飛鳥時代の中頃、朝廷で大きなクーデターが起こった。その政変の中心となったのが中大兄皇子、のちの「天智天皇」です。それまで政権をほしいままにしていた蘇我氏を倒し、どんどん改革を行っていったんです。特に有名なのが「大化の改新」です。
今回はこの「天智天皇」を歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。飛鳥時代中盤、政変を起こして見事に政治をひっくり返した「天智天皇」についてまとめた。

1.飛鳥時代の大権勢・蘇我氏への反逆

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今回のテーマとなる「天智天皇」。天皇に即位する前は「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」といいました。

この名前、みなさんどこかで聞いたことがありませんか?……そう、実は飛鳥時代に行われた大改革「大化の改新」の中心人物です。もしかすると、天智天皇よりもそちらで覚えている方が多いかもしれませんね。

中大兄皇子は飛鳥時代の重要人物として申し分ありませんが、しかし、彼が大化の改新へこぎつけるまで非常に大きな障害がありました。天皇よりも巨大な権勢を誇った貴族・蘇我氏です。

次の天皇を指名!?大権力を持つ蘇我氏

飛鳥時代の中頃に権勢を誇っていた「蘇我氏」。権力は次から次へと移り変わるものですが、蘇我氏は山背大兄王(やましろのおおえのおう)をはじめとする聖徳太子の一族を滅亡させてしまうばかりか、次の天皇まで蘇我氏の一存で決めてしまえるほどの力をもっていました。かくいう天智天皇こと、中大兄皇子の父・舒明天皇もまた蘇我氏に推薦されて即位した天皇です。

蘇我氏に指名されて天皇になったなら政変なんて起こさなくても安泰ではないか?と思うかもしれませんね。ところが、蘇我馬子に推薦されて即位した崇峻天皇は後に蘇我氏と対立したために暗殺されています。たとえ天皇であっても、蘇我氏と仲良くできなければ先がないほど蘇我氏の影響力は絶大なものだったのです。当然のことながら、朝廷の実権は蘇我氏の手の中にありました。

蘇我氏への反抗!秀才・中臣鎌足と手を結ぶ

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蘇我氏の推薦により推古天皇の後継者として中大兄皇子の父・舒明天皇が即位しました。しかし、前述した崇峻天皇のように蘇我氏との関係如何によってはいつ害されるかわかりません。また、蘇我氏が推す舒明天皇を即位させるために対抗していた山背大兄王を一族もろとも自害へと追いやったおそろしい事件もあります。

このままではたとえ中大兄皇子が朝廷の重役となっても思うような政治はできないでしょう。それどころか、蘇我氏と対立することがあれば……と顔色をうかがっていかなければなりません。

そんな折、中大兄皇子は「中臣鎌足(なかとみのかまたり)」と出会います。中臣鎌足は蘇我氏第一の朝廷の中で密かに蘇我氏打倒を画策し、蘇我氏と対立できる人物を探していたのです。

ふたりは手を組み、蘇我氏を倒すべく動き出したのでした。

飛鳥時代を変えるクーデター!蘇我入鹿暗殺「乙巳の変」

中大兄皇子と中臣鎌足はさらに志を同じくする仲間を集め、大臣・蘇我入鹿暗殺を計画し、ウソの呼び出しを行って蘇我入鹿をおびき出して殺害したのです。

その後、蘇我入鹿の父・蘇我蝦夷の邸宅を包囲。蘇我氏の味方だった豪族たちは次々と中大兄皇子側に寝返り、蘇我蝦夷は自邸に火をつけて自害しました。こうして大権勢を誇っていた蘇我氏が滅亡し、新しい時代が始まったのです。

2.即位はまだ先?皇太子として「大化の改新」を

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クーデターを起こし、朝廷を牛耳っていた蘇我氏を滅亡させた中大兄皇子。母親の皇極天皇を退位させてすぐに自分が天皇になるのかと思いきや、そうはせずにまずは皇位を叔父にあたる孝徳天皇に譲って、中大兄皇子は「皇太子(皇位第一後継者)」となりました。ちなみに、腹心の中臣鎌足を大臣に匹敵する「内臣」に就任させています。

