古代で初めて中国を統一したのが秦の「始皇帝」です。「万里の長城」や「兵馬俑」が一緒に浮かんでくるワードです。実際、このふたつはユネスコの世界遺産に登録されている世界史的にも重要なものです。覚えていて損はないぞ。
ですが、古代の時代でどうやってあんなに大規模な建築ができたんでしょうな?今回は「始皇帝」について、彼の行った政策や建築、どんな人物だったのかを歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回は古代中国で最初の皇帝となった「始皇帝」について詳しくまとめた。

1.秦の躍進!始皇帝の富国強兵と外征

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当時の中国は「春秋戦国時代」の真っただ中であり、秦以外にも韓、魏、趙、楚、斉、燕の七つの国に分かれて戦っていました。

さて、この「春秋戦国時代」は紀元前770年ごろに周の滅亡にはじまります。周は諸侯に助けられて東周として再建されますが、周王に滅亡以前のような権力はありません。その結果、地方を支配していた有力な諸侯たちがそれぞれを王と称して独立、さらに下剋上がおこるようになり、最終的に秦、韓、魏、趙、楚、斉、燕の七国が残ったのです。

そうして、春秋戦国時代は紀元前221年までの約550年もの間続き、始皇帝の中国統一によってようやく戦乱の時代に幕を下ろしたのでした。

秦の始皇帝が「始皇帝」と名乗るのは中国統一後で、それまでは「秦王(嬴政・えいせい)」でした。けれど、両方を使うとごちゃごちゃしてしまうので、ここでは「始皇帝」で統一していきますね。

始皇帝の中国統一事業開始!まずは自国の強化

秦王に即位した当初の13歳の始皇帝が最初から立派に政治を行えたわけではありません。当初は家臣たちに政治を任せ、成人してからバリバリに辣腕を振るっていきます。

まずは戦乱の世を勝ち抜くために戦争…ではなく、農業を安定させるために「灌漑農業」を推し進めました。食料は国民を養うための大事なものですからね。

昔は水道なんてものはありませんから、水は雨が頼りです。けれど、「灌漑農業」で人工的な用水路や池を作れば、不確定な天気に作物の出来が左右されにくくなりますよね。そこで始皇帝は隣国韓出身の「鄭国(ていこく)」という水工技術者に大規模な用水路を作らせました。そうして十数年の歳月をかけ、秦の首都咸陽から東へ約120キロにも及ぶ灌漑水路「鄭国渠」が完成させたのです。鄭国渠ができたことにより、それまで農業ができなかった土地にも多くの食糧を得ることができるようになりました。

実はスパイだった!?秦の経済を潤した「鄭国」と「鄭国渠」

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「鄭国」は、実は隣国の韓から送り込まれたスパイでした。韓は秦の侵略を恐れ、秦を疲弊させるために大規模な工事を行わせて財政に大打撃を与えようとしたのです。

しかし、その考えはすぐに露見し、工事を指導した鄭国はスパイとして処刑されることに。鄭国はあわや処刑される寸前までいったのですが、そこで彼は「この大規模な水路は必ず秦のためになる」と言って処刑を免れました。

一か八かの大言壮語のようにも聞こえますが、鄭国が完成させた「鄭国渠」は見事に秦から凶作を失くし、秦の富国強兵に大きな貢献を果たしたのです。

中国統一戦争開始!しかし暗殺の危機が迫る

強力な軍事力を持っていた秦がさらに国内を潤し、紀元前236年に中国を統一すべく外征を開始しました。

秦は七国の西に位置し、始皇帝はまず東側の隣国・韓の首都を陥落させ、韓の君主・韓王安を捕虜にして韓を滅亡させます。次はその北の趙で、こちらは災害や干ばつにつけこんで侵略。さらに趙の重臣を買収して優秀な武将を誅殺させたことで簡単に滅亡においやりました。

こうして秦が快進撃を進めるなか、七国の最北の国「燕」から始皇帝に対して刺客が送り込まれます。燕の太子・丹は始皇帝に深い恨みを抱いており、なおかつ、燕は弱く秦に対抗できませんでしたから、始皇帝を暗殺する以外に道はなかったのです。

燕が放った刺客の名前は「荊軻(けいか)」。読書を好み、剣術に優れた文武両道の人物でした。

あと一歩だったのに!暗殺者「荊軻」の失敗

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不明 - Chinese wikipedia, パブリック・ドメイン, リンクによる

刺客に選ばれた荊軻は、用心深い始皇帝の懐まで近づくために燕の土地と秦からの逃亡者を差し出すよう提案しました。そして、頼もしい友人を供に赴こうとしたのですが、燕の太子・丹は「秦舞陽」という刺客を荊軻の助手にします。荊軻は仕方なく秦舞陽とともに出発し、計画通り土地と首を差し出したことでうまく始皇帝の前に出ることができたのです。

