

今回はこの「関白」について、制度の仕組みや起源、それから歴代の関白について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していくぞ。

解説/桜木建二
「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/リリー・リリコ
興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。前回は「摂政」についてまとめたので、今度はそのセットとなる「関白」について制度や歴代摂政について詳しくまとめた。
1.「関白」は何をする人?日本でのはじまりと終わり

平安時代、朝廷では「天皇が幼少か女性、あるいは病弱な場合に天皇に代わって政務をとる摂政」と「成人した天皇を補佐する関白」の大きな権力を持つ二つの役職がありました。天皇が幼いうちは摂政に、成人してからは同じ人が引き続いて関白へと例が多いので、セットで「摂関(せっかん)」と覚えておきましょう。
今回は摂関のうち関の「関白」をテーマとして解説していきます。昭和あたりの家父長制が色濃い時代は、父親の絶対的な家長権を指して「亭主関白」なんていいましたね。まさにその「関白」の語源となったのが現実の「関白」です。
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「関白」の起源はどこ?日本でのはじまりはいつ?
もともと「関白」がはじまったのは中国、前漢の名君・宣帝の時代。西暦にするとだいたい紀元前一世紀あたりです。宣帝は儒教に篤く、優しい性格の皇帝でした。けれど、政治の主導権は大将軍の霍光(かくこう)にあり、宣帝自身が即位する際に霍光に政権をゆだねる宣言をしました。そのときに諸官の上奏は霍光が「関(あずか)り白(もう)す」としたのです。
この故事に基づいて、887年に宇多天皇が藤原基経を関白に任命したのが日本での関白のはじまりでした。
終わりは「王政復古の大号令」!明治のはじまりと関白の廃止
政治の中心が天皇と貴族たちの朝廷から、武士たちを中心とする幕府へ移り変わっても摂政と関白は存続します。たとえ幕府ができたとしても、朝廷や天皇家が滅んだわけではありませんからね。京都の方で朝廷は続いていたのです。戦国時代には織田信長の跡を継いで大出世した豊臣秀吉が関白になっており、そのブランド力は健在でした。
関白が本格的に廃止されたのは、1868年。江戸幕府が朝廷へ政権を返した「大政奉還」が行われ、明治政府が立ったときでした。明治天皇は「王政復古の大号令」を発し、そこで関白と摂政、そして、征夷大将軍が廃止となったのです。
ここで関白は廃止されましたが、摂政の方はのちに復活し、天皇が幼かったり、不調だったりした際の代理の役職となっています。現在の天皇に主権はありませんから、その代理の摂政にもありません。
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「関白」の歴史がはじまったのは平安時代だ。先に摂政はあったが、天皇が成人後は天皇による親政が行われていたからな。だが、のちに成人した天皇を補佐するために藤原基経が関白に就任する。そこから摂政と関白がセットになって続いていったんだ。
2.登場は平安時代!藤原家の繁栄

平安時代の政治と藤原家の話は耳にタコができるくらい日本史の授業で聞きましたね。残念ですがここでもタコを増やしていってください。
前述したとおり「関白」は「摂政」とほとんどセットですが、「摂政」だけはもっと古い時代からありました。摂政では飛鳥時代の聖徳太子が有名ですね。一方、「関白」が日本で誕生したのは平安時代の半ばに差し掛かったころのこと。当時、朝廷では藤原一族のなかでも北家出身の藤原良房が清和天皇の外祖父として摂政となり、その跡を継いだ藤原基経が幼い陽成天皇の摂政、その後、年配の光孝天皇を擁立して「関白」となりました。
また、藤原基経の息子・藤原忠平が幼い朱雀天皇のころに摂政となり、天皇が成人してから関白となります。同じ人間が摂政から引き続き関白になる最初の例となりました。
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ところで、藤原基経が摂政を務めた陽成天皇だが、彼の母親は藤原高子といって、かつては『伊勢物語』の主人公のモデル・在原業平とロマンスがあったそうだ。だが、高子は藤原良房によって清和天皇に入内させられる。そんなことがあったからか、高子は兄の藤原基経とも仲が悪くてな。陽成天皇の暴君としてのエピソードもあって、藤原基経に退位させられ、母子ともども排斥されてしまうんだ。
摂関の世襲公認!大権力者「藤原道長」

朝廷の中心となった藤原氏の最盛期は「藤原道長」のころ。検索エンジンに「藤原」と入力すると候補の上の方に出てくる名前ですね。「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」なんて歌も残っています。意訳すると「私はこの世のすべてを手に入れた」です。三女の藤原威子が後一条天皇に入内した記念の宴で詠んだとされていますが、すがしがしいほどの歌ですね。
実際、藤原道長は三人の娘を皇后にし、三代の天皇の外戚となり、後一条天皇の摂政も努めます。ただし、藤原道長自身は関白にはなっていません。当時の関白は天皇の補佐であり、最終的な政治の決定権は天皇にありました。このような名誉職のような扱いだったため、藤原道長は嫌がって関白にならなかったとされます。
その藤原道長が引退し、息子・藤原頼道に摂政を譲ったことにより、摂政と関白が藤原頼通の血筋による世襲制となることが公認されたのです。
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