しかし、まだ皇太子とはいえ、政治の実権は乙巳の変を成功させた中大兄皇子にありました。孝徳天皇が都を飛鳥から大阪の難波宮へ移したあと、中大兄皇子はさらなる改革へと踏み出したのです。

「改新の詔」で豪族・貴族中心の政治から天皇中心の政治へ

政権を手に入れた中大兄皇子はまず年号の制定を行います。日本初となる年号は「大化」。これから行われる改革と合わせて覚えられますね。そして、孝徳天皇が難波宮へ遷都し、そこで「改新の詔」を発布しました。

改心の詔に記された政策は四つ。「公地公民」「班田収授の法」「租庸調制」「国郡里制」です。それぞれで国の仕組みを改めて、それまでの豪族を中心とした連合政権から天皇中心の中央集権の律令国家を目指したのでした。

覚えることは四つ!「改新の詔」

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「公地公民」「班田収授の法」「租庸調制」「国郡里制」がどのような政策であったのか、簡単にご紹介しましょう。

「公地公民」
すべての土地と民は天皇のもの、と定めたもの。

「班田収授の法」
戸籍を作り、それをもとに民のひとりひとりに田んぼ(口分田)を貸し与えました。六歳になった良民の男子には二段、女子はその三分の二を与えます。この口分田の収穫から税金を徴収する仕組みで、口分田を与えられた本人が死亡すると田は国に返還されました。

「租庸調制」
税金制度。「租」は口分田の収穫の3%~10%を税金として納めることを指します。「傭」は都で無賃で労働を行って納めました。「調」は各地の特産物を税として納めます。

「国郡里制」
全国を約60の国に分けました。国のなかをさらに郡、その下を里として細かく分けます。国、郡、里にそれぞれのトップとして国司、郡司、里長を置いて土地をまとめさせました。現在で言うところの都道府県のような行政区画の制度ですね。

\次のページで「3.皇太子の地位は安泰じゃない?天智天皇が即位するまで」を解説!/

3.皇太子の地位は安泰じゃない?天智天皇が即位するまで

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皇太子として政治の主導にあたっていた中大兄皇子でしたが、まったく敵がいないわけではありません。孝徳天皇には息子の有間皇子という有力な対抗馬となりうる人物がいたのです。

飛鳥へは戻らない!孝徳天皇と中大兄皇子の仲違い

孝徳天皇は中大兄皇子から強く推薦されて即位した天皇です。即位後、中大兄皇子および臣下に忠誠を誓わせはしましたが、その後の「大化の改新」など政治の中心人物は中大兄皇子でした。

ふたりの仲が裂けたのは、孝徳天皇が造営した大阪の難波宮から飛鳥へ都を戻すよう中大兄皇子から求められたことに始まります。孝徳天皇はこの要求をつっぱねて、難波宮を引き続き都としようとしました。

天皇の命令は聞き入れられるもの……だと思いますよね。ところが、中大兄皇子は孝徳天皇を無視して家臣たち、それに孝徳天皇の皇后まで連れて飛鳥へ帰ってしまったのです。

信じていた家臣たち、さらには自分の妻まで中大兄皇子と共に難波宮を去ってしまったのですから、その悲しみは想像を絶するものでしょう。すっかり気落ちした孝徳天皇は病気になってしまい、そのまま崩御してしまいました。

皇太子の地位を安泰に。有力な対抗馬・有間皇子の処刑

功徳天皇の崩御を受け、今度こそ中大兄皇子が即位する……のではなく、母の皇極天皇が重祚(一度退位した天皇がもう一度天皇に即位すること)して「斉明天皇」となりました。