ところが、始皇帝の前までやってきて秦舞陽は震えあがってしまい、使い物になりません。そこで荊軻ひとりで始皇帝に襲い掛かることに。始皇帝の前では他の家臣たちは武器を持つことは許されませんでしたから、唯一剣を持っていた始皇帝以外はすぐに応戦できなかったのです。

しかし、逃げ惑う始皇帝を殺害することはできず、逆に始皇帝自身に切り殺されてしまいました。

もし、荊軻の相棒が秦舞陽でなく荊軻の友人であったなら、始皇帝を前に震え上がることなく暗殺に成功していたかもしれませんね。

\次のページで「他国を次々と滅亡させ、初の中国統一王朝に」を解説!/

「傍若無人」ってどんな人のこと?

「傍若無人(ぼうじゃくぶじん)」とは、他人のことなどまったく気にしないで騒いだり、遊んだりと勝手気ままに振る舞うこと。この元となった荊軻は、筑(弦楽器)の名人の友人とともに町中でお酒に酔って歌い、さらには大泣きするということがありました。この様子がまさに周りに誰もいないかのようだったとか。酔っていたとはいえ、もし、自分がこんなことをしたら恥ずかしくてたまりませんね……。

そのような故事を残した荊軻ですが、始皇帝暗殺へ出発する際には己の覚悟を別れの歌として表しました。前漢の司馬遷が編纂した歴史書『史記』でも荊軻の出発は名場面の一つとされています。

他国を次々と滅亡させ、初の中国統一王朝に

あわや暗殺の危機を乗り切った始皇帝。怒りのままに燕を滅ぼし、その次に名将を失って弱体化していた魏をも降伏させて滅亡に追いやります。そして、息をつく間もなく強国の楚と戦い、一度は惨敗するものの二年後には大軍をもって楚を滅ぼしました。七国で最後となった斉は無抵抗のまま降伏し滅亡。

紀元前221年、始皇帝はついに中国初の統一王朝を実現させたのでした。

2.戦争の次は内政!後世に続く始皇帝の政策とは?

秦の位置
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見事に他国を滅ぼし、春秋戦国時代を終わらせた秦と始皇帝。しかし、戦争の勝利がゴールではありません。せっかくもぎ取った平和と土地なのですから、次は国の内側に力を入れてしっかり維持していかなくてはいけませんよね。

けれど、国土は戦争前よりもずっと広大になっていますし、国民の数は言わずもがな。管理はたいへんなはずです。さて、始皇帝はこの問題にどう向き合ったのでしょうか?

天下にただ一人「皇帝」!「王」に代わる称号

「王」は国を治める人物が名乗る称号です。春秋戦国時代には、七国すべてに王様がいました。もちろん、中国を統一した始皇帝も「王」なのですが、中国を統一した特別な「王」です。だったら、春秋戦国時代に使っていた「王」よりももっと特別な称号があってもいいというもの。

そこで、始皇帝は家臣たちと新しい称号を考え、最終的に自ら「皇帝」の称号を発案しました。同時に、自らを「始皇帝」とし、次に続く皇帝たちを「二世皇帝」「三世皇帝」とするよう先に決めてしまいます。

さらに、学者たちの献言から皇帝の一人称を「朕」、皇帝の指示を「制」、布告を「令」とする皇帝専用の言葉を用いることにしました。

地方分権から中央集権制へ!「郡県制」の誕生

春秋戦国時代より以前の「周」の時代、周王は諸侯を任命して地方の統治させていました。王が主従関係にある人物に支配権を与えて土地を支配させるこの制度を「封建制」といいます。封建制度では地方の税金や政治も諸侯に任せっきりになり、地方が独立する状態の「地方分権」の体制になりました。しかし、こうした地方分権のもとで諸侯が力を持ち独立していったのが春秋戦国時代の原因の一端でもあります。

長い間封建制が続いていましたが、始皇帝はこれを廃止して「郡県制」を採用して新たな体制を試みました。まず、郡県制により国土を36の「群」に分け、そのなかで細かな「県」に区分します。県のなかをさらに「郷」、「里」と小さくしていき、そこに皇帝が任命した官吏を派遣して治めさせました。

始皇帝が任命した官吏たちは従来の諸侯と違って勝手なことはできません。「郡県制」により、始皇帝は中央に権力を集中させることができたのです。

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七つの国を一つにした問題?お金や単位はどうする?

