今回は、足尾銅山鉱毒事件について学んでいこう。

足尾銅山鉱毒事件といえば田中正造の名前を思い浮かべる人も多いでしょう。田中がどのような活動をしていたのか、改めて知りたい人もいるはずです。

足尾銅山鉱毒事件の原因や当時の政府の対応などを、日本史に詳しいライターのタケルと一緒に解説していきます。

ライター/タケル

資格取得マニアで、士業だけでなく介護職員初任者研修なども受講した経験あり。現在は幅広い知識を駆使してwebライターとして活動中。

なぜ足尾銅山鉱毒事件は発生したのか

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まずは足尾銅山の歴史を簡単に振り返ってみましょう。

足尾銅山の近代化

足尾銅山は16世紀後半から採掘が始まったとされます17世紀に入り足尾銅山が徳川幕府の直轄支配となると本格的に銅の採掘が開始。採掘された銅は江戸城や日光東照宮などに使われました。17世紀に銅の採掘はピークを迎えますが18世紀になると採掘量は急激に減少し幕末以降はほぼ閉山した状態となります

1877(明治10)古河財閥の創始者でもある古河市兵衛が閉山同然の足尾銅山を買収しました。経営に着手してからすぐに成果は出ませんでしたが、有望な鉱脈を発見したことで風向きが変わります。さらに、西洋の採掘技術を導入したことで採掘量が急増。やがて、足尾銅山は日本で最も銅を産出する銅山となりました

足尾銅山周辺で環境被害が多発

20世紀初頭には全国で随一の産出量となった足尾銅山でしたがその頃から既に環境被害は発生していました。樹木は燃料にするなどの目的で伐採され、足尾銅山の周辺は排ガスの影響も受けたことではげ山に。採掘した銅鉱石を精製する工場から多くの煙が排出され、深刻な大気汚染が発生していました

さらに、銅を精製することで生じる汚泥などが土壌や河川に流れ込みます。川では鮎が大量死。川沿いの作物は立ち枯れが発生して、農業に深刻な影響を与えました。そのような川の水は生活用水としても使えなくなり、近隣住民の生活が脅かされるようになったのです

田中正造が足尾銅山鉱毒事件と関わるまで

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足尾銅山鉱毒事件の解決に奔走したことで知られる政治家が田中正造です。果たして田中はどのような人物だったのでしょうか。

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若い頃から反骨精神が旺盛だった

田中正造(たなかしょうぞう)1841(天保12)年に現在の栃木県佐野市で生まれました。生家は名主で、田中も父の後を継いで名主となります。しかし、田中は若い頃から反骨精神が旺盛でした。領主に政治的要求を行い、そのことがきっかけで投獄されたこともありました。

その後、田中は現在の秋田県で官吏となります。しかし、殺人事件の容疑者として田中が逮捕されました。殺害されたのは田中の上司でしたが、それは冤罪だったと考えられています。田中の物怖じしない性格や言動が一部の者から疎ましく思われ、田中に罪を着せたという説があるのです。

県議会議員から衆議院議員へ

冤罪であろう殺人罪で逮捕された田中正造は、投獄されてから3年後に釈放されました。1878年(明治11)年に区会議員となると田中の政治活動は精力的になります地元紙である栃木新聞(現在の下野新聞)では編集長に就任。田中は紙面で国会の設立などを訴えました。

1880(明治13)年に田中は栃木県議会議員となります。1882(明治15)年には、結党されたばかりの立憲改進党に入党。さらには県議会の議長にもなったのです。そして、1890(明治23)年に行われた第1回衆議院選挙で栃木3区から立候補した田中は見事に初当選しました

足尾銅山鉱毒事件の解決に奔走する田中正造

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衆議院議員となった田中正造はその活動のほとんどを足尾銅山鉱毒事件の解決に捧げます。その様子を見ていくことにしましょう。

帝国議会で質問

田中正造が衆議院選挙で初当選した1890(明治23)年に渡良瀬川で洪水が発生すると流域各地で稲の立ち枯れが確認されました。やはり原因は足尾銅山から流出した鉱毒でした。すでに予兆が見られていた鉱毒被害が顕著なものとなったのです。田中は自ら現地へ向かい鉱毒被害を調査しました

1891(明治24)年の第2回帝国議会で田中は質問演説を行いますその場で田中は足尾銅山から流出した鉱毒による被害が続出していることを切実に訴えたのです。田中の演説で足尾銅山の鉱毒被害が明るみとなり、足尾銅山側と周辺自治体側との間で示談契約が結ばれ示談金の支払いなどが行われました