一方、孝徳天皇の息子の有間皇子は、父と中大兄皇子の一件もあって政治争いに巻き込まれないように病気と偽って都から離れていました。ところがその後、病気が完治したとして都に戻った際に蘇我赤兄(そがのあかえ)が接近。そこで蘇我赤兄は有間皇子の味方だと言ったことで気を良くしてしまった有間皇子は、彼に挙兵して中大兄皇子を倒す意思があることを伝えてしまいます。

これが有間皇子の失敗でした。蘇我赤兄は、有間皇子の謀反を中大兄皇子に密告したのです。この密告によって有間皇子は逮捕され、処刑されてしまいます。

こうして中大兄皇子は他の有力者たちを排除し、皇太子としての地位を固くしていったのでした。

日本最初の対外戦争!?朝鮮への出兵「百済の役」

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日本に仏教が伝来されたのは538年。朝鮮半島にあった「百済(くだら)」の聖王から釈迦仏像や経論が贈られたことにはじまりました。それほど日本は百済と親密な関係にあったのですが、その百済が当時のアジアの大国「唐」によって滅ぼされてしまいます。

百済とはとても仲の良かった日本は、その後、滅ぼされた百済の遺臣たちの要請で百済復興に力を貸すことに。しかし、百済の復興の障害となるのが大国・唐です。案の定、日本は唐との戦いに挑むことになったのでした。

しかし、その戦況は非常に悪く、朝鮮半島への出立を目前にして斉明天皇が崩御。さらに日本と百済の連合軍は仲間割れを起こし、「白村江の戦い」で唐に大敗を喫してしまいました。これによって百済の復興は不可能となります。

こうして日本で初めての対外戦争は失敗に終わりました。その後は唐との関係修復のために遣唐使を派遣したりしています。

\次のページで「天智天皇即位して唐の侵略に備えよう!防御施設の建設」を解説!/

天智天皇即位して唐の侵略に備えよう!防御施設の建設

「百済の役」でめっためたにやられてしまった日本は唐の強さと恐ろしさを知ることになりました。「このままでは、海を越えて日本に唐が侵略してくるかもれない!」そう考えた中大兄皇子は海から遠い近江大津宮(滋賀県大津市)に遷都します。

さらに斉明天皇の崩御後、しばらく空いていた皇位にようやく即位して668年に「天智天皇」となりました。ちなみに、その翌年、中臣鎌足が亡くなる前日に「藤原」姓を下賜したとされます。

天智天皇は唐の侵略を恐れたとされ、日本とアジア大陸の当時の玄関口だった北九州の太宰府に堀と土塁で造った「水城(みずき)」という防衛施設を建設。大勢の「防人(さきもり)」も配備して備えました。

こうしてがっちり守りを固めたわけですが、一方の唐は朝鮮半島の新羅に裏切られて戦うことになったので、日本に攻めてくることはありませんでした。

4.次の天皇は誰?後継者争いの火種を撒いてしまった晩年

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「天智天皇」として即位したからには、今度は空いた後継者の座を埋めなければなりません。天智天皇は最初、弟の「大海人皇子(おおあまのおうじ)」を皇太弟としていました。

しかし、天智天皇の気持ちは次第に「息子を天皇にしたい」という方向へ傾いてしまっていたのでしょう。息子・大友皇子を日本史上初の「太政大臣」に任命します。当時、新しく作られたばかりの「太政大臣」は天皇の共同統治者や政治の代行者、さらには有力な後継者の位置づけにあると考えられました。

つまり、皇太弟・大海人皇子がいるにもかかわらず、息子の大友皇子に後継者と同じレベルの地位を与えたわけですね。

後継者問題の火種爆発!天智天皇の崩御

大海人皇子と大友皇子の間に皇位継承者問題が浮き彫りになる最中、天智天皇は重病にかかって倒れてしまいました。病床の天智天皇はそこで弟の大海人皇子を呼び出して、天皇になってほしいと頼んだといいます。

