「大宰府」と聞けば、一番最初に思い浮かぶのは太宰府天満宮じゃないか?学問の神様が祀られているから、受験生にとって一度は行って拝みたい神社ですね。しかし、なんで九州に学問の神様がいるのか知っているか?これにはいろいろな事情があるんです。
今回は「大宰府」について、その役割や歴史などを歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。日本伝統芸能や文芸、文化に深い興味を持つ。今回は古くから九州に置かれ外交の歴史を見てきた「大宰府」についてまとめた。

1.7世紀から!?日本と外国の玄関口「大宰府」

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かつて、福岡県太宰府市から筑紫野市に渡る広範囲にあったとされる「大宰府」。1968年以降、その遺跡は学術調査の手が入り、さまざまなことがわかってきました。最古となるのは7世紀後半。だいたい飛鳥時代に大宰府が造られたことがわかります。しかし、いったいなぜ飛鳥時代に大宰府が必要になったのでしょうか?

「大宰府」と「太宰府」、どちらが正しいのか迷いませんか?

「大きい」と「太い」の違いで赤ペンをもらうのも悔しいですよね。実はこれ、どちらも正しく、使い分けがされているんです。「大宰府」は古代のお役所と遺跡(今回のテーマです)を指し、中世以降の地名や太宰府天満宮は「太宰府」を使います。ちなみに、文豪の「太宰治」は「太い」の方です。

大宰府の始まりは「大化の改新」の中大兄皇子!

七世紀後半の大イベントと言えば「中大兄皇子」の「大化の改新」でしょう。それまで朝廷で幅を利かせていた蘇我氏を排斥し、戸籍制度から税金徴収制度、役人の派遣制度などなど政治の大改革を行いました。

しかし、中大兄皇子の大仕事は大化の改新だけに留まりません。同時期、海を越えた朝鮮半島では高句麗、新羅、百済の三国が勢力争いを繰り広げていました。そんななか、三国のひとつ「百済」が滅ぼされてしまいます。百済は当時の大和朝廷と親密な関係を築いており、百済の遺臣たちから助けを求められては協力しないわけにはいきません。中大兄皇子は百済復興を目指して朝鮮半島への出兵し「白村江の戦い」を行う…のですが、これが惨敗を喫してしまうのです。

中大兄皇子の失敗!?「大宰府」ができたワケ

「白村江の戦い」の失敗の裏には、アジアの中心として大陸に君臨していた大国「唐」の存在がありました。当時の皇帝は高宗、皇后は悪女として有名な武則天(則天武后)です。

唐は朝鮮半島の三国のうち新羅と親睦があり、劣勢だった新羅と連合して手助けをしていました。百済はその新羅と唐の連合軍に敗れて滅んだのです。なので、大和朝廷が百済復興を目指すのなら、当然、唐と新羅の連合軍を相手どることになります。ですが、大和朝廷は唐・新羅の連合軍に大敗。

負けてしまった大和朝廷は、今度は大国「唐」からの報復と侵略を恐れるようになります。なので、対策として中大兄皇子は朝廷を内陸の近江大津宮に移し、侵略に備えて国防に力を入れはじめました。

当時、日本と外国の玄関口だったのは北九州。筑紫に水城を築き防衛拠点としました。そして、そこに「大宰府」を設置したのです。

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日本を律令国家へ変えよう!大宰府も軍事拠点から地方の政治機関へ

最初、防衛拠点のなかに置かれた大宰府ですが、701年に「大宝律令」が発布されたのを機に変わっていきます。大宝律令下で官組織が整備され、大宰府に外交官がたくさん増えました。防衛だけでなく、外交施設、つまりお役所として機能しはじめたんですね。

