簡単でわかりやすい!「足尾銅山鉱毒事件」とは?田中正造が生涯をかけて解決に取り組んだ事件の原因や政府の対応などを歴史好きライターが詳しく解説
遊水池建設反対運動
明治天皇への直訴により拘束された田中正造は、旧刑法により死刑となってもおかしくはありませんでした。しかし、その日のうちに田中は釈放されています。直訴そのものは明治天皇には届きませんでしたが、騒動が報道されたことで世論が足尾銅山鉱毒事件の解決を望むようになったのです。
世論を動かした結果、渡良瀬川の下流に貯水池を作る計画が浮上します。遊水地には鉱毒を沈殿させて被害を抑える目的がありましたが、周辺の村々が廃村になる可能性が出たため、村民による反対運動が起きました。田中は候補地となった村に移住して、反対運動に加わるとともに、終生までそこに居を構えました。
足尾銅山鉱毒調査委員会の設置
田中正造が帝国議会で質問演説をした後に、政府は足尾銅山鉱毒調査委員会を設置しました。しかし、設置されたのは田中の演説から6年も後の1897(明治30)年のことでした。当時の政府は、足尾銅山鉱毒事件の解決に積極的ではなかったのです。その年に鉱毒被害者が大挙して東京まで陳情に訪れたことで、ようやく政府が解決に動きました。
さらに政府は、足尾銅山の経営者に対して何度も予防工事命令を発します。中には、工事期限を少しでも過ぎれば足尾銅山の閉山を命じるという厳しいものもありました。しかし、繰り返し工事が行われたのにもかかわらず、幾度も洪水は発生。そのたびに鉱毒被害は渡良瀬川流域に広がりました。
渡良瀬遊水地の建設
田中正造が明治天皇に直訴しようとしたことで、足尾銅山鉱毒事件に注目が集まりました。世論の盛り上がりを無視できなくなった政府は、1902(明治35)年に第二次鉱毒調査委員会を設置します。委員会では足尾銅山鉱毒事件が検証され、渡良瀬川下流に遊水地を作るべきであるという内容の報告書を提出しました。
1906(明治39)年、政府は谷中村を買収します。谷中村には遊水地建設を反対していた田中正造が住んでいました。それにもかかわらず政府は工事を強行して、栃木県・群馬県・埼玉県・茨城県の4県にまたがる遊水地を完成させました。それが現在の渡良瀬遊水地です。
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