今回は、軍部大臣現役武官制について学んでいこう。

昭和初期に日本が軍国主義化した原因の1つが、軍部大臣現役武官制の悪用といえる。なぜそのような事態を招いてしまったのでしょうか。

軍部大臣現役武官制の変遷や問題となった点などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

軍部大臣現役武官制の成立

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まずは軍部大臣現役武官制が作られた経緯を見ていくことにしましょう。

軍部大臣現役武官制が成立する前

明治維新によって、日本は幕藩体制から近代的な天皇制の統一国家へと変革します。明治政府が樹立したことで征夷大将軍は廃止され朝廷が組織していた省に権威が戻りました。その中の1つが兵部省でした。兵部省は明治時代になってから設立されたもので日本の防衛や治安維持を司ったものです

1871(明治4)年の兵部省職員令では兵部卿の資格を本官少将以上に限定しました。兵部卿とは、現代でいえば防衛大臣にあたる役職です。つまり、その法令により大臣クラスの役職に現役軍人だけが就任できるものとなりました。しかし、その後は必ずしも軍人が就任していたわけではありませんでした。

第2次山縣有朋内閣による成立

1898(明治31)年に成立した第2次山縣有朋内閣では2つの大きな人事の制度改革を実行しました。1つは文官任用令。簡単にいえば、公務員となれる資格を厳しくして人事登用に人脈やコネが介入することを防いだものです。もう1つが軍部大臣現役武官制でした

軍部大臣現役武官制とは陸軍大臣または海軍大臣になれる者を現役の大将か中将だけに限定したものです1900(明治33)年に第2次山縣内閣が陸海軍省官制を改正する形で成立させました当時の勢力を広げつつあった議会や政党の力が軍にまで及ぶことを防止するためのものでした

一度は廃止された軍部大臣現役武官制

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1900年に成立した軍部大臣現役武官制は、十数年後に廃止されます。いったい何があったのでしょうか。

第1次山本権兵衛内閣が改正

1912(大正元)年に、第2次西園寺公望内閣総辞職の後を受けて、第3次桂太郎内閣が成立します。しかし、内閣成立が陸軍や藩閥の横暴とみなされそれがきっかけとなって第一次護憲運動が起きました。第3次桂内閣がわずか2カ月ほどで倒れる大正政変が発生。その後継として第1次山本権兵衛内閣が成立しました。

1913(大正2)第1次山本権兵衛内閣は陸軍省官制と海軍省官制を改正軍部大臣になれる者を現役武官のみとする旨の規定を削除しました。それにより、退役した元軍人なども就任できるようになります。しかし、実際には予備役などから軍部大臣を任命した例はありませんでした。

鰻香内閣

1914(大正3)シーメンス事件が原因で第1次山本権兵衛内閣が総辞職その後継候補として元老から指名されたのが、内務大臣や司法大臣などを務めていた清浦奎吾でした。清浦は政党からの協力は得られませんでしたが、貴族院や官僚の出身者を中心に人事を固めていきます。

ところが、清浦は海軍と対立したため海軍大臣の推薦を受けられなくなりました軍部大臣現役武官制は改正されていましたが清浦は改正に反対していたため組閣を断念したのです。のちに清浦が「うなぎ屋の前を通っているようなもので匂いはしてもうなぎが来ない」といった談話を残し、清浦による幻の内閣は「鰻香内閣」と呼ばれるようになります。

\次のページで「軍部大臣現役武官制の復活」を解説!/

軍部大臣現役武官制の復活

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1913年に廃止された軍部大臣現役武官制は、20年以上たった後に復活します。なぜそのようなことが起きたのでしょうか。

二・二六事件の発生

陸軍の内部では昭和初期より内部対立が顕著なものとなっていました軍の規律を重んじる統制派と天皇親政の下で国家改造を目指した皇道派に分裂していたのです。統制派による皇道派の排除は進められ、皇道派が多く所属する師団の満州派遣が決まると、皇道派の不満が一気に噴出しました。

1936(昭和11)年2月に皇道派の青年将校ら約1500人が決起首相官邸や警視庁などを占拠して岡田啓介総理大臣や鈴木貫太郎侍従長らを襲撃しました。岡田総理は無事でしたが、高橋是清元総理や斎藤実元総理などが死亡。二・二六事件は思想家の北一輝らも含む多くの逮捕者を出す大事件となりました

廣田弘毅内閣による軍部大臣現役武官制の復活

二・二六事件で岡田啓介内閣が総辞職すると外交官出身の廣田弘毅が組閣を命じられます。しかし、軍部の抵抗にあったため組閣作業は難航しました。特に陸軍は何人かの入閣に反対して、組閣に直接干渉したのです。そのため、廣田は陸軍の意向に沿う形で組閣するしかありませんでした。

