世界史中国史

5分で簡単にわかる「始皇帝」!世界史初の中国統一!?法を重視する大帝国の皇帝はどんな人物?歴史オタクがわかりやすく解説

古代で初めて中国を統一したのが秦の「始皇帝」です。「万里の長城」や「兵馬俑」が一緒に浮かんでくるワードです。実際、このふたつはユネスコの世界遺産に登録されている世界史的にも重要なものです。覚えていて損はないぞ。
ですが、古代の時代でどうやってあんなに大規模な建築ができたんでしょうな?今回は「始皇帝」について、彼の行った政策や建築、どんな人物だったのかを歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。歴史のなかでも特に古代の国家や文明に大きな関心を持つ。今回は古代中国で最初の皇帝となった「始皇帝」について詳しくまとめた。

1.秦の躍進!始皇帝の富国強兵と外征

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当時の中国は「春秋戦国時代」の真っただ中であり、秦以外にも韓、魏、趙、楚、斉、燕の七つの国に分かれて戦っていました。

さて、この「春秋戦国時代」は紀元前770年ごろに周の滅亡にはじまります。周は諸侯に助けられて東周として再建されますが、周王に滅亡以前のような権力はありません。その結果、地方を支配していた有力な諸侯たちがそれぞれを王と称して独立、さらに下剋上がおこるようになり、最終的に秦、韓、魏、趙、楚、斉、燕の七国が残ったのです。

そうして、春秋戦国時代は紀元前221年までの約550年もの間続き、始皇帝の中国統一によってようやく戦乱の時代に幕を下ろしたのでした。

秦の始皇帝が「始皇帝」と名乗るのは中国統一後で、それまでは「秦王(嬴政・えいせい)」でした。けれど、両方を使うとごちゃごちゃしてしまうので、ここでは「始皇帝」で統一していきますね。

始皇帝の中国統一事業開始!まずは自国の強化

秦王に即位した当初の13歳の始皇帝が最初から立派に政治を行えたわけではありません。当初は家臣たちに政治を任せ、成人してからバリバリに辣腕を振るっていきます。

まずは戦乱の世を勝ち抜くために戦争…ではなく、農業を安定させるために「灌漑農業」を推し進めました。食料は国民を養うための大事なものですからね。

昔は水道なんてものはありませんから、水は雨が頼りです。けれど、「灌漑農業」で人工的な用水路や池を作れば、不確定な天気に作物の出来が左右されにくくなりますよね。そこで始皇帝は隣国韓出身の「鄭国(ていこく)」という水工技術者に大規模な用水路を作らせました。そうして十数年の歳月をかけ、秦の首都咸陽から東へ約120キロにも及ぶ灌漑水路「鄭国渠」が完成させたのです。鄭国渠ができたことにより、それまで農業ができなかった土地にも多くの食糧を得ることができるようになりました。

実はスパイだった!?秦の経済を潤した「鄭国」と「鄭国渠」

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「鄭国」は、実は隣国の韓から送り込まれたスパイでした。韓は秦の侵略を恐れ、秦を疲弊させるために大規模な工事を行わせて財政に大打撃を与えようとしたのです。

しかし、その考えはすぐに露見し、工事を指導した鄭国はスパイとして処刑されることに。鄭国はあわや処刑される寸前までいったのですが、そこで彼は「この大規模な水路は必ず秦のためになる」と言って処刑を免れました。

一か八かの大言壮語のようにも聞こえますが、鄭国が完成させた「鄭国渠」は見事に秦から凶作を失くし、秦の富国強兵に大きな貢献を果たしたのです。

中国統一戦争開始!しかし暗殺の危機が迫る

強力な軍事力を持っていた秦がさらに国内を潤し、紀元前236年に中国を統一すべく外征を開始しました。

秦は七国の西に位置し、始皇帝はまず東側の隣国・韓の首都を陥落させ、韓の君主・韓王安を捕虜にして韓を滅亡させます。次はその北の趙で、こちらは災害や干ばつにつけこんで侵略。さらに趙の重臣を買収して優秀な武将を誅殺させたことで簡単に滅亡においやりました。

こうして秦が快進撃を進めるなか、七国の最北の国「燕」から始皇帝に対して刺客が送り込まれます。燕の太子・丹は始皇帝に深い恨みを抱いており、なおかつ、燕は弱く秦に対抗できませんでしたから、始皇帝を暗殺する以外に道はなかったのです。

燕が放った刺客の名前は「荊軻(けいか)」。読書を好み、剣術に優れた文武両道の人物でした。

あと一歩だったのに!暗殺者「荊軻」の失敗

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不明 – Chinese wikipedia, パブリック・ドメイン, リンクによる

刺客に選ばれた荊軻は、用心深い始皇帝の懐まで近づくために燕の土地と秦からの逃亡者を差し出すよう提案しました。そして、頼もしい友人を供に赴こうとしたのですが、燕の太子・丹は「秦舞陽」という刺客を荊軻の助手にします。荊軻は仕方なく秦舞陽とともに出発し、計画通り土地と首を差し出したことでうまく始皇帝の前に出ることができたのです。

ところが、始皇帝の前までやってきて秦舞陽は震えあがってしまい、使い物になりません。そこで荊軻ひとりで始皇帝に襲い掛かることに。始皇帝の前では他の家臣たちは武器を持つことは許されませんでしたから、唯一剣を持っていた始皇帝以外はすぐに応戦できなかったのです。

しかし、逃げ惑う始皇帝を殺害することはできず、逆に始皇帝自身に切り殺されてしまいました。

もし、荊軻の相棒が秦舞陽でなく荊軻の友人であったなら、始皇帝を前に震え上がることなく暗殺に成功していたかもしれませんね。

\次のページで「他国を次々と滅亡させ、初の中国統一王朝に」を解説!/

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