しかし、前述の大友皇子との問題もありますから、大海人皇子にも思うことはたくさんあったのでしょう。大海人皇子は天智天皇の申し出を断り、飛鳥を出て吉野へ。そこで出家して僧侶となり、政治から遠ざかろうとしました。ところが、多くの近臣たちが大海人皇子について吉野へ行ってしまったことで、吉野に二つ目の朝廷と言えるほどの勢力が集まってしまったのです。

こうした最中に天智天皇がいよいよ崩御してしまいます。そうすると、吉野の大海人皇子が挙兵して、大友皇子と戦うことになりました。これを「壬申の乱」といい、乱に勝利した大海人皇子は「天武天皇」となったのでした。

新体制で大化の改新で天皇中心の政治を目指した「天智天皇」

「乙巳の変」を起こして蝶って言を牛耳っていた蘇我氏を排除した中大兄皇子こと、「天智天皇」。政変後は皇太子となり、「大化の改新」を発布して国の仕組み、そして、旧来の豪族主体の政治から、天皇が中心となる中央集権国家を目指しました。皇太子としての地位を盤石にし、日本初となる対外戦争「百済の役」に挑みます。百済の役こそ大敗に終わったものの、唐の侵略に備えて北九州に防衛施設を建設。一方で、唐と関係修復のため遣唐使の派遣も忘れません。
しかし、晩年は弟・大海人皇子と息子・大友皇子との間で後継者争いの火種を作り……と、飛鳥時代の重要トピックに多く名前を残す人物でしたね。

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日本史飛鳥時代

5分で簡単にわかる「天智天皇」あの中大兄皇子が天皇に?新時代のリーダー誕生か?歴史オタクがわかりやすく解説

飛鳥時代の中頃、朝廷で大きなクーデターが起こった。その政変の中心となったのが中大兄皇子、のちの「天智天皇」です。それまで政権をほしいままにしていた蘇我氏を倒し、どんどん改革を行っていったんです。特に有名なのが「大化の改新」です。
今回はこの「天智天皇」を歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒にわかりやすく解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は義経をテーマに執筆。大河ドラマや時代ものが好き。飛鳥時代中盤、政変を起こして見事に政治をひっくり返した「天智天皇」についてまとめた。

1.飛鳥時代の大権勢・蘇我氏への反逆

Emperor Tenji.jpg
Published by 東京造画館 (“Tokyo Drawing Pavillion”, if translated literally) – “古今偉傑全身肖像”, パブリック・ドメイン, リンクによる

今回のテーマとなる「天智天皇」。天皇に即位する前は「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」といいました。

この名前、みなさんどこかで聞いたことがありませんか?……そう、実は飛鳥時代に行われた大改革「大化の改新」の中心人物です。もしかすると、天智天皇よりもそちらで覚えている方が多いかもしれませんね。

中大兄皇子は飛鳥時代の重要人物として申し分ありませんが、しかし、彼が大化の改新へこぎつけるまで非常に大きな障害がありました。天皇よりも巨大な権勢を誇った貴族・蘇我氏です。

次の天皇を指名!?大権力を持つ蘇我氏

飛鳥時代の中頃に権勢を誇っていた「蘇我氏」。権力は次から次へと移り変わるものですが、蘇我氏は山背大兄王(やましろのおおえのおう)をはじめとする聖徳太子の一族を滅亡させてしまうばかりか、次の天皇まで蘇我氏の一存で決めてしまえるほどの力をもっていました。かくいう天智天皇こと、中大兄皇子の父・舒明天皇もまた蘇我氏に推薦されて即位した天皇です。

蘇我氏に指名されて天皇になったなら政変なんて起こさなくても安泰ではないか?と思うかもしれませんね。ところが、蘇我馬子に推薦されて即位した崇峻天皇は後に蘇我氏と対立したために暗殺されています。たとえ天皇であっても、蘇我氏と仲良くできなければ先がないほど蘇我氏の影響力は絶大なものだったのです。当然のことながら、朝廷の実権は蘇我氏の手の中にありました。

