簡単でわかりやすい!「足尾銅山鉱毒事件」とは?田中正造が生涯をかけて解決に取り組んだ事件の原因や政府の対応などを歴史好きライターが詳しく解説
若い頃から反骨精神が旺盛だった
田中正造(たなかしょうぞう)は、1841(天保12)年に現在の栃木県佐野市で生まれました。生家は名主で、田中も父の後を継いで名主となります。しかし、田中は若い頃から反骨精神が旺盛でした。領主に政治的要求を行い、そのことがきっかけで投獄されたこともありました。
その後、田中は現在の秋田県で官吏となります。しかし、殺人事件の容疑者として田中が逮捕されました。殺害されたのは田中の上司でしたが、それは冤罪だったと考えられています。田中の物怖じしない性格や言動が一部の者から疎ましく思われ、田中に罪を着せたという説があるのです。
県議会議員から衆議院議員へ
冤罪であろう殺人罪で逮捕された田中正造は、投獄されてから3年後に釈放されました。1878年(明治11)年に区会議員となると、田中の政治活動は精力的になります。地元紙である栃木新聞(現在の下野新聞)では編集長に就任。田中は紙面で国会の設立などを訴えました。
1880(明治13)年に田中は栃木県議会議員となります。1882(明治15)年には、結党されたばかりの立憲改進党に入党。さらには県議会の議長にもなったのです。そして、1890(明治23)年に行われた第1回衆議院選挙で栃木3区から立候補した田中は、見事に初当選しました。
足尾銅山鉱毒事件の解決に奔走する田中正造
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衆議院議員となった田中正造はその活動のほとんどを足尾銅山鉱毒事件の解決に捧げます。その様子を見ていくことにしましょう。
帝国議会で質問
田中正造が衆議院選挙で初当選した1890(明治23)年に渡良瀬川で洪水が発生すると、流域各地で稲の立ち枯れが確認されました。やはり原因は足尾銅山から流出した鉱毒でした。すでに予兆が見られていた鉱毒被害が顕著なものとなったのです。田中は自ら現地へ向かい、鉱毒被害を調査しました。
1891(明治24)年の第2回帝国議会で田中は質問演説を行います。その場で田中は、足尾銅山から流出した鉱毒による被害が続出していることを切実に訴えたのです。田中の演説で足尾銅山の鉱毒被害が明るみとなり、足尾銅山側と周辺自治体側との間で示談契約が結ばれ、示談金の支払いなどが行われました。
明治天皇へ直訴
田中正造が帝国議会で質問演説をした後になり、足尾銅山では洪水対策や廃水処理対策などの工事が何度も行われます。しかし、どれも鉱毒対策としては効果に乏しいものでした。渡良瀬川流域周辺の住民による運動は激化し、警官隊と衝突する騒ぎにまで発展しました。
1901(明治34)年に田中は衆議院議員を辞職すると、田中は命を懸けた行動に出ます。帝国議会の開院式から帰る途中の明治天皇に対して、田中は足尾鉱毒事件について直訴を行ったのです。田中が警官に取り押さえられたため直訴は失敗に終わりましたが、新聞の号外が発行されるほどの騒動となりました。
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