させていました。それ以降の大正天皇は、病気療養に専念する日々が続きます。公式の場に姿を現すことがほぼなくなりました。

1926(大正15)年になると大正天皇の体調が悪化します。当時の宮内省は、数日おきに天皇の病状を公表するようになりました。そして、同年の12月25日に天皇が崩御すると裕仁親王が皇位を継承したのです登極令に則りその日のうちに改元などの作業が進められました

「光文」ではなく「昭和」

大正天皇の崩御は1926(大正15)年12月25日午前1時のことでした。すると、東京日日新聞(現在の毎日新聞)が号外で元号は光文』」と報じたのです。東京日日新聞は朝刊でも新しい元号が「光文」であると報道。他のいくつかの新聞も追随して新しい元号は光文になると伝えました

ところが、午前11時頃に宮内省が発表した新元号は昭和でした。いくつかの新聞は「新しい元号は『昭和』」である旨を号外で報じることに成功しています。しかし、東京日日新聞などが新元号を光文と伝えたためスクープしたはずが一転して誤報となったのですその一連の騒動を光文事件と呼んでいます

なぜ光文事件は起きたのか

「大正」に代わる元号の作成は、当時は宮内省を中心として行われました。宮内省が候補として提出した案は昭和」「神化」「元化などでありその中に光文は含まれていませんでした。実は、内閣が提出した案に光文が含まれていて数紙がそれを新しい元号だと誤認したのです

さらに、「大正のスクープ成功があったことも光文事件が起きた原因となったでしょう。「大正」が選定された時と同様にスクープを得たいがために、十分な事実確認をせぬまま誤ったことを報じたと考えられます。東京日日新聞は編集主幹を役職から外すことで誤報の責任を取りました

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光文事件が及ぼした影響とは

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光文事件の影響は、戦後になってからも見られました。果たしてどのような影響があったのでしょうか。

関係者の証言

1956(昭和31)年、NHK総合テレビのクイズ番組『私の秘密』に言語学者の中島利一郎が出演しました。中島は番組内で光文事件について語ったのです。その内容は、「年号は光文に決まっていたが新聞報道されたことで昭和になった」といったものでした。

情報漏洩に腹を立てた宮内省が新元号の発表直前に光文から昭和に変更させたという説は後の東京都知事である猪瀬直樹が書いた天皇の影法師でも取り上げられています。しかし、元号を急遽変更することはありえないという意見も少なくありません。「光文」が差し替えられたとする説は、真実とは言い切れないでしょう。

スクープを自粛

昭和平成に変わる際にも新しい年号がスクープされる可能性はありました毎日新聞は発表の30分前に新元号が平成になるという情報を掴んでいたのです。「情報は確かなので『平成』を号外で出してほしい」などと、政治部長が編成部長に迫ったと伝えられます。

しかし、毎日新聞は平成になるという号外を出しませんでした。なぜなら、毎日新聞の前身である東京日日新聞が光文事件を起こしていたからです。光文事件を教訓としていたために、毎日新聞は「平成」のスクープを断念しました。その影響もあってか、「平成」の次となった「令和」に関しては、目立ったスクープは見られませんでした。

現在の改元制度と戦後に行われた改元

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最後に、現代の元号制度と戦後に行われた改元について見てみましょう。

元号法の成立

戦後しばらくは元号を制定する根拠となる法律がない状態が続きました旧皇室典範は現行の皇室典範に改められ登極令は効力を失ったからです。日本国憲法にも元号に関する条文がなかったため、元号の使用を続けるには新たに元号を法制化する必要がありました。ただし、元号を廃止すべきという意見もなかったわけではありません。

1970年代より元号の法制化を求める動きが強まると、1978(昭和53)年に元号法制化が閣議決定されます。そして、1979(昭和54)年に元号法が成立しその年のうちに施行されました元号法の本則は2項からなり第1項が元号を政令で定めること第2項が一世一元の制を採用することです

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昭和から平成へ

昭和天皇の晩年は日本中が自粛ムードに包まれました。1988(昭和63)年9月からしばらくは、祭りやイベントの中止や規模縮小が相次いだのです。天皇の病状は1日に何度も報道されました。1989(昭和64)年1月7日早朝に昭和天皇が崩御した際はテレビでは数日間特別番組が流れました

昭和からの改元は史上初めて元号法に基づき行われ改元が政府主導で行われたのも初めてのことでした。昭和天皇崩御から間もなくして改元の手続きは行われ、有識者の意見などを勘案した結果、新しい元号が「平成」に決定。その日のうちに小渕恵三官房長官から新元号平成が発表されました

