「摂政」というと平安時代の藤原氏のイメージが真っ先に浮かぶでしょう?それほど平安時代に摂政が活躍してきた、もしくは、摂政の座を争ったということなんです。ですが、摂政は古代からある制度で、実は聖徳太子が初じゃない。
今回はこの「摂政」について、制度と、それから歴代摂政が何をしたかを歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。日本史のなかでも古くから存在する「摂政」。今回は摂政の制度や歴代摂政について詳しくまとめた。

1.現代にもあるって本当?「摂政」のお仕事

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今回のテーマとなる「摂政」は、日本史において「天皇が幼かったり、女性であったり、病弱であったりして政務と行えない場合、天皇に代わって政務をとる役職」でした。摂政として特に知られているのは飛鳥時代の聖徳太子(厩戸王)や、平安時代の藤原家ですね。

その初代はおおよそ四世紀後半の神功皇后とされ、2022年現在、その最後に就いたのは昭和天皇です。

廃止はいつ?幕府の裏でずっと続いていた「摂政」

「摂政」と教科書によく出てくるのはだいたい平安時代のあたりでしょうか。「藤原〇〇が△△天皇の摂政として~」のように書かれていたと思います。しかし、時代が下って近世には日本史のスポットライトは朝廷から幕府へと移り変わったこともあってほとんど聞きません。ただし、耳にしなくても制度はしっかり続いています。

明確に摂政が廃止されたのは、1868年のこと。江戸幕府が朝廷へ政権を返す「大政奉還」が行われ、明治天皇が「王政復古の大号令」を発布。王政復古によって摂政、関白、そして征夷大将軍が廃止されたのです。

廃止と思ったらすぐに復活?ちょっとだけ変わった「摂政」

江戸時代から明治時代になって一度は廃止された「摂政」でしたが、1889年(明治22年)に大日本帝国憲法と旧皇室典範によって復活します。ただし、そのときの摂政は昔のようなものではありません。

明治から復活した摂政は「天皇と同じ権限を持つ」、「天皇が成人していないとき、もしくは体調不良など長期にわたって政務をとれないときに皇族のなかから摂政を選ぶ」というもの。たとえ内閣総理大臣でも皇族でなければ摂政にはなれなかったのです。

何をするの?現代に復活した「摂政」

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そして、現代において「摂政」は現行の皇室典範に「天皇が未成年であるとき、あるいは天皇が国事行為を行えないときに置く」と記されています。これは宮内庁のホームページにもありますので、気になる方はチェックしてみてください。

現代の天皇は、日本国憲法において君主としての権限を持たない「日本の象徴」です。内閣総理大臣の認証式をしても、内閣総理大臣を直接指名したりなど政治的な権限はない、と憲法にも記されました。代わりに、国事行為といって、内閣の助言と承認によって国事に関係することを行います。たとえば、内閣総理大臣の認証や文化勲章の授与などです。

現代の摂政もまた天皇と同じで、政治的な権限はなく、国事行為のみを天皇の代理で行うことが仕事となります。

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2. 初代摂政は女性!?摂政を70年も務めた「神功皇后」

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歌川国芳 - Waseda University Theatre Museum, Ukiyo-e.org A. [1] B. [2] C. [3], パブリック・ドメイン, リンクによる

「神功(じんぐう)皇后」は第14代天皇の仲哀天皇の皇后であり、約四世紀後半ごろ、まだ「摂政」という言葉もない時代に70年に渡って摂政の役割を務めたとされています。日本の歴史を記した『日本書紀』の神代に天皇でないにも関わらず多くのページを裂かれており、神からの神託を授かるなど伝説的なエピソードを持つ女傑です。

ただ、神代というあまりに昔の人物であることや、神がかり的な部分が多く少々実在を疑われるところもあります。

「昔」と一言に言っても実感は持てないかもしれませんね。ですが、「ヤマトタケルノミコト」は聞いたことがあるんじゃないでしょうか?とてもメジャーな日本の英雄ですが、実はヤマトタケルノミコトは神功皇后の夫・仲哀天皇の父親にあたります。感覚的にですが、こう聞くと同じ時代の神功皇后がどれだけ現代から遠い人物であったかわかるんじゃないでしょうか。

夫が亡くなってからが本番!戦いに政治に敏腕を振るう

夫の仲哀天皇が九州の熊襲討伐に失敗し、52歳で崩御したあとから神功皇后の凄まじい伝説がはじまります。まずは失敗に終わっていた熊襲征伐を完遂して北九州を支配下におさめ、さらに朝鮮半島へ出兵(三韓征伐)して新羅を降伏させました。出兵には神功皇后自ら赴き、しかも妊娠したまま出発していたというのだから驚きです。

その後は皇位を狙う仲哀天皇の他の息子たちと戦って勝利し、皇太后として生まれた息子(のちの応神天皇)の摂政を開始します。以降、神功皇后は約70年間摂政として君臨し、朝鮮半島の国々へ睨みを利かせました。応神天皇が即位したのは神功皇后の崩御だったとされます。