さらに海外の賓客を迎える迎賓館も建てられました。その場所は現在の福岡城の敷地内で、この迎賓館は平安時代には「鴻臚館(こうろかん)」と呼ばれるようになります。

さらにさらに、大宰府は軍事と外交だけでなく、九州支配を行うため行政と司法を行う官も配属されました。その権限は非常に大きく「遠の朝廷(とおのみかど)」、つまり、遠くにあるもうひとつの朝廷、と呼ばれるほどだったのです。

2.権限は強くも左遷の地?「藤原広嗣」の反乱

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「遠の朝廷」と呼ばれ、九州支配と外交としての施設を担い、強い権限を与えられた大宰府。しかし、やはりそこは都から遠く離れた地であることに変わりありません。権限はあるけれど、中央政治に口を出すことができず、物理的にも遠く離れた地ともなれば、官吏の左遷の地として申し分ないのでしょう。

なぜ?政界の中心から九州への左遷

奈良時代末、聖武天皇のころのこと。大宰府に「藤原広嗣」が左遷されてやってきます。

彼は藤原四家のひとつ式家の祖・宇合の長男でした。藤原四家は藤原氏の祖「藤原不比等(中臣鎌足の息子)」の四人の息子たちがそれぞれ興した家で、それぞれ南家、北家、式家、京家があります。

さて、その藤原家の四兄弟が最大の政敵・長屋王を自害に追いやったかと思ったときのこと。日本で天然痘が流行してしまいます。天然痘の流行は長屋王の祟りともいわれたほどすさまじく、四兄弟たちも次々と亡くなってしまったのです。

そうして、藤原家が握っていたはずの政権は橘諸兄に移り、式家の跡継ぎだった藤原広嗣は大宰府へと左遷、政治の中央から離されたのでした。

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聖武天皇大ショック!?奈良時代の大反乱「藤原広嗣の乱」

しかし、藤原広嗣は左遷されただけで終わりません。積もらせた不満を爆発させ、橘諸兄や吉備真備を除名するよう北九州で「藤原広嗣の乱」を起こしたのです。

激戦の末に乱は鎮圧されるのですが、あまりのショックに聖武天皇は五年間で三度にわたる遷都を敢行することに。さらに、大宰府自体も一時的に廃止。軍事的な機能は「鎮西府」という別の施設に移されたのです。

3.優秀なのになぜ左遷?太宰府天満宮の「菅原道真」

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藤原広嗣の乱によって一時的に廃止されていた大宰府ですが、三年後に復活しました。そして、746年には観世音寺が完成。観世音寺には「戒壇院」といって、出家した人が正式に僧侶となるのに必要な戒壇を授ける施設が設けられます。

当時、戒壇院は大宰府の観世音寺、奈良の東大寺、栃木の下野薬師寺の三か所のみしかありませんでした。そんな大事な場所が設置されるほど、大宰府は重要な場所だったんですよ。

誰が偉い?権限の強化と実権を握る人物の変化

平安時代に入り、大宰府はまずます権限を強化される一方、役職に就く人の階級が下がっていきました。つまり、階級が低くても実権を持てたということですね。さらに時代が進むと大宰府のトップ「大宰帥(だざいのそち)」は現地に赴任しないなんてことも。そうしたなか、大宰府へ赴任してきた官は土地に根付いて土着化、あるいは、土豪が官になるといったことが進みました。

政治家に学者、文人の顔を持つ「菅原道真」

平安時代前期に登場する「菅原道真」。彼の生まれた菅原家は学者の家系で、家格こそ高くないものの、菅原道真自身が非常に優秀な人物でした。幼少期より詩歌に優れ、32歳で文章博士(大学寮の教官のトップ)に任命されます。

それだけでなく、宇多天皇の側近になるなど大抜擢を受けました。遣唐使の廃止を勧めたのも菅原道真ですね。唐はアジアの大国でしたが、菅原道真が遣唐大使になったころにはすっかり情勢が荒れており、命懸けで唐に行ったところで何ができるのかと不安があったのです。それで結局、菅原道真の代で唐は滅亡。遣唐使はお役御免となったのでした。