さらに軍部は廣田に対して軍部大臣現役武官制を復活させるよう要求しました。統制派は皇道派の台頭を恐れて、陸軍大臣に皇道派が就任しないようにする狙いがあったのです。二・二六事件の再来を恐れた廣田は陸軍の要求を受け入れて1936(昭和11)年に軍部大臣現役武官制を復活させました

軍部大臣現役武官制が悪用された実例

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では、軍部大臣現役武官制はどのように悪用されたのでしょうか。

\次のページで「二個師団増設問題」を解説!/

二個師団増設問題

日露戦争終結後の日本は財政難に陥ります。にもかかわらず、当時の陸軍は二個師団の増設を希望していました。1910(明治43)年の日韓併合で朝鮮半島に部隊を常設する必要性を感じていたのと、中国やロシアの脅威に備えたかったからです。陸軍出身の上原勇作陸軍大臣は陸軍とともに二個師団増設を要求しました

当時の政府である第2次西園寺公望内閣は、財政難や世論の反対などを理由に陸軍の要求を拒否します。それを受けて、上原は大正天皇に直接陸軍大臣を辞任する意向を示しました。さらに、陸軍は陸軍大臣の後任候補を選任することを拒否。組閣できなくなった第2次西園寺公望内閣は総辞職に追い込まれました

陸軍が宇垣一成内閣成立を阻止

1937(昭和12)年に廣田弘毅内閣が閣内の対立が原因で総辞職その後継として指名されたのが元陸軍大臣の宇垣一成でした。宇垣は陸軍出身でしたが、陸軍大臣時代に宇垣軍縮と呼ばれる陸軍の人員整理を断行していました。宇垣の総理就任に陸軍が異議を唱えたのは想像できるでしょう。

宇垣が組閣を試みましたが陸軍は陸軍大臣の候補を1人も出さないことで対抗しました。そうなったことで宇垣は後に総理となる小磯国昭の起用や総理と陸軍大臣の兼任などを検討。しかし、どれもうまくいかず、宇垣は組閣を断念しました廣田の後任となったのは予備役陸軍大将の林銑十郎でした

米内光政内閣の崩壊

1940(昭和15)海軍大将だった米内光政が総理大臣となりました。その人事に陸軍側は反対しますが、一度は内閣に協力します。しかし、次第に陸軍は米内内閣に反発するようになりました。米内がリベラルで親英米派という政治姿勢だったためです。

当時の陸軍はドイツやイタリアに協力すべきという意見を持っていました。そこで陸軍は、畑俊六陸軍大臣が単独辞任するよう仕向けます。陸軍大臣が不在となった米内内閣は陸軍大臣の後任候補を出してもらえずに総辞職へ追い込まれました。その後の日本は日独伊三国同盟を結び、第二次世界大戦へと進んだのです。

戦後の日本における武官制度

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太平洋戦争後の日本において、武官制度はどのように変化したのでしょうか。自衛隊との関係などと一緒に見てみましょう。

日本軍の解体

廣田弘毅内閣で軍部大臣現役武官制を復活させた陸軍は戦争への道を突き進むようになります。日中戦争で中国と、太平洋戦争でアメリカなどと交戦しました。しかし、日本は敗れてポツダム宣言を受諾。連合国最高司令官総司令部(GHQ)が東京に設置されました。

ポツダム宣言に従い日本軍の武装解除が進められます陸軍省は第一復員省に海軍省は第二復員省へ改組されました担当大臣も第一復員大臣と第二復員大臣に改称されています。やがて2つの省は復員庁として統合され、1947(昭和22)年には復員庁も役目を終えて廃止されたのです。

自衛隊の創設

1950(昭和25)年に朝鮮戦争が勃発すると、駐留米軍が朝鮮半島に出動したため日本の防衛力が一時的に低下する事態となります。そこで、GHQのマッカーサー元帥は吉田茂総理大臣に対して書簡を送付日本国憲法により軍隊を持てなくなった代わりとして警察予備隊を創設させました

警察予備隊は保安隊となった後1954(昭和29)年に自衛隊へと変わります警察予備隊を管轄していた保安庁も防衛庁へと名を変えました。さらに、その年から航空自衛隊が新たに創設され、陸海空の防衛機関が揃います。憲法9条への自衛隊明記などの問題はありますが、現在も自衛隊が日本の防衛を担当していることに変わりありません。