3.やっぱり有名な摂政と言えば「聖徳太子(厩戸王)」

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摂政として日本史上一、二を争うほど有名な政治家「聖徳太子(厩戸王)」。聖徳太子が摂政を務めたのは、日本ではじめて女性天皇となった推古天皇の時代で、蘇我馬子と協力して政治を行ったとされています。

摂政に就任した聖徳太子の功績は、日本史にもよく書かれていますね。特に覚えておきたいのが「冠位十二階」「十七条の憲法」、そして「遣隋使」です。聖徳太子のこれらの政策について解説していきましょう。

身分に関係なく優秀な人材を登用したい!「冠位十二階」

飛鳥時代の朝廷は主に天皇、皇族、そして豪族によって運営されていました。しかし、当時の朝廷の役職は氏姓制度による世襲制で、親から子へと引き継がれている状況です。親が大臣なら、その子がどんなに大臣に向いていなくても将来は大臣になってしまうんですね。

聖徳太子はその状況を打破すべく、603年に「冠位十二階」を制定します。これは日本で初めての位階制度で、身に着ける冠の色によって階級を表しました。色は上から順に紫、青、赤、黄、白、黒の六つで、さらにこの色に濃淡をつけて細かく上下を区別します。

「冠位十二階」が実施されたことにより、新しく官吏になった人は親の階級に限らず一番下の黒から始まることに。これで朝廷では親の七光りが通用しないようにしたのです。そうすることで、豪族の力が強まるのを抑制しようとしたのでした。

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天皇中心の政治へ!役人の心得「十七条の憲法」

「憲法」というと国民みんなが守らなければならない法律(最高法規)だと考えますね。ですが、聖徳太子が604年に制定した「十七条の憲法」はそういう現代の「憲法」とは違い、「役人の心得」として定めたものでした。「十七条の憲法」は文字通りの17個の条文がありますが、そのなかでも特に重要なのは下記の三つです。

「一に曰く、和をもって貴しとなし」
飛鳥時代は豪族同士の争いが絶えませんでした。なので、喧嘩せず平和を大事にしなさい、と憲法に明記したのです。

「二に曰く、篤く三宝を敬え」
三宝とは「仏」「法」「僧」のこと。三つ合わせて「仏法僧(ぶっぽうそう)」といいます。聖徳太子は崇仏派の人物でしたから、仏様とその教え、それらを信奉する僧侶を大切にするよう求めたのでしょう。

「三に曰く、詔を承りては必ず謹め」
詔は天皇の命令のこと。要するに、天皇の命令は絶対従いなさい、という意味になります。

「遣隋使」を派遣して大国「隋」と仲よくしよう!

飛鳥時代、海を越えた先、現在の中国にあたる地域には「隋」という大国があり、アジアの中心として君臨していました。隋は強い影響力を持った国だったので、周辺諸国から貢物を受けとっていました(朝貢)。

日本もまた隋と交流を行おうと607年に遣隋使を派遣しました。この時に派遣されたのが「小野妹子」です。この遣隋使で日本は隋と対等な相手として見られるようもっていこうとしました。

東の島国がアジア世界の中心大国と肩を並べるのは到底考えづらいですよね。けれど、当時の隋国内は戦争や無理な運河造りなどで緊張状態にあり、その上、隋が狙っている朝鮮半島の高句麗の背後にある日本と険悪になりたくなかったなど、さまざまな理由から日本とは冊封(君臣関係)の関係でない朝貢を受け入れることにしたのです。

怒られた?「日出づるところの天子」と「日没するところの天子」

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ところで、小野妹子は聖徳太子に託された国書を隋の皇帝・煬帝(ようだい)に渡したのですが、その国書には下記の有名な出だしが書かれています。

「日出づるところの天子、書を日没するところの天子に致す。つつがなきや」

わかりやすく現代語にすると「日が昇る国の王の私が、日の沈む国の王の煬帝に手紙を送る。調子はどうだ?」というもの。日本は隋の東側にあり、確かに日の出は日本側からはじまり、隋へと日が沈むでしょう。……が、「日が昇る」「日が沈む」という表現は国の興亡を比喩しているようにも捉えられます。

また、中華思想では天子は世界にただ一人だけであるため、日本の天皇が天子を名乗ったことに煬帝が怒ったともいわれました。

しかし、煬帝は「この失礼な手紙を二度と見せるな」と言ったとされる一方で、前述の理由から日本の要求を飲んだのでした。

4.藤原氏の栄華と黄金期「藤原道長」

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「摂政」「関白」を一番耳にするのがおそらく平安時代でしょう。藤原北家の末裔・藤原良房が甥を天皇に即位させて太政大臣(現代でいうと内閣総理大臣)に就任し、さらに自分の娘と文徳天皇の皇子が清和天皇として即位して天皇の外祖父となりました。藤原良房はその後政敵を排斥し、幼い清和天皇の摂政となります。皇族以外では初となる摂政の誕生でした。