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Symane - 投稿者自身による著作物, パブリック・ドメイン, リンクによる

もともと七つだった国が一つになった秦。しかし、国が七つもあればそれぞれで使われていたお金や重さ・長さの単位は違うもの。お金だけでも布貨、刀貨、円貨など違ったものが使われていました。

けれど、日本でアメリカのドルが使えないように、別の土地で違う貨幣で買い物はできません。そこで始皇帝は中国最初の統一通貨「半両銭」を制定しました。そして、長さの単位(度)を決め、量を測る「ます」、重さをはかる「はかり」の標準器を分配。公式で使われる書体には「小篆」を採用して、人々が生活で必要なものを次々と統一していったのです。

良いこと?悪いこと?始皇帝の「焚書坑儒」

始皇帝が行った政策のひとつに「焚書坑儒」というものがあります。簡単に言ってしまうと、始皇帝に批判的な儒家への迫害でした。

儒家は、孔子を祖とする思考や信仰「儒教」を奉じる人のこと。儒教は人間愛の「仁」と社会秩序の「礼」を基本理念とした中国固有の宗教、そして学問でもあります。日本にも古くから伝わっていて、江戸時代には学問の中心となっているんですよ。

しかし、始皇帝の腹心だった李斯(りし)は法家であり、法家は儒家の思想では国家を治めることは難しいという考えでした。そうして、李斯の進言により儒家の書物を禁書として焼く「焚書」が行われ、それに抵抗した儒家を生き埋めにする「坑儒」が行われたのです。

こうした「焚書坑儒」によって秦の思想の統制をおこなったとされます。

世界遺産の巨大建築「万里の長城」「兵馬俑」

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始皇帝と言えば最初に出てくるのが「万里の長城」や「兵馬俑」などの巨大な建築でしょう。

現在も観光地として人気の「万里の長城」は秦が北の騎馬民族「匈奴」の南下対策として建設されました。万里の長城は秦の滅亡後もその後の国々によって延長され続け、公式の発表では全長21,196キロもあるとか。ただ、現存している部分は始皇帝の時代のものではなく、明の時代のものがほとんどだそうです。

そして、もうひとつの「兵馬俑」は始皇帝のお墓として造られました。始皇帝が死後も生前と同じように生活できるように家臣を模した人形や副葬品がたくさん集められたのです。しかし、兵馬俑は秦の滅亡後に荒らされてしまったことから、長い間伝説の存在でした。実在するとわかったのは1974年のこと。井戸を掘っていた農民が偶然発見し、伝説は本当だったと世界中に驚きのニュースが届いたのでした。

水銀で不老不死に?真人や仙人を求めるも……

中国統一にはじまり、皇帝としてさまざまな政治を行った始皇帝ですが、どんな偉業を成し遂げてもやはり人間は最後には死んでしまうもの。どうしようもないことですが、始皇帝は死さえ克服してしまおうと考えました。そうして、真人や仙人から不老不死の薬を譲り受けようと国中を探させます……が、見つかりません。

そこで始皇帝は道教で不老不死の薬とされる「丹薬」を飲むことにしました。しかし、この「丹薬」とは「水銀」だったのです。現代では、水銀は毒で、飲むと中毒を起こして死んでしまうとわかっていますが、当時は薬として信じられていました。

不老不死の薬として水銀を服用し続けた始皇帝は、50歳で亡くなってしまうのです。

中国を統一した初めてづくしの皇帝「始皇帝」

初めて中国を統一し、初めて「皇帝」となり、初めて万里の長城を造り……と、初めてづくしの皇帝となった「始皇帝」。統一後も手を抜くことなく内政に力を入れ、中央集権化を推し進め、貨幣やはかりの全国統一など抜かりありません。さらには万里の長城や兵馬俑など史跡があり、その偉業は目に見える形で現代へと残されているのでした。

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世界史中国史

5分で簡単にわかる「始皇帝」!世界史初の中国統一!?法を重視する大帝国の皇帝はどんな人物?歴史オタクがわかりやすく解説

古代で初めて中国を統一したのが秦の「始皇帝」です。「万里の長城」や「兵馬俑」が一緒に浮かんでくるワードです。実際、このふたつはユネスコの世界遺産に登録されている世界史的にも重要なものです。覚えていて損はないぞ。
ですが、古代の時代でどうやってあんなに大規模な建築ができたんでしょうな?今回は「始皇帝」について、彼の行った政策や建築、どんな人物だったのかを歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回は古代中国で最初の皇帝となった「始皇帝」について詳しくまとめた。