平成から令和へ

平成から令和への改元は通例とは異なるものでした。なぜなら、生前退位が行われたからです。明仁天皇が自らの高齢化により公務が滞ることを懸念して、生前に皇位を継承することを希望しました。特例法が制定され徳仁親王が即位する日が2019年5月1日に決まります

改元も2019年5月1日に行われましたが新しい元号は1か月前の4月1日に菅義偉官房長官から発表されました。発表が1か月前倒しされたのは、改元の準備期間を設けるためでした。新しい元号令和万葉集を出典とするなど異例尽くしで改元が行われました

光文事件が起きたことで改元の報道は慎重になった

「光文事件」とは、大正に代わる新しい元号を誤って「光文」と報道した騒動のことです。「大正」をスクープできたことが仇となり、事実確認が不十分なまま報道を急いだことが原因と考えられます。その後、新元号をスクープできる機会はありましたが、光文事件を教訓としたため改元の報道が慎重になりました。光文事件でも分かる通り、多くの国民が関心を寄せるニュースの報道は、スピードよりも正確さが求められるべきでしょう。

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現代社会

元号をめぐる誤報「光文事件」はなぜ起きた?事件の経緯や現在の改元制度などを歴史好きライターが簡単にわかりやすく解説

登極令に基づく改元

1889(明治22)年に大日本帝国憲法が公布されると、同じ年に旧皇室典範が制定されます。旧皇室典範では、皇位の継承順位などが定められました。しかし、元号などについての定めはありませんでした。1909(明治42)年公布の登極令で改元について規定されています

登極令では、即位の礼や大嘗祭などについて細かく規定されました。元号についても一世一元の制や詔書で新しい年号を公布する旨などが定められています。明治天皇が崩御して嘉仁親王(のちの大正天皇)が即位した際も、登極令に基づき年号が明治から大正に改められました

「大正」への改元がスクープされる

実は、年号が明治から大正に変わることは事前にスクープされています1911(明治44)年8月に大阪朝日新聞が号外を出しました。その内容が、新元号は「大正」で読み方は「タイショウ」であるというものだったのです。スクープしたのは、まだ新人記者だった緒方竹虎でした。

緒方は、当時の大物政治家だった三浦梧楼から、新元号が大正となることを聞き出すことができました。緒方は学生時代から三浦の自宅に出入りしていたため、三浦から信頼を得ていたのです。のちに緒方は朝日新聞社の副社長にまで出世。さらには国会議員となり、第4次吉田茂内閣では副総理となりました。

光文事件の発生

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大正から昭和への改元で起きたのが「光文事件」です。事件の経緯を見てみましょう。

大正天皇の崩御

大正天皇は生来から病気がちでした。即位してからも体調がすぐれない日は多く、1921(大正10)年からは長男の裕仁親王を摂政にして公務を代行させていました。それ以降の大正天皇は、病気療養に専念する日々が続きます。公式の場に姿を現すことがほぼなくなりました。

1926(大正15)年になると大正天皇の体調が悪化します。当時の宮内省は、数日おきに天皇の病状を公表するようになりました。そして、同年の12月25日に天皇が崩御すると裕仁親王が皇位を継承したのです登極令に則りその日のうちに改元などの作業が進められました

「光文」ではなく「昭和」

大正天皇の崩御は1926(大正15)年12月25日午前1時のことでした。すると、東京日日新聞(現在の毎日新聞)が号外で元号は光文』」と報じたのです。東京日日新聞は朝刊でも新しい元号が「光文」であると報道。他のいくつかの新聞も追随して新しい元号は光文になると伝えました

ところが、午前11時頃に宮内省が発表した新元号は昭和でした。いくつかの新聞は「新しい元号は『昭和』」である旨を号外で報じることに成功しています。しかし、東京日日新聞などが新元号を光文と伝えたためスクープしたはずが一転して誤報となったのですその一連の騒動を光文事件と呼んでいます

なぜ光文事件は起きたのか

「大正」に代わる元号の作成は、当時は宮内省を中心として行われました。宮内省が候補として提出した案は昭和」「神化」「元化などでありその中に光文は含まれていませんでした。実は、内閣が提出した案に光文が含まれていて数紙がそれを新しい元号だと誤認したのです

さらに、「大正のスクープ成功があったことも光文事件が起きた原因となったでしょう。「大正」が選定された時と同様にスクープを得たいがために、十分な事実確認をせぬまま誤ったことを報じたと考えられます。東京日日新聞は編集主幹を役職から外すことで誤報の責任を取りました

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