明治天皇へ直訴

田中正造が帝国議会で質問演説をした後になり、足尾銅山では洪水対策や廃水処理対策などの工事が何度も行われます。しかし、どれも鉱毒対策としては効果に乏しいものでした渡良瀬川流域周辺の住民による運動は激化し警官隊と衝突する騒ぎにまで発展しました

1901(明治34)年に田中は衆議院議員を辞職すると、田中は命を懸けた行動に出ます。帝国議会の開院式から帰る途中の明治天皇に対して田中は足尾鉱毒事件について直訴を行ったのです田中が警官に取り押さえられたため直訴は失敗に終わりましたが新聞の号外が発行されるほどの騒動となりました

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遊水池建設反対運動

明治天皇への直訴により拘束された田中正造は、旧刑法により死刑となってもおかしくはありませんでした。しかし、その日のうちに田中は釈放されています。直訴そのものは明治天皇には届きませんでしたが、騒動が報道されたことで世論が足尾銅山鉱毒事件の解決を望むようになったのです

世論を動かした結果、渡良瀬川の下流に貯水池を作る計画が浮上します。遊水地には鉱毒を沈殿させて被害を抑える目的がありましたが、周辺の村々が廃村になる可能性が出たため、村民による反対運動が起きました田中は候補地となった村に移住して反対運動に加わるとともに終生までそこに居を構えました

足尾銅山鉱毒事件への政府の対応

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田中正造が明治天皇に直訴までして解決しようとした足尾銅山鉱毒事件。当時の政府はどのような対応を取ったのでしょうか。

足尾銅山鉱毒調査委員会の設置

田中正造が帝国議会で質問演説をした後に政府は足尾銅山鉱毒調査委員会を設置しました。しかし、設置されたのは田中の演説から6年も後の1897(明治30)年のことでした。当時の政府は、足尾銅山鉱毒事件の解決に積極的ではなかったのです。その年に鉱毒被害者が大挙して東京まで陳情に訪れたことでようやく政府が解決に動きました

さらに政府は足尾銅山の経営者に対して何度も予防工事命令を発します。中には、工事期限を少しでも過ぎれば足尾銅山の閉山を命じるという厳しいものもありました。しかし、繰り返し工事が行われたのにもかかわらず幾度も洪水は発生そのたびに鉱毒被害は渡良瀬川流域に広がりました

渡良瀬遊水地の建設

田中正造が明治天皇に直訴しようとしたことで、足尾銅山鉱毒事件に注目が集まりました。世論の盛り上がりを無視できなくなった政府は、1902(明治35)年に第二次鉱毒調査委員会を設置します。委員会では足尾銅山鉱毒事件が検証され、渡良瀬川下流に遊水地を作るべきであるという内容の報告書を提出しました

1906(明治39)年、政府は谷中村を買収します。谷中村には遊水地建設を反対していた田中正造が住んでいました。それにもかかわらず政府は工事を強行して、栃木県・群馬県・埼玉県・茨城県の4県にまたがる遊水地を完成させましたそれが現在の渡良瀬遊水地です

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田中正造の最期とその後の足尾銅山鉱毒事件

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最後に、田中正造の終生とその後の足尾銅山鉱毒事件を見ていきましょう。

最期は袋1つだけを持っていた

田中正造の晩年は、足尾銅山鉱毒事件の現地調査や演説、それに支援者のあいさつ回りに精力的でした。1913(大正2)田中はある支援者の家で倒れますそのまま病に伏せた田中はおよそ1ヶ月後に71歳で亡くなりました田中の葬儀には全国から数万人が参列したと伝えられています

亡くなった時の田中は無一文でした。書きかけの原稿や日記に、新約聖書・『マタイ伝』の合本・帝国憲法・鼻紙・川海苔・小石3個が入った信玄袋1つだけ持っていたのです。田中が所有していた家屋や田畑は農業や教育の振興に役立ててほしいとしてすべて寄贈されていました

公害防止協定の締結

渡良瀬川全域に堤防が作られたのは戦後になってからでした。それ以来、渡良瀬川流域での洪水はほぼなくなります。さらに、日本最大級の防砂ダムである足尾ダムや多目的ダムである草木ダムなども完成。足尾銅山から渡良瀬川への土砂流出対策がようやく実現しました。

