連歌とは、五・七・五の17文字の長句(上句)と七・七の14文字の短句(下句)を交互に連ねて詠む合作文芸のことを指す。連歌が生まれた当初は、上句と下句を二人で詠む短連歌、いわゆる一句連歌が主流だった。

万葉集にその例が残されているが、その後どういうふうに発展したのでしょうか。日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史と文化を専門とする元大学教員。平安時代にも興味があり、気になることがあったら調べてみる。今回は、共同制作が面白いと話題になっている連歌についてまとめてみた。

連歌とはどのような創作物?

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短連歌は平安中期ごろから知的な遊びとして盛んになりました。鎌倉時代以降になると、長句(五・七・五)と短句(七・七)を交互に鎖のように続けてゆく鎖連歌が盛んになります。その結果、短連歌は衰退しました。

連歌は短歌を繋いだもの

平安時代までの文学の担い手は貴族でした。鎌倉時代から室町時代にかけて貴族の権力は衰退。それでもやはり文学の担い手は貴族でした。そのため、長歌(ちょうか)・短歌(たんか)などの定型の詩歌である和歌は栄えていました。

和歌は漢詩に対して倭歌(やまとうた)とも呼ばれていました。長歌の別名は「ながうた」。五・七の句を三句以上繰り返して最後に七・七の句を添えるものです。短歌は五・七・五・七・七の五句31文字からなる形でした。

私たち現代人が和歌と呼んでいるのは倭歌の短歌のこと。「倭歌として詠まれた短歌」は、いわゆる短歌とは歴史が異なります。倭歌の起源は奈良時代。平安時代よりあとは、倭歌のなかの長歌と旋頭歌はほとんど詠まれなくなりました。それに対して短歌は和歌の主流として詠まれ続けてきました。

和歌の元になった倭歌

和歌と同義語で、漢詩に対して日本的な五七調の歌全般をいいます。万葉集にすでに連歌という言葉が見られました。連歌の起源はそれだけ古いものです。倭歌はいつしか「和歌」と呼ばれるようになり、五・七・五・七・七の歌を指すようになりました。

連歌の形式が固まってくるのは平安時代の中ごろ。貴族の知的な遊びとして連歌が流行るようになりました。貴族たちは、上の句(五・七・五)と下の句(七・七)を分けて、二人で歌を贈答するようになったのです。これはいわば余興のようなもの。これが連歌の始まりです。

連歌が生まれた歴史的な背景

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記録に残っている最古の連歌は万葉集の八巻にある1635の歌。大伴家持(おおとものやかもち)と尼の贈答スタイルの短歌です。「佐保河の水をせきあげて植ゑし田を」を尼が作り、それに繋げるかたちで大伴家持が「刈れる早飯(わさいひ)はひとりなるべし」を詠みました。

鎌倉時代の連歌

万葉集に残されているとはいえ、平安時代まではこのように二人で贈答する連歌のスタイルは本流になりませんでした。ところが鎌倉時代になると長連歌(鎖連歌)が生れて大流行しました。五・七・五(発句)に、七・七(付句)、さらに五・七・五(脇句)を続けていくものです。

これを百句続けることが百韻連歌(ひゃくいんれんが)。それができると縁起が良いとされました。縁起物とされることで余計にたくさんの人の興味を惹きつけたのでしょう。長連歌のスタイルは江戸時代までの連歌の基本の形となりました。

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戦国時代の連歌

室町時代になると天下は乱れ、世は戦国時代と呼ばれるようになりました。下剋上の時代となり、権力はいつ誰が取るか分からない状態。貴族は衰えて武士の時代へと移り変わっていきます。天皇でさえわが身がどうなるか分からないと感じる、緊張感がある世の中でした。

武士が台頭することによって貴族主導だった文化の流行も変化していきました。伝統的な貴族文化と武士階級の文化が入り混じり、そこに庶民の文化が加わりました。いろいろな階級の趣向が入り混じり生まれた新しい文化は日本各地へ浸透。京都から鎌倉へそして地方へと流れていきます。

武士と短歌(和歌)にはどんな関係がある?

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平安時代武士は貴族のボディガードにすぎませんでした。貴族のように歌を詠み合う姿はまったく思い浮かびません。芸術や知性とは無縁の存在である武士がどうしてこんなに歌作りにのめりこんだのでしょうか。そこには武士ならではの解決したい課題があったのです。

武士が熱中した連歌

平安時代、武士は「もののふ」と呼ばれていました。「古今和歌集」の序文に紀貫之は「猛き(たけき)武士(もののふ)の心をも慰むるは歌なり」と記しています。つまり平安時代から武士は歌を詠んでいたということになるでしょう。当時、和歌や短歌ではなく「歌」と言っています。ここから歌とは短歌を指すことが分かるでしょう。

明日の命があるのかも分からない合戦の時代、生き残るために戦国大名たちが必要としたのが巧みに歌を詠む能力でした。多くの武士たちの上に立つためには、戦闘能力だけではなく歌を詠めることも求められたのです。