1.秦の躍進!始皇帝の富国強兵と外征

image by PIXTA / 25085040

当時の中国は「春秋戦国時代」の真っただ中であり、秦以外にも韓、魏、趙、楚、斉、燕の七つの国に分かれて戦っていました。

さて、この「春秋戦国時代」は紀元前770年ごろに周の滅亡にはじまります。周は諸侯に助けられて東周として再建されますが、周王に滅亡以前のような権力はありません。その結果、地方を支配していた有力な諸侯たちがそれぞれを王と称して独立、さらに下剋上がおこるようになり、最終的に秦、韓、魏、趙、楚、斉、燕の七国が残ったのです。

そうして、春秋戦国時代は紀元前221年までの約550年もの間続き、始皇帝の中国統一によってようやく戦乱の時代に幕を下ろしたのでした。

秦の始皇帝が「始皇帝」と名乗るのは中国統一後で、それまでは「秦王(嬴政・えいせい)」でした。けれど、両方を使うとごちゃごちゃしてしまうので、ここでは「始皇帝」で統一していきますね。

始皇帝の中国統一事業開始!まずは自国の強化

秦王に即位した当初の13歳の始皇帝が最初から立派に政治を行えたわけではありません。当初は家臣たちに政治を任せ、成人してからバリバリに辣腕を振るっていきます。

まずは戦乱の世を勝ち抜くために戦争…ではなく、農業を安定させるために「灌漑農業」を推し進めました。食料は国民を養うための大事なものですからね。

昔は水道なんてものはありませんから、水は雨が頼りです。けれど、「灌漑農業」で人工的な用水路や池を作れば、不確定な天気に作物の出来が左右されにくくなりますよね。そこで始皇帝は隣国韓出身の「鄭国(ていこく)」という水工技術者に大規模な用水路を作らせました。そうして十数年の歳月をかけ、秦の首都咸陽から東へ約120キロにも及ぶ灌漑水路「鄭国渠」が完成させたのです。鄭国渠ができたことにより、それまで農業ができなかった土地にも多くの食糧を得ることができるようになりました。

実はスパイだった!?秦の経済を潤した「鄭国」と「鄭国渠」

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「鄭国」は、実は隣国の韓から送り込まれたスパイでした。韓は秦の侵略を恐れ、秦を疲弊させるために大規模な工事を行わせて財政に大打撃を与えようとしたのです。

しかし、その考えはすぐに露見し、工事を指導した鄭国はスパイとして処刑されることに。鄭国はあわや処刑される寸前までいったのですが、そこで彼は「この大規模な水路は必ず秦のためになる」と言って処刑を免れました。

一か八かの大言壮語のようにも聞こえますが、鄭国が完成させた「鄭国渠」は見事に秦から凶作を失くし、秦の富国強兵に大きな貢献を果たしたのです。

中国統一戦争開始!しかし暗殺の危機が迫る

強力な軍事力を持っていた秦がさらに国内を潤し、紀元前236年に中国を統一すべく外征を開始しました。

秦は七国の西に位置し、始皇帝はまず東側の隣国・韓の首都を陥落させ、韓の君主・韓王安を捕虜にして韓を滅亡させます。次はその北の趙で、こちらは災害や干ばつにつけこんで侵略。さらに趙の重臣を買収して優秀な武将を誅殺させたことで簡単に滅亡においやりました。

こうして秦が快進撃を進めるなか、七国の最北の国「燕」から始皇帝に対して刺客が送り込まれます。燕の太子・丹は始皇帝に深い恨みを抱いており、なおかつ、燕は弱く秦に対抗できませんでしたから、始皇帝を暗殺する以外に道はなかったのです。

燕が放った刺客の名前は「荊軻(けいか)」。読書を好み、剣術に優れた文武両道の人物でした。

あと一歩だったのに!暗殺者「荊軻」の失敗

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不明 – Chinese wikipedia, パブリック・ドメイン, リンクによる

刺客に選ばれた荊軻は、用心深い始皇帝の懐まで近づくために燕の土地と秦からの逃亡者を差し出すよう提案しました。そして、頼もしい友人を供に赴こうとしたのですが、燕の太子・丹は「秦舞陽」という刺客を荊軻の助手にします。荊軻は仕方なく秦舞陽とともに出発し、計画通り土地と首を差し出したことでうまく始皇帝の前に出ることができたのです。

ところが、始皇帝の前までやってきて秦舞陽は震えあがってしまい、使い物になりません。そこで荊軻ひとりで始皇帝に襲い掛かることに。始皇帝の前では他の家臣たちは武器を持つことは許されませんでしたから、唯一剣を持っていた始皇帝以外はすぐに応戦できなかったのです。

しかし、逃げ惑う始皇帝を殺害することはできず、逆に始皇帝自身に切り殺されてしまいました。

もし、荊軻の相棒が秦舞陽でなく荊軻の友人であったなら、始皇帝を前に震え上がることなく暗殺に成功していたかもしれませんね。

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