家格以上の大出世!右大臣昇進

897年、菅原道真は「右大臣」に昇進します。右大臣は左大臣にならぶ行政のトップですから、本当に昇りつめられるところまで昇りつめたんですよ。ただ、菅原道真本人は実家の地位は高くなく、出世にあたって誹謗中傷を受けたりして辞退しようとしました。出世するにも非常に心労がかかったんですね。それでも辞退は却下されてしまい、右大臣になるほかなかったのです。

しかも、宇多天皇から次の醍醐天皇へと譲位の際、宇多天皇は醍醐天皇に引き続き菅原道真を重用し続けるよう要請しました。とても気に入られていたんです。さらに菅原道真本人も相当有能だったので手放したくなかったのでしょうね。

理不尽すぎる!菅原道真を左遷に追いやった事件

醍醐天皇のもとで右大臣として尽力していた菅原道真ですが、901年になって急に大宰府へと左遷されてしまいます。理由は、「宇多天皇を騙し、さらに醍醐天皇をやめさせて娘婿の親王を天皇にしようと画策した」というもの。…はて、右大臣を辞退しようとした人がこんなことをするでしょうか?きっと誰かが菅原道真の出世を妬んで流した嘘だったのでしょう。

しかし、この内容は謀反に近く、醍醐天皇としては許してはいけないものです。菅原道真は大宰府へと左遷となり、彼の子どもたちも流刑にされてしまいました。しかも、ひどいのが「大宰府への引っ越しは全部自腹で」「左遷後は給料ナシ」「大宰府での仕事禁止」と無茶振りにもほどがある命令を受けます。給料もなく、仕事も禁止でどうやって生きていけばよいのでしょうか。

菅原道真は大宰府に赴任するも窮地に追いやられ、わずか2年後に亡くなってしまうのでした。

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「飛梅伝説」とは
大宰府へ左遷となった菅原道真は、自宅の梅と別れを惜しんで有名な歌を詠みました。

「東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅の花、主(あるじ)なしとて春を忘るな」
(春が来たら花を咲かせなさい、梅の花よ。主(菅原道真)がいなくても春を忘れてはいけないよ。)

この歌を詠まれた梅は一晩のうちに菅原道真のいる大宰府へと飛び、その地に根を下ろしたという「飛梅伝説」となりました。この飛梅こそ、太宰府天満宮の神木として知られている梅の木です。

祟るなら祀って神様にしよう!怨霊から学問の神様へ

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不明 - http://journal.mycom.co.jp/news/2008/05/01/005/index.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

菅原道真の死から五年後のこと。都では左大臣・藤原時平が39歳で急死、さらに落雷による火事に洪水、伝染病などなど様々な災いが起こりました。人々はこれを無念のうちに亡くなった菅原道真の祟りだとして恐れるようになったのです。醍醐天皇もまたこの事態に危機感を抱き、亡くなったあとではあるものの菅原道真を再度右大臣へと復権させ、北野天満宮で祀られることになりました。

そうして、北野天満宮、太宰府天満宮などで菅原道真は学問の神様として祀られるようになったのです。

4.武士の世ではどうなった?変わり続ける大宰府

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天皇と貴族が中心となった平安時代から、武士が中心となる鎌倉時代へ移り変わると、大宰府もまた変化を余儀なくされました。大宰府の本格的な廃止です。律令制のもとで続いた機能は停止となり、500年ほど続いた大宰府は解体とあいなりました。

解体されても権威がある!大宰府から「宰府守護所」へ

解体となった大宰府ですが、歴史と権威のある機関でしたから鎌倉幕府もそれを利用しない手はありません。御家人を派遣して大宰府に「宰府守護所」を設置し、九州支配の機能を持たせました。その権威は次の室町時代、そして、戦国時代にも健在であり、大宰府を巡って戦が繰り広げられたほどです。