その理由は部下たちを感動させられるから。合戦に出かける時に詠むのが辞世の歌。死ぬときをいかに美しく読めるかどうかで、能力評価が決まりました。「もののふ」は文武両道であることが絶対。教養がないとただの殺し屋です。戦禍の合間に戦国武将たちは、美術品の収集や茶の湯をたしなむなどして教養を磨きました。連歌もそのひとつだったのです。

連歌によって戦争を制する

当時の戦では人の集まりと移動だけが情報を得る手段でした。招待客が集まって連歌を詠む連歌会(れんがえ)の情報を得る手段のひとつとされました。合戦に行く前には神社に奉納するために連歌会を開催。これを「出陣連歌」と言います。

先頭に立つ大名の歌が下手では部下たちの士気も下がりかねません。そこで大名たちは必死で歌を学びました。平和な時代はただの余興だった連歌は、戦いに行く前に互いに肩を組んで雄叫びを上げ。連歌は戦闘の士気を高める役割になっていったのです。

連歌は連帯感を盛り上げて覚悟を決める儀式のようなもの。人は儀式なしには死地へ赴くことは出来ないのかも知れません。例えば今のウクライナ・ロシアの戦争でも、爆弾やミサイルを落としたことだけがニュースになりますが、その裏ではヨーロッパやアメリカを含む世界中の情報戦が繰り広げられています。情報を制する者が勝つという原則は戦国時代でも同様でした。

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合戦のなかで連歌師が登場

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プロの歌詠みが登場するのは戦国時代。出陣連歌は縁起をかつぐものであり、重要なイベント。プロの連歌詠みに指導してもらう必要が生じました。連歌師登場です。彼らは戦場を比較的自由に行き来でき、しかも誰からも歓迎されました。おのずと情報が集まり、スパイ活動もすることになりました。

連歌師の裏の顔

スパイは平和な時代には必要ありません。戦国時代であるからこそスパイが求められました。僧侶、庭師、忍者、行商人などあらゆる形のスパイが暗躍しました。連歌師もそのひとつです。なかには戦争で大儲けしたプロの連歌師もいました。

連歌師は情報屋としての裏の顔を持ちつつ全国を動きまわりました。連歌師の交通費、宿泊費、指導代はかなりの額になります。そこで大名のなかには、手元で育成して専用の連歌師を抱える人も出てきました。そこから優秀な連歌師が続々誕生。つまり戦争が連歌の黄金期を生み出したのです。

連歌から連句そして俳句へ

南北朝時代には優れた連歌指導書が数多く書かれました。二条良基は、『筑波問答』のなかで連歌のルールを決め、准勅撰集『菟玖波集』を世に送り出します。室町中期になると、飯尾宗祇が二番目の准勅撰集『新撰菟玖波集』を出しました。

連歌には、こっけいさを重視する「無心連歌」(むしん)と風流を重視する「有心連歌」(うしん)がありました。戦国時代には有心連歌が発達。高い芸術性を誇るようになりました。連歌からこれを簡略化した連句が登場。連歌の発句に季語を入れるようになり、発句が独立して俳句になりました。

一方、ゲーム性や面白味を重視した無心連歌も消えることなく続きました。戦乱がおさまると、こっけいさを重視した俳諧連歌が生れます。これが江戸時代に俳諧となりました。庶民が参加するようになり、のちの川柳につながります。

現代に生きる連歌のルール

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連歌は「座」の文芸。そのためルールは厳格です。無規則に五・七・五・七・七を続けてしまうと、統一性のない滅茶苦茶な歌になってしまうでしょう。ルールを守ることを前提とする連歌は、現代にも通用する多くのことを教えてくれます。

連歌の大枠となる大きなルール

連歌の大枠となるルールは、句を詠む人たちの連携を大事にすることです。自分一人で好きに詠むのはご法度。あとの人がつなげやすいように配慮することが大切です。後続の人は、前の句とつなげることがルールとなります。

複数の人と作りながらも全体が一体感を持っていることも連歌のルール。とはいえ、同じような歌を続けることはNGです。最初から最後まで変化があることも大前提とされました。

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連歌が教える他人への気配りの大切さ

このような大きなルールを守るためには、座の人(他人)に配慮しなければなりません。これを「付合」(つけあい)と言います。ここから私たちが使う「付き合い」という言葉が生まれました。

付合とは互いに関連性を持って歌を詠むこと。次の人が読みやすいように気配りすることもそうです。そのために必ず次の人のために情報を入れました。「月」と「花」を詠むと決められた場所、定座(じょうざ)も意識されました。

定座の人もさまざまなことを注意します。「花」の座だからといって「花」と呼ぶのはNG。「桜」と決まっているからです。「月」の定座は「正月」とか「霜月」と呼んではいけません。それは「月並みの月」と呼ばれ、月を詠んだことにはならないのです。「月並み」という言葉もここから生まれたのかもしれませんね。