防衛省と防衛大臣の創設

防衛庁を防衛省に格上げすべきという議論は長らくされていました。「聖域なき構造改革」を掲げていた小泉純一郎内閣の時代に議論が本格化するようになります。そして、小泉内閣の後に成立した第1次安倍晋三内閣により防衛庁から防衛省への昇格が実現したのです

2006(平成18)年に防衛庁設置法等の一部を改正する法律が衆参両院で可決され翌2007(平成19)年に改正法が施行防衛庁は防衛省に防衛庁長官は防衛大臣になりました。省に昇格したことで、自衛隊員の士気向上につながっただけでなく、財務大臣への予算要求が防衛大臣の名において行えるようになりました。

軍部大臣現役武官制が悪用されたことで陸軍の暴走を許した

軍部大臣現役武官制は政党の力が軍にまで及ぶことを危惧して作られました。しかし、軍部がその制度を悪用した結果、軍の意向のままに内閣の人事を掌握することとなったのです。軍部が政治に介入した結果、日本は軍国主義化して日中戦争や太平洋戦争を引き起こしました。現在の日本に軍はなく、自衛隊が日本の防衛を担当していますが、軍部大臣現役武官制が悪用された歴史を忘れてはなりません。

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現代社会

なぜ「軍部大臣現役武官制」は悪用された?制度の変遷や問題点などを歴史好きライターがわかりやすく解説

今回は、軍部大臣現役武官制について学んでいこう。

昭和初期に日本が軍国主義化した原因の1つが、軍部大臣現役武官制の悪用といえる。なぜそのような事態を招いてしまったのでしょうか。

軍部大臣現役武官制の変遷や問題となった点などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

軍部大臣現役武官制の成立

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まずは軍部大臣現役武官制が作られた経緯を見ていくことにしましょう。

軍部大臣現役武官制が成立する前

明治維新によって、日本は幕藩体制から近代的な天皇制の統一国家へと変革します。明治政府が樹立したことで征夷大将軍は廃止され朝廷が組織していた省に権威が戻りました。その中の1つが兵部省でした。兵部省は明治時代になってから設立されたもので日本の防衛や治安維持を司ったものです

1871(明治4)年の兵部省職員令では兵部卿の資格を本官少将以上に限定しました。兵部卿とは、現代でいえば防衛大臣にあたる役職です。つまり、その法令により大臣クラスの役職に現役軍人だけが就任できるものとなりました。しかし、その後は必ずしも軍人が就任していたわけではありませんでした。

第2次山縣有朋内閣による成立

1898(明治31)年に成立した第2次山縣有朋内閣では2つの大きな人事の制度改革を実行しました。1つは文官任用令。簡単にいえば、公務員となれる資格を厳しくして人事登用に人脈やコネが介入することを防いだものです。もう1つが軍部大臣現役武官制でした

軍部大臣現役武官制とは陸軍大臣または海軍大臣になれる者を現役の大将か中将だけに限定したものです1900(明治33)年に第2次山縣内閣が陸海軍省官制を改正する形で成立させました当時の勢力を広げつつあった議会や政党の力が軍にまで及ぶことを防止するためのものでした

一度は廃止された軍部大臣現役武官制

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1900年に成立した軍部大臣現役武官制は、十数年後に廃止されます。いったい何があったのでしょうか。

第1次山本権兵衛内閣が改正

1912(大正元)年に、第2次西園寺公望内閣総辞職の後を受けて、第3次桂太郎内閣が成立します。しかし、内閣成立が陸軍や藩閥の横暴とみなされそれがきっかけとなって第一次護憲運動が起きました。第3次桂内閣がわずか2カ月ほどで倒れる大正政変が発生。その後継として第1次山本権兵衛内閣が成立しました。

1913(大正2)第1次山本権兵衛内閣は陸軍省官制と海軍省官制を改正軍部大臣になれる者を現役武官のみとする旨の規定を削除しました。それにより、退役した元軍人なども就任できるようになります。しかし、実際には予備役などから軍部大臣を任命した例はありませんでした。

鰻香内閣

1914(大正3)シーメンス事件が原因で第1次山本権兵衛内閣が総辞職その後継候補として元老から指名されたのが、内務大臣や司法大臣などを務めていた清浦奎吾でした。清浦は政党からの協力は得られませんでしたが、貴族院や官僚の出身者を中心に人事を固めていきます。

ところが、清浦は海軍と対立したため海軍大臣の推薦を受けられなくなりました軍部大臣現役武官制は改正されていましたが清浦は改正に反対していたため組閣を断念したのです。のちに清浦が「うなぎ屋の前を通っているようなもので匂いはしてもうなぎが来ない」といった談話を残し、清浦による幻の内閣は「鰻香内閣」と呼ばれるようになります。

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