古代から続く九州の権威「大宰府」

七世紀後半、唐からの侵略を恐れた大和朝廷によって九州に「大宰府」が設置されました。最初こそ防衛拠点のみの役割だったのですが、時代が下るにつれ外交の窓口、そして、九州支配の役目を担うようになります。大宰府の権限は強化され続け、「遠の朝廷」と呼ばれるほどになりました。しかし、鎌倉時代になると大宰府は廃止され、代わりに宰府守護が置かれるように。宰府守護は大宰府の権威を引き続き利用しながら九州支配の一躍を継承したのです。

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平安時代日本史飛鳥時代

簡単にわかる「大宰府」!なんで九州に?いつからあるの?何の施設?歴史オタクがわかりやすく解説

「大宰府」と聞けば、一番最初に思い浮かぶのは太宰府天満宮じゃないか?学問の神様が祀られているから、受験生にとって一度は行って拝みたい神社ですね。しかし、なんで九州に学問の神様がいるのか知っているか?これにはいろいろな事情があるんです。
今回は「大宰府」について、その役割や歴史などを歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。日本伝統芸能や文芸、文化に深い興味を持つ。今回は古くから九州に置かれ外交の歴史を見てきた「大宰府」についてまとめた。

1.7世紀から!?日本と外国の玄関口「大宰府」

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かつて、福岡県太宰府市から筑紫野市に渡る広範囲にあったとされる「大宰府」。1968年以降、その遺跡は学術調査の手が入り、さまざまなことがわかってきました。最古となるのは7世紀後半。だいたい飛鳥時代に大宰府が造られたことがわかります。しかし、いったいなぜ飛鳥時代に大宰府が必要になったのでしょうか?

「大宰府」と「太宰府」、どちらが正しいのか迷いませんか?

「大きい」と「太い」の違いで赤ペンをもらうのも悔しいですよね。実はこれ、どちらも正しく、使い分けがされているんです。「大宰府」は古代のお役所と遺跡(今回のテーマです)を指し、中世以降の地名や太宰府天満宮は「太宰府」を使います。ちなみに、文豪の「太宰治」は「太い」の方です。

大宰府の始まりは「大化の改新」の中大兄皇子!

七世紀後半の大イベントと言えば「中大兄皇子」の「大化の改新」でしょう。それまで朝廷で幅を利かせていた蘇我氏を排斥し、戸籍制度から税金徴収制度、役人の派遣制度などなど政治の大改革を行いました。

しかし、中大兄皇子の大仕事は大化の改新だけに留まりません。同時期、海を越えた朝鮮半島では高句麗、新羅、百済の三国が勢力争いを繰り広げていました。そんななか、三国のひとつ「百済」が滅ぼされてしまいます。百済は当時の大和朝廷と親密な関係を築いており、百済の遺臣たちから助けを求められては協力しないわけにはいきません。中大兄皇子は百済復興を目指して朝鮮半島への出兵し「白村江の戦い」を行う…のですが、これが惨敗を喫してしまうのです。

中大兄皇子の失敗!?「大宰府」ができたワケ

「白村江の戦い」の失敗の裏には、アジアの中心として大陸に君臨していた大国「唐」の存在がありました。当時の皇帝は高宗、皇后は悪女として有名な武則天(則天武后)です。

唐は朝鮮半島の三国のうち新羅と親睦があり、劣勢だった新羅と連合して手助けをしていました。百済はその新羅と唐の連合軍に敗れて滅んだのです。なので、大和朝廷が百済復興を目指すのなら、当然、唐と新羅の連合軍を相手どることになります。ですが、大和朝廷は唐・新羅の連合軍に大敗。

負けてしまった大和朝廷は、今度は大国「唐」からの報復と侵略を恐れるようになります。なので、対策として中大兄皇子は朝廷を内陸の近江大津宮に移し、侵略に備えて国防に力を入れはじめました。

当時、日本と外国の玄関口だったのは北九州。筑紫に水城を築き防衛拠点としました。そして、そこに「大宰府」を設置したのです。

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