連歌を詠むメンバーに対する配慮

メンバーのなかに最年少あるいは特別な主客がいたら、歌の順番を変えてでも定座に据えるのもルールです。最高の定座は「花」を詠む場所とされました。誰かに特別気をつかって良い立場に立たせることを「花をもたせる」と言いますね。相手の顔を立てて名誉や功を譲る。これは連歌から来た言葉だったのです。

そして最後。締めの歌は前句との連携にこだわらず、さらっと詠むことがルールでした。これを「挙句」(あげく)と言います。「挙句の果て」という表現を知っていますか。これは「最後の最後」という意味の、連歌に由来する表現です。

近年、連歌の面白さが見直され、インターネットで知らない人同士が歌を詠みあうコミュニティも出現しています。連歌は、教養、気配り、譲る心など、マナーの勉強にもなりそうですね。興味があったら、気の合う数人と連歌をトライしてみてはいかがでしょうか。

現代に生きる連歌のスピリット

最後に明智光秀が本能寺の変の前に催した連歌会で作った「愛宕百韻」の発句を紹介します。それが「ときは今天(あめ)がしたたる(下治る)五月かな」というもの。本能寺の変を決意したときに詠んだ歌と言われています。「とき」は「土岐」つまり明智光秀の旧姓です。「天が滴る」というのは「天下を取る」という意味。真意は定かではありませんが、どういう思いで本能寺の変を決意したのか、明智光秀の心を読み解く一助になるでしょう。

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室町時代平安時代戦国時代文化・歴史日本史鎌倉時代

戦国時代に完成させた「連歌」とは?生まれた背景や特有のルールなどを元大学教員が簡単にわかりやすく解説

連歌とは、五・七・五の17文字の長句(上句)と七・七の14文字の短句(下句)を交互に連ねて詠む合作文芸のことを指す。連歌が生まれた当初は、上句と下句を二人で詠む短連歌、いわゆる一句連歌が主流だった。

万葉集にその例が残されているが、その後どういうふうに発展したのでしょうか。日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

アメリカの歴史と文化を専門とする元大学教員。平安時代にも興味があり、気になることがあったら調べてみる。今回は、共同制作が面白いと話題になっている連歌についてまとめてみた。

連歌とはどのような創作物?

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短連歌は平安中期ごろから知的な遊びとして盛んになりました。鎌倉時代以降になると、長句(五・七・五)と短句(七・七)を交互に鎖のように続けてゆく鎖連歌が盛んになります。その結果、短連歌は衰退しました。

連歌は短歌を繋いだもの

平安時代までの文学の担い手は貴族でした。鎌倉時代から室町時代にかけて貴族の権力は衰退。それでもやはり文学の担い手は貴族でした。そのため、長歌(ちょうか)・短歌(たんか)などの定型の詩歌である和歌は栄えていました。

和歌は漢詩に対して倭歌(やまとうた)とも呼ばれていました。長歌の別名は「ながうた」。五・七の句を三句以上繰り返して最後に七・七の句を添えるものです。短歌は五・七・五・七・七の五句31文字からなる形でした。

私たち現代人が和歌と呼んでいるのは倭歌の短歌のこと。「倭歌として詠まれた短歌」は、いわゆる短歌とは歴史が異なります。倭歌の起源は奈良時代。平安時代よりあとは、倭歌のなかの長歌と旋頭歌はほとんど詠まれなくなりました。それに対して短歌は和歌の主流として詠まれ続けてきました。

和歌の元になった倭歌

和歌と同義語で、漢詩に対して日本的な五七調の歌全般をいいます。万葉集にすでに連歌という言葉が見られました。連歌の起源はそれだけ古いものです。倭歌はいつしか「和歌」と呼ばれるようになり、五・七・五・七・七の歌を指すようになりました。

連歌の形式が固まってくるのは平安時代の中ごろ。貴族の知的な遊びとして連歌が流行るようになりました。貴族たちは、上の句(五・七・五)と下の句(七・七)を分けて、二人で歌を贈答するようになったのです。これはいわば余興のようなもの。これが連歌の始まりです。

連歌が生まれた歴史的な背景

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記録に残っている最古の連歌は万葉集の八巻にある1635の歌。大伴家持(おおとものやかもち)と尼の贈答スタイルの短歌です。「佐保河の水をせきあげて植ゑし田を」を尼が作り、それに繋げるかたちで大伴家持が「刈れる早飯(わさいひ)はひとりなるべし」を詠みました。

鎌倉時代の連歌

万葉集に残されているとはいえ、平安時代まではこのように二人で贈答する連歌のスタイルは本流になりませんでした。ところが鎌倉時代になると長連歌(鎖連歌)が生れて大流行しました。五・七・五(発句)に、七・七(付句)、さらに五・七・五(脇句)を続けていくものです。

これを百句続けることが百韻連歌(ひゃくいんれんが)。それができると縁起が良いとされました。縁起物とされることで余計にたくさんの人の興味を惹きつけたのでしょう。長連歌のスタイルは江戸時代までの連歌の基本の形となりました。

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