1976(昭和51)足尾銅山側と周辺自治体との間で公害防止協定が締結されます。その協定に基づいて、水質検査や土地改良などが行われました。しかし、その後も水質検査で環境基準値を超えることがあります。足尾銅山鉱毒事件は完全に終結したわけではありません

足尾銅山の閉山

戦時中から戦後にかけても足尾銅山での銅の採掘は続けられました。新たに自溶製錬設備が作られ、そのことで亜硫酸ガス排出の減少にも結び付けています。ですが、最盛期の採掘量には及びませんでした。1973(昭和48)年になりついに足尾銅山は閉山されたのです

足尾銅山閉山以降も、しばらくは輸入鉱石による精錬事業は続けられていました。今では精錬事業も停止してリサイクル事業を行うのみです1980(昭和55)年には足尾銅山観光という施設が完成し足尾銅山の坑道の一部が一般公開されました。現在もトロッコに乗って坑道まで見学に行けます。

田中正造は命懸けで足尾銅山鉱毒事件の解決へ身を投じた

足尾銅山から排出される鉱毒は、長年にわたり渡良瀬川周辺の住民を悩ませてきました。足尾銅山鉱毒事件を解決させようと、私利私欲を捨てて奔走したのが田中正造です。しかし、当時の政府は事件の解決に積極的ではありませんでした。すでに足尾銅山は閉山されましたが、私たちは田中正造が命懸けで足尾銅山鉱毒事件を解決しようとしたことを忘れてはなりません。

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現代社会

簡単でわかりやすい!「足尾銅山鉱毒事件」とは?田中正造が生涯をかけて解決に取り組んだ事件の原因や政府の対応などを歴史好きライターが詳しく解説

田中正造の最期とその後の足尾銅山鉱毒事件

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最後に、田中正造の終生とその後の足尾銅山鉱毒事件を見ていきましょう。

最期は袋1つだけを持っていた

田中正造の晩年は、足尾銅山鉱毒事件の現地調査や演説、それに支援者のあいさつ回りに精力的でした。1913(大正2)田中はある支援者の家で倒れますそのまま病に伏せた田中はおよそ1ヶ月後に71歳で亡くなりました田中の葬儀には全国から数万人が参列したと伝えられています

亡くなった時の田中は無一文でした。書きかけの原稿や日記に、新約聖書・『マタイ伝』の合本・帝国憲法・鼻紙・川海苔・小石3個が入った信玄袋1つだけ持っていたのです。田中が所有していた家屋や田畑は農業や教育の振興に役立ててほしいとしてすべて寄贈されていました

公害防止協定の締結

渡良瀬川全域に堤防が作られたのは戦後になってからでした。それ以来、渡良瀬川流域での洪水はほぼなくなります。さらに、日本最大級の防砂ダムである足尾ダムや多目的ダムである草木ダムなども完成。足尾銅山から渡良瀬川への土砂流出対策がようやく実現しました。

1976(昭和51)足尾銅山側と周辺自治体との間で公害防止協定が締結されます。その協定に基づいて、水質検査や土地改良などが行われました。しかし、その後も水質検査で環境基準値を超えることがあります。足尾銅山鉱毒事件は完全に終結したわけではありません

足尾銅山の閉山

戦時中から戦後にかけても足尾銅山での銅の採掘は続けられました。新たに自溶製錬設備が作られ、そのことで亜硫酸ガス排出の減少にも結び付けています。ですが、最盛期の採掘量には及びませんでした。1973(昭和48)年になりついに足尾銅山は閉山されたのです

足尾銅山閉山以降も、しばらくは輸入鉱石による精錬事業は続けられていました。今では精錬事業も停止してリサイクル事業を行うのみです1980(昭和55)年には足尾銅山観光という施設が完成し足尾銅山の坑道の一部が一般公開されました。現在もトロッコに乗って坑道まで見学に行けます。

田中正造は命懸けで足尾銅山鉱毒事件の解決へ身を投じた

足尾銅山から排出される鉱毒は、長年にわたり渡良瀬川周辺の住民を悩ませてきました。足尾銅山鉱毒事件を解決させようと、私利私欲を捨てて奔走したのが田中正造です。しかし、当時の政府は事件の解決に積極的ではありませんでした。すでに足尾銅山は閉山されましたが、私たちは田中正造が命懸けで足尾銅山鉱毒事件を解決しようとしたことを忘れてはなりません。

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