現代社会

美濃部達吉が提唱した天皇機関説とは?その内容や美濃部が巻き込まれた2つの事件などを歴史好きライターが簡単にわかりやすく解説

今回は、美濃部達吉について学んでいこう。

美濃部といえば天皇機関説が有名です。美濃部が発表した直後は天皇機関説が有力な学説となったが、ある日を境に美濃部は非難の的となる。なぜそんなことになってしまったのでしょうか。

天皇機関説の詳しい内容や美濃部達吉が巻き込まれた2つの事件などについて、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

美濃部達吉が天皇機関説を発表するまで

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まずは美濃部が天皇機関説を発表する前を振り返ってみましょう。

東大から内務省を経て憲法学者に

美濃部達吉(みのべたつきち)は1873(明治6)年に現在の兵庫県高砂市で生まれました。第一高等中学校から東京帝国大学法科大学政治学科へ進み憲法学者の一木喜徳郎に師事します一木は天皇機関説を唱えていた人物でした。つまり、美濃部が天皇機関説を生み出したわけではなかったのです。

美濃部は東大を卒業すると、内務省に勤務します。しかし、間もなくヨーロッパに留学すると帰国後は東大で教鞭を執るようになりました。1900(明治33)年に東大助教授となり、2年後には教授となったのです。1911(明治44)年には帝国学士院会員に任命されました

大正デモクラシー

美濃部達吉が東大で教鞭を執っていた頃大正デモクラシーの機運が高まります。そのきっかけとなった1つの出来事が、第3次桂太郎内閣の成立です。当時は桂園時代と呼ばれ、桂太郎と西園寺公望が交互に政権を担当していました。しかし、桂による3度目の組閣に世論から批判が集まりました

第3次桂内閣の成立を、世論は藩閥の横暴とみなすようになります。すると、政党勢力を中心に第一次護憲運動が起こり第3次桂内閣は総辞職に追い込まれました。大正デモクラシーの高揚は、第二次護憲運動などにも及ぶことになります。それらを後押ししたのが美濃部達吉による天皇機関説だったのです

美濃部達吉が発表した天皇機関説とは

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では、美濃部達吉が発表した天皇機関説とはどのようなものだったのでしょうか。発表した当時の様子とともに見ていくことにしましょう。

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