「傍若無人」ってどんな人のこと?
「傍若無人(ぼうじゃくぶじん)」とは、他人のことなどまったく気にしないで騒いだり、遊んだりと勝手気ままに振る舞うこと。この元となった荊軻は、筑(弦楽器)の名人の友人とともに町中でお酒に酔って歌い、さらには大泣きするということがありました。この様子がまさに周りに誰もいないかのようだったとか。酔っていたとはいえ、もし、自分がこんなことをしたら恥ずかしくてたまりませんね……。
そのような故事を残した荊軻ですが、始皇帝暗殺へ出発する際には己の覚悟を別れの歌として表しました。前漢の司馬遷が編纂した歴史書『史記』でも荊軻の出発は名場面の一つとされています。
他国を次々と滅亡させ、初の中国統一王朝に
あわや暗殺の危機を乗り切った始皇帝。怒りのままに燕を滅ぼし、その次に名将を失って弱体化していた魏をも降伏させて滅亡に追いやります。そして、息をつく間もなく強国の楚と戦い、一度は惨敗するものの二年後には大軍をもって楚を滅ぼしました。七国で最後となった斉は無抵抗のまま降伏し滅亡。
紀元前221年、始皇帝はついに中国初の統一王朝を実現させたのでした。
2.戦争の次は内政!後世に続く始皇帝の政策とは?

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見事に他国を滅ぼし、春秋戦国時代を終わらせた秦と始皇帝。しかし、戦争の勝利がゴールではありません。せっかくもぎ取った平和と土地なのですから、次は国の内側に力を入れてしっかり維持していかなくてはいけませんよね。
けれど、国土は戦争前よりもずっと広大になっていますし、国民の数は言わずもがな。管理はたいへんなはずです。さて、始皇帝はこの問題にどう向き合ったのでしょうか?
天下にただ一人「皇帝」!「王」に代わる称号
「王」は国を治める人物が名乗る称号です。春秋戦国時代には、七国すべてに王様がいました。もちろん、中国を統一した始皇帝も「王」なのですが、中国を統一した特別な「王」です。だったら、春秋戦国時代に使っていた「王」よりももっと特別な称号があってもいいというもの。
そこで、始皇帝は家臣たちと新しい称号を考え、最終的に自ら「皇帝」の称号を発案しました。同時に、自らを「始皇帝」とし、次に続く皇帝たちを「二世皇帝」「三世皇帝」とするよう先に決めてしまいます。
さらに、学者たちの献言から皇帝の一人称を「朕」、皇帝の指示を「制」、布告を「令」とする皇帝専用の言葉を用いることにしました。
地方分権から中央集権制へ!「郡県制」の誕生
春秋戦国時代より以前の「周」の時代、周王は諸侯を任命して地方の統治させていました。王が主従関係にある人物に支配権を与えて土地を支配させるこの制度を「封建制」といいます。封建制度では地方の税金や政治も諸侯に任せっきりになり、地方が独立する状態の「地方分権」の体制になりました。しかし、こうした地方分権のもとで諸侯が力を持ち独立していったのが春秋戦国時代の原因の一端でもあります。
長い間封建制が続いていましたが、始皇帝はこれを廃止して「郡県制」を採用して新たな体制を試みました。まず、郡県制により国土を36の「群」に分け、そのなかで細かな「県」に区分します。県のなかをさらに「郷」、「里」と小さくしていき、そこに皇帝が任命した官吏を派遣して治めさせました。
始皇帝が任命した官吏たちは従来の諸侯と違って勝手なことはできません。「郡県制」により、始皇帝は中央に権力を集中させることができたのです。
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