
日宋貿易活性化の立役者となるのが藤原道長と平清盛。興隆の実体を日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ
アメリカの歴史と文化を専門とする元大学教員。平安時代にも興味があり、気になることがあったら調べている。今回は藤原氏全盛の時代を支えた日宋貿易について調べてみた。
日宋貿易とはどんな貿易?

日宋貿易とは、10世紀後半から13世紀後半に日本と中国の宋朝の間で行われた貿易のことを指します。時代的には平安時代中期から鎌倉時代中期。894年に国による公式の使節団遣唐使が廃止されてからも、日本と大陸の間では様々なかたちで貿易が継続されました。その一つが日宋貿易です。
危険が多かった遣唐使の派遣
遣唐使が廃止されたころの日本は大陸から様々な文化を吸収しようという進取の気風が薄れていました。理由は朝廷の財政難と渡航の危険性です。当時は中国へ渡るのに、朝鮮半島の沿岸航路を通っていましたが、新羅との国交が悪化してからは東シナ海横断航路にきりかえたため海上遭難が増えました。そのため貴族たちは遣唐使として海を渡ることを恐れました。
いっぽう中国船はほとんど毎年のように来航していました。日本よりも造船技術がはるかに進んでいたのです。中国大陸からの書物も財宝も、多額の費用とたくさんの犠牲をかけなくても、中国船を利用すれば入手できました。そこで朝廷や貴族たちは渡来する中国船と私的に貿易をして大陸の品物を手に入れるようになったのです。
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遣唐使廃止後は民間貿易が中心
権力争いも後押しして遣唐使は廃止。その頃の中国は唐が衰退し、混乱状態になっていました。907年に唐が滅んで五代と呼ばれる時代になりました。日本はそんなことも知らず相変わらず中国大陸と言えば唐(から)と思っていました。
公的な交易とは別に唐、宋、新羅の商船は相変わらず来航しました。今までの国家と国家の外交関係が民間貿易に代わったのです。唐の商船だけでも唐が滅びるまでの64年間に、三十数回来航しました。唐が滅びた後、中国大陸では次々に王朝が交替。五代十国と呼ばれました。
藤原氏全盛時代の日宋貿易

中国大陸で唐そして五代が滅んで宋の時代となったころ、日本では律用制度は骨抜きにされ藤原氏全盛時代。武士が地方で台頭し、僧侶が敵対する寺院に火を付けるなど世の中は乱れていました。道長の時代の時代に一転、藤原氏は勢いを増していきました。
私的な貿易で莫大な富を築く道長
宋は軍事費増強のために海外との交易を盛んにする必要からたびたび来航しました。一般人の来航は表向き禁止。宋の商人は博多や薩摩の坊津(ぼうのつ)越前の港に来航します。公の役割をはたしていた大宰府も道長の手先となり、道長は私的に中国の贅沢な文物を輸入して私腹を肥やしたのです。
国内ではいわゆる国風文化が熟成。唐の文物に強い憧れをもった貴族は、硯や筆、紙、香料、絹などを「からもの」と呼び、こぞって手に入れようとしました。中国からの舶来品は貴族のステイタス。『源氏物語』や『枕草子』にも、高貴な人たちを飾り立てる舶来品の素晴らしさが記されています。
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