今回は、美濃部亮吉について学んでいこう。

革新知事として独自の政策を次々と実施した美濃部亮吉ですが、その政策には批判の声も上がっていた。なぜ美濃部都政は評価が分かれるのでしょうか。

美濃部亮吉都政が実施した政策の内容やその評価が分かれる理由などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

美濃部亮吉が東京都知事になるまで

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まずは美濃部亮吉が東京都知事になるまでを簡単に振り返ってみましょう。

父は「天皇機関説」の美濃部達吉

美濃部亮吉(みのべりょうきち)は、1904(明治37)年に当時の東京府で生まれました。父は憲法学者の美濃部達吉です。「天皇機関説」という言葉を日本史の教科書などで知っている人は多いでしょう。美濃部亮吉の父・達吉は大日本帝国憲法の学説である「天皇機関説」を唱えて有名になりました

亮吉も父と同様に東京帝国大学に進学しましたが、学んだのは法律学ではなく経済学でした。マルクス経済学者の大内兵衛に師事したのです。東大を卒業した亮吉は法政大学で教授となりますが、1938(昭和13)年の第2次人民戦線事件に大内らとともに巻き込まれます。無罪となりましたが、同年に法政大学教授を辞任しました。

革新都知事の誕生

終戦直後の美濃部亮吉は、毎日新聞の論説委員や内閣統計委員会の事務局長などを歴任します。1949(昭和24)年からは東京教育大学(現在の筑波大学)の教授となりました。その間は、経済安定本部参与や行政管理庁統計基準部長を兼任。さらに、NHKで放送されていた『やさしい経済教室』で講師を務めました。

1967(昭和42)東京都知事選挙に美濃部が立候補。社会党や共産党の推薦を受け、さらに恩師である大内兵衛から説得されての出馬でした。接戦となりましたが、テレビ出演していた美濃部は知名度を生かして見事に当選社会党と共産党を支持基盤とする革新都知事が誕生したのです

福祉政策が充実していた美濃部亮吉都政

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美濃部亮吉が東京都知事として重点的に取り組んだのが福祉政策です。美濃部都政では、どのような福祉政策が行われたのでしょうか。

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高齢者の医療無料化

美濃部亮吉は東京都知事を3期12年務めましたその任期中に最も力を入れていたのが福祉政策といえるでしょう。中でも特筆すべき政策が、高齢者の医療費を無料にしたことです。美濃部都政は国よりもいち早く高齢者の医療控除に取り組みました

しかし、美濃部都政による高齢者の医療費無料化は、すぐに導入されたものではありませんでした。政府や自民党は反対し美濃部は少数与党を基盤としていたため一度は頓挫したのです。それでも東京都は高齢者の医療費無料化を断行。結果として、全国の自治体で医療費の無料化が進むことになります。

高齢者の都営交通無料化

美濃部都政による高齢者の福祉政策は、医療費の無料化だけではありませんでした。交通費も無料としたのです。1973(昭和48)年には、手始めに老人無料パスを発行パスを持っている高齢者は乗車時にパスを提示すれば無料で都営のバスなどに乗れました

1974(昭和49)年には、無料で利用できる交通手段が拡充されます。都営交通だけでなく、民営のバスも無料化されました現在でも東京都はシルバーパスを発行しています。シルバーパスはすべて無料にはならないものの、非課税者は一律1000円にするなど、高齢者の交通費を一部負担する施策が行われているのです。

保育所の充実

美濃部亮吉は、都知事選の選挙公約の1つに保育所の充実を挙げていました。美濃部が知事となってからは、保育所に関する政策を数多く実行します。東京都内に公立の保育所を次々と設置無認可保育には公費助成を行い、現在全国各地で進められている待機児童対策の先駆けとなりました。

さらに、保育士や職員などの配置などで東京都独自の基準が作られます児童手当が創設され、3歳児以上への完全給食を実施。さらに、国が消極的だったゼロ歳児の保育を美濃部都政は積極的に推し進めました。保育においても、美濃部都政が国より早く着手した施策は多かったのです。