そして、藤原良房の養子として北家を相続した藤原基経が年配の光孝天皇の「関白」となります。この当時の摂政と関白は天皇の年齢以外に明確な区別はなく、のちに藤原忠平が朱雀天皇の成長に合わせて摂政から関白へなったことから、藤原北家が摂関政治の中心となりました。

同時に、北家は藤原氏の当主となり「氏長者」と呼ばれるようになったのです。

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この世は我が世!藤原氏最大の栄華「藤原道長」

藤原氏の摂関政治の最盛期に立った「藤原道長」。「私はこの世のすべてを手に入れた」という和歌を残すくらい、他に類を見ないほどの権力を持った時代でした。

藤原道長は最盛期を築くため、三人の娘を皇后にしていきます。まず、長女・藤原彰子を第66代一条天皇に、次女・藤原妍子をその次の第67代三条天皇に、そして、四女・藤原威子を第68代後一条天皇の皇后にしたのです。

こうして藤原道長は三代の天皇の外戚となり、後一条天皇の摂政も務めました。権力の絶頂とも言えるところまで上り詰めた藤原道長に逆らえるものなどいませんね。

また、藤原道長が摂政の座を息子の藤原頼通に譲ったことにより、摂政と関白が藤原頼通の血筋による世襲制が公認されることになったのでした。

政治のキーパーソンから代理まで。役割の変わった「摂政」

1868年の王政復古により一時は廃止されていた「摂政」ですが、その後に復活を果たし、現在にも制度として残りました。過去には幼い天皇に代わって政務を執り、強い権力を持った役職で「聖徳太子」や「藤原道長」らが勤めています。しかし、現在において天皇は主権を持たない「日本の象徴」とされているため、復活した摂政もまた政治的権限はありません。天皇に代わって国事行為のみを行う代理が摂政の仕事となったのでした。

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日本史

5分で簡単にわかる「摂政」誰がなった?何をするの?現代にもあるって本当?歴史オタクがわかりやすく解説

「摂政」というと平安時代の藤原氏のイメージが真っ先に浮かぶでしょう?それほど平安時代に摂政が活躍してきた、もしくは、摂政の座を争ったということなんです。ですが、摂政は古代からある制度で、実は聖徳太子が初じゃない。
今回はこの「摂政」について、制度と、それから歴代摂政が何をしたかを歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。日本史のなかでも古くから存在する「摂政」。今回は摂政の制度や歴代摂政について詳しくまとめた。

1.現代にもあるって本当?「摂政」のお仕事

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今回のテーマとなる「摂政」は、日本史において「天皇が幼かったり、女性であったり、病弱であったりして政務と行えない場合、天皇に代わって政務をとる役職」でした。摂政として特に知られているのは飛鳥時代の聖徳太子(厩戸王)や、平安時代の藤原家ですね。

その初代はおおよそ四世紀後半の神功皇后とされ、2022年現在、その最後に就いたのは昭和天皇です。

廃止はいつ?幕府の裏でずっと続いていた「摂政」

「摂政」と教科書によく出てくるのはだいたい平安時代のあたりでしょうか。「藤原〇〇が△△天皇の摂政として~」のように書かれていたと思います。しかし、時代が下って近世には日本史のスポットライトは朝廷から幕府へと移り変わったこともあってほとんど聞きません。ただし、耳にしなくても制度はしっかり続いています。

明確に摂政が廃止されたのは、1868年のこと。江戸幕府が朝廷へ政権を返す「大政奉還」が行われ、明治天皇が「王政復古の大号令」を発布。王政復古によって摂政、関白、そして征夷大将軍が廃止されたのです。

廃止と思ったらすぐに復活?ちょっとだけ変わった「摂政」

江戸時代から明治時代になって一度は廃止された「摂政」でしたが、1889年(明治22年)に大日本帝国憲法と旧皇室典範によって復活します。ただし、そのときの摂政は昔のようなものではありません。

明治から復活した摂政は「天皇と同じ権限を持つ」、「天皇が成人していないとき、もしくは体調不良など長期にわたって政務をとれないときに皇族のなかから摂政を選ぶ」というもの。たとえ内閣総理大臣でも皇族でなければ摂政にはなれなかったのです。

何をするの?現代に復活した「摂政」

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そして、現代において「摂政」は現行の皇室典範に「天皇が未成年であるとき、あるいは天皇が国事行為を行えないときに置く」と記されています。これは宮内庁のホームページにもありますので、気になる方はチェックしてみてください。

現代の天皇は、日本国憲法において君主としての権限を持たない「日本の象徴」です。内閣総理大臣の認証式をしても、内閣総理大臣を直接指名したりなど政治的な権限はない、と憲法にも記されました。代わりに、国事行為といって、内閣の助言と承認によって国事に関係することを行います。たとえば、内閣総理大臣の認証や文化勲章の授与などです。

現代の摂政もまた天皇と同じで、政治的な権限はなく、国事行為のみを天皇の代理で行うことが仕事となります。

\次のページで「2. 初代摂政は女性!?摂政を70年も務めた「神功皇后」」を解説!/

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