蘇我氏への反抗!秀才・中臣鎌足と手を結ぶ

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蘇我氏の推薦により推古天皇の後継者として中大兄皇子の父・舒明天皇が即位しました。しかし、前述した崇峻天皇のように蘇我氏との関係如何によってはいつ害されるかわかりません。また、蘇我氏が推す舒明天皇を即位させるために対抗していた山背大兄王を一族もろとも自害へと追いやったおそろしい事件もあります。

このままではたとえ中大兄皇子が朝廷の重役となっても思うような政治はできないでしょう。それどころか、蘇我氏と対立することがあれば……と顔色をうかがっていかなければなりません。

そんな折、中大兄皇子は「中臣鎌足(なかとみのかまたり)」と出会います。中臣鎌足は蘇我氏第一の朝廷の中で密かに蘇我氏打倒を画策し、蘇我氏と対立できる人物を探していたのです。

ふたりは手を組み、蘇我氏を倒すべく動き出したのでした。

飛鳥時代を変えるクーデター!蘇我入鹿暗殺「乙巳の変」

中大兄皇子と中臣鎌足はさらに志を同じくする仲間を集め、大臣・蘇我入鹿暗殺を計画し、ウソの呼び出しを行って蘇我入鹿をおびき出して殺害したのです。

その後、蘇我入鹿の父・蘇我蝦夷の邸宅を包囲。蘇我氏の味方だった豪族たちは次々と中大兄皇子側に寝返り、蘇我蝦夷は自邸に火をつけて自害しました。こうして大権勢を誇っていた蘇我氏が滅亡し、新しい時代が始まったのです。

2.即位はまだ先?皇太子として「大化の改新」を

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クーデターを起こし、朝廷を牛耳っていた蘇我氏を滅亡させた中大兄皇子。母親の皇極天皇を退位させてすぐに自分が天皇になるのかと思いきや、そうはせずにまずは皇位を叔父にあたる孝徳天皇に譲って、中大兄皇子は「皇太子(皇位第一後継者)」となりました。ちなみに、腹心の中臣鎌足を大臣に匹敵する「内臣」に就任させています。

しかし、まだ皇太子とはいえ、政治の実権は乙巳の変を成功させた中大兄皇子にありました。孝徳天皇が都を飛鳥から大阪の難波宮へ移したあと、中大兄皇子はさらなる改革へと踏み出したのです。

「改新の詔」で豪族・貴族中心の政治から天皇中心の政治へ

政権を手に入れた中大兄皇子はまず年号の制定を行います。日本初となる年号は「大化」。これから行われる改革と合わせて覚えられますね。そして、孝徳天皇が難波宮へ遷都し、そこで「改新の詔」を発布しました。

改心の詔に記された政策は四つ。「公地公民」「班田収授の法」「租庸調制」「国郡里制」です。それぞれで国の仕組みを改めて、それまでの豪族を中心とした連合政権から天皇中心の中央集権の律令国家を目指したのでした。

覚えることは四つ!「改新の詔」

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「公地公民」「班田収授の法」「租庸調制」「国郡里制」がどのような政策であったのか、簡単にご紹介しましょう。

「公地公民」
すべての土地と民は天皇のもの、と定めたもの。

「班田収授の法」
戸籍を作り、それをもとに民のひとりひとりに田んぼ(口分田)を貸し与えました。六歳になった良民の男子には二段、女子はその三分の二を与えます。この口分田の収穫から税金を徴収する仕組みで、口分田を与えられた本人が死亡すると田は国に返還されました。

「租庸調制」
税金制度。「租」は口分田の収穫の3%~10%を税金として納めることを指します。「傭」は都で無賃で労働を行って納めました。「調」は各地の特産物を税として納めます。

「国郡里制」
全国を約60の国に分けました。国のなかをさらに郡、その下を里として細かく分けます。国、郡、里にそれぞれのトップとして国司、郡司、里長を置いて土地をまとめさせました。現在で言うところの都道府県のような行政区画の制度ですね。

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