美濃部亮吉都政によるその他の政策

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福祉政策以外にも、美濃部都政では独自の政策が実施されています。それらを見ていくことにしましょう。

公害対策

美濃部亮吉は東京都の公害対策にも熱心でした1969(昭和44)年には東京都が全国に先駆けて公害防止条例を制定しました。それがきっかけとなり、全国の自治体で公害防止に関する条例が設けられるようになります。国も公害対策基本法を改正させるなど、公害関連の法整備を進めました。

さらに、美濃部は東京都に公害局(現在の東京都環境局)を設置。公害対策や環境改善などの職務を執行させました。1971(昭和46)年には美濃部が「東京ゴミ戦争」を宣言し、東京都のゴミ処理問題に本腰を入れます。美濃部は地域住民との対話を重視するなどの姿勢を見せました。

歩行者天国を初めて実施する

美濃部都政による公害対策の1つに、歩行者天国の実施も入れて良いでしょう。1970(昭和45)年に浅草・池袋・銀座・新宿の4か所で東京都内で初めての歩行者天国が実施されました。歩行者天国は環境問題対策という意味もありましたが、当時は交通事故が頻発していたため、歩行者の安全を守る目的で実施されたのです。

交通に関する政策では、その他に都電の撤去が美濃部都政で行われました。前知事の在任時に都電の廃止は決まっていましたが、それを実行したのは美濃部都政の時代です。現在も運行が続いている荒川線を除き1972(昭和47)年までに全ての都電が廃止されました

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公営ギャンブルの廃止

公営ギャンブルの廃止を選挙公約に掲げていた美濃部亮吉は1969(昭和44)年に都営ギャンブルを廃止すると表明しました。それまで東京都では、戦後復興の財源確保のために公営ギャンブルを開催していたのです。しかし、当時からギャンブル依存症などが社会問題となっていました。

後楽園競輪場と大井オートレース場は東京都の単独開催でした。そのような事情もあったため、美濃部都政の時代に2場とも廃止されます。ただし、国が主催する東京競馬場は廃止の対象にはなりませんでした。さらに、周辺自治体との共同開催だった大井競馬場・京王閣競輪場・平和島競艇場などは主催者を移行して今も存続しています

美濃部亮吉都政が批判された理由とは

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福祉や公害対策などに重点を置いた美濃部都政でしたが、その一方で美濃部都政を批判する意見もあります。なぜ美濃部都政に批判的な意見があるのでしょうか。

東京都の財政悪化

美濃部都政による高福祉政策や公営ギャンブル廃止などは都民から高い支持を得ました。しかし、それらの政策により東京都の財政悪化を招いたのは皮肉としか言いようがありません。都営ギャンブルによる東京都の収入は、当時の金額で100億円ほどとされます。貴重な財源を美濃部都政は手放しました。

さらに、美濃部都政では人件費の高騰が問題視されました都のサービスを充実させるために職員を増加給与も国家公務員よりも高水準にしたため都は財政難になったのです。そのような美濃部都政に対して、「バラマキ福祉」などと批判する意見もありました。

交通インフラの整備に消極的

美濃部亮吉は「一人でも反対があったら橋を架けない」という「橋の哲学」を持っていたとされます。社会的少数派の意見を重視し道路建設の計画を次々と凍結させました東京外環道や首都高速中央環状線東京湾横断道路(アクアライン)などは美濃部都政においては計画が進行しませんでした

それらの道路は、現在までには全て開通しました。しかし、開通するまでは東京都の交通渋滞が慢性化して多大な経済損失があったとされます。さらに、美濃部は成田空港や羽田空港の拡張にも反対していました。美濃部都政は交通インフラの整備に消極的だったのです。

都知事退任後の美濃部亮吉と東京都

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最後に、美濃部亮吉が都知事を退任した後について見ていくことにしましょう。

\次のページで「鈴木俊一都知事の就任」を解説!/

鈴木俊一都知事の就任

美濃部亮吉は1979(昭和54)年までに東京都知事を3期12年務めると4期目となる選挙には立候補しないと表明しましたその後に都知事となったのが元東京都副知事で内閣官房副長官などを務めた鈴木俊一でした。副知事時代の鈴木は、1964(昭和39)年の東京オリンピック開催などに尽力しています。

鈴木が就任直後から取り組んだのが東京都の財政健全化でした高齢者の医療費無料化をやめ都の職員の給与を引き下げるなど経費削減に着手します。その結果、鈴木は東京都を黒字化させ、新宿区に新しい都庁を移転させるまでに回復させたのです。鈴木は1995(平成7)年まで4期16年都知事を務めました。

参議院に転出

美濃部亮吉は、1979(昭和54)年に3期12年務めた都知事を退任しました。すると、1980(昭和55)年の参議院議員通常選挙の全国区に無所属として出馬。都知事を務めた実績と知名度は絶大で、美濃部は参院選に初出馬だったにもかかわらず、見事に当選しました

当選後の美濃部は青島幸男らが所属する第二院クラブと統一会派を組みます。美濃部亮吉は1年生議員でしたが、統一会派の代表にもなりました。しかし、任期途中の1984(昭和59)年に美濃部は病気で亡くなったのです。美濃部の死から11年後の1995(平成7)年、鈴木俊一の公認として東京都知事になったのは青島幸男でした。

美濃部亮吉都政は福祉を充実させたが財政悪化を招いた

美濃部亮吉は、革新系の東京都知事として3期12年の任期を全うしました。任期中は福祉や公害対策などを重視した政策を実行して、多くの都民の支持を得ています。しかし、人件費を大幅に増やすなどで東京都の財政を悪化させたため、美濃部に批判的な意見もあるのです。美濃部都政で行われた政策は、功罪相半ばするといえるでしょう。

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なぜ美濃部亮吉都政は評価が分かれる?政策や批判された点などを行政書士試験合格ライターが簡単にわかりやすく解説

公営ギャンブルの廃止

公営ギャンブルの廃止を選挙公約に掲げていた美濃部亮吉は1969(昭和44)年に都営ギャンブルを廃止すると表明しました。それまで東京都では、戦後復興の財源確保のために公営ギャンブルを開催していたのです。しかし、当時からギャンブル依存症などが社会問題となっていました。

後楽園競輪場と大井オートレース場は東京都の単独開催でした。そのような事情もあったため、美濃部都政の時代に2場とも廃止されます。ただし、国が主催する東京競馬場は廃止の対象にはなりませんでした。さらに、周辺自治体との共同開催だった大井競馬場・京王閣競輪場・平和島競艇場などは主催者を移行して今も存続しています

美濃部亮吉都政が批判された理由とは

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福祉や公害対策などに重点を置いた美濃部都政でしたが、その一方で美濃部都政を批判する意見もあります。なぜ美濃部都政に批判的な意見があるのでしょうか。

東京都の財政悪化

美濃部都政による高福祉政策や公営ギャンブル廃止などは都民から高い支持を得ました。しかし、それらの政策により東京都の財政悪化を招いたのは皮肉としか言いようがありません。都営ギャンブルによる東京都の収入は、当時の金額で100億円ほどとされます。貴重な財源を美濃部都政は手放しました。

さらに、美濃部都政では人件費の高騰が問題視されました都のサービスを充実させるために職員を増加給与も国家公務員よりも高水準にしたため都は財政難になったのです。そのような美濃部都政に対して、「バラマキ福祉」などと批判する意見もありました。

交通インフラの整備に消極的

美濃部亮吉は「一人でも反対があったら橋を架けない」という「橋の哲学」を持っていたとされます。社会的少数派の意見を重視し道路建設の計画を次々と凍結させました東京外環道や首都高速中央環状線東京湾横断道路(アクアライン)などは美濃部都政においては計画が進行しませんでした

それらの道路は、現在までには全て開通しました。しかし、開通するまでは東京都の交通渋滞が慢性化して多大な経済損失があったとされます。さらに、美濃部は成田空港や羽田空港の拡張にも反対していました。美濃部都政は交通インフラの整備に消極的だったのです。

都知事退任後の美濃部亮吉と東京都

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最後に、美濃部亮吉が都知事を退任した後について見ていくことにしましょう。

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