簡単でわかりやすい!「足尾銅山鉱毒事件」とは?田中正造が生涯をかけて解決に取り組んだ事件の原因や政府の対応などを歴史好きライターが詳しく解説
最期は袋1つだけを持っていた
田中正造の晩年は、足尾銅山鉱毒事件の現地調査や演説、それに支援者のあいさつ回りに精力的でした。1913(大正2)年、田中はある支援者の家で倒れます。そのまま病に伏せた田中は、およそ1ヶ月後に71歳で亡くなりました。田中の葬儀には、全国から数万人が参列したと伝えられています。
亡くなった時の田中は無一文でした。書きかけの原稿や日記に、新約聖書・『マタイ伝』の合本・帝国憲法・鼻紙・川海苔・小石3個が入った信玄袋1つだけ持っていたのです。田中が所有していた家屋や田畑は、農業や教育の振興に役立ててほしいとしてすべて寄贈されていました。
公害防止協定の締結
渡良瀬川全域に堤防が作られたのは戦後になってからでした。それ以来、渡良瀬川流域での洪水はほぼなくなります。さらに、日本最大級の防砂ダムである足尾ダムや、多目的ダムである草木ダムなども完成。足尾銅山から渡良瀬川への土砂流出対策がようやく実現しました。
1976(昭和51)年、足尾銅山側と周辺自治体との間で公害防止協定が締結されます。その協定に基づいて、水質検査や土地改良などが行われました。しかし、その後も水質検査で環境基準値を超えることがあります。足尾銅山鉱毒事件は完全に終結したわけではありません。
足尾銅山の閉山
戦時中から戦後にかけても、足尾銅山での銅の採掘は続けられました。新たに自溶製錬設備が作られ、そのことで亜硫酸ガス排出の減少にも結び付けています。ですが、最盛期の採掘量には及びませんでした。1973(昭和48)年になり、ついに足尾銅山は閉山されたのです。
足尾銅山閉山以降も、しばらくは輸入鉱石による精錬事業は続けられていました。今では精錬事業も停止して、リサイクル事業を行うのみです。1980(昭和55)年には足尾銅山観光という施設が完成し、足尾銅山の坑道の一部が一般公開されました。現在もトロッコに乗って坑道まで見学に行けます。
田中正造は命懸けで足尾銅山鉱毒事件の解決へ身を投じた
足尾銅山から排出される鉱毒は、長年にわたり渡良瀬川周辺の住民を悩ませてきました。足尾銅山鉱毒事件を解決させようと、私利私欲を捨てて奔走したのが田中正造です。しかし、当時の政府は事件の解決に積極的ではありませんでした。すでに足尾銅山は閉山されましたが、私たちは田中正造が命懸けで足尾銅山鉱毒事件を解決しようとしたことを